NHKスペシャル 満蒙開拓団 はこうして送られた を見て 青山貞一 2006年9月13日 独立系メディア E-wave Tokyo |
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以前、NHK総合テレビで「なぜ日中戦争は拡大したのか」と言うきわめて秀逸なスペシャル番組があった。 さて、今日2006年9月13日のNHKデジタルハイビジョンで「満蒙開拓団はこうして送られた〜眠っていた関東軍将校の資料〜」と題するNHKスペシャルが放映された。 ちなみにNHK総合では2006年8月11日(金)午後10時〜10時49分に放映されているが、こちらは放映時間がわずか49分となっているので、13日のデジタルハイビジョンの方が格段に内容が子細である。またNHK総合の「日中戦争」は1時間15分の特番であり、今回の「満蒙開拓団」は2時間とさらに長編となっている。 今回のスペシャルの主題は、中国残留孤児がなぜ生まれたのかにつき、具体的な証拠をもとに歴史考証するのだが、同時に、満蒙開拓団がいかに計画され実行されたか、についても関東軍将校らの資料をもとに例証することにあったと思える。 まずNHKの番組紹介によれば、次のようになる。 今から75年前の1931年、満州事変勃発。その翌年から第一次満蒙開拓団の移住が始まる。それは、構成員が銃砲を装備した武装開拓団だった。ソ連との国境付近に配置された防衛軍の役割も担っていたのである。 この派遣計画は、「満蒙開拓の父」といわれた関東軍将校東宮鉄男らを中心に練られた。 関東軍将校東宮鉄男 出典:満蒙開拓団はこうして送られた〜眠っていた関東軍将校の資料〜 その東宮の移民計画書や直筆の日記など、貴重な資料の公開が遺族から許可された。王道楽土や五族協和、夢の別天地の名のもと、満州に27万人が渡り、中国残留孤児など多くの悲劇を生んだ開拓団の移住は、日本の国策としてどのように計画され、どのように実行に移されたのだろうか。 当時の政府と軍の計画決定の過程を新資料と証言で検証していく。 ということになる。
出典:満蒙開拓団はこうして送られた〜眠っていた関東軍将校の資料〜 満蒙開拓団の計画者、東宮らによって当初、500人規模ではじまった開拓団員は、その後の計画では、実に500万人規模の日本人を現地に送り出す予定であった。 送り出された最初の500人による第一次開拓団員だが、下は昭和8年4月の第一次移民団の入植後の写真である。入植地は弥栄村と名付けられた。 しかし、重労働と武装勢力へ襲撃に備える緊張が入植者の体力を奪って行く。大腸カタル、アメーバ赤痢、風土病などにより500人の第一次入植者のうち300人以上が病気を抱えていた。精神的にも追い詰められ屯崑病(とんこんびょう)と呼ばれた。 出典:満蒙開拓団はこうして送られた〜眠っていた関東軍将校の資料〜 昭和8年4月の第一次開拓団員 このように異境の寒冷地での極度な重労働、元々いた中国人の土地を事実上奪い取ったこと、それに、武装勢力へ襲撃に備える緊張などから移民団は行き詰まり、入植後3ヶ月の7月、移民団の怒りが爆発しました。移民団は拓務省にあて決議文を出すまでに至った。 これに対し東宮と加藤らが対応に当たるものの団員らの怒りはおさまらなかった。 にもかかわらず日本からは、約30万人の貧しい地域の日本人が送り出されていくのであるる。 満蒙開拓団などによる移住政策の結果、下の地図にあるように多くの日本人がロシアとの国境付近まで移住することになった。新京は、満洲国の首都である。新京は現在の中華人民共和国吉林省長春市にあたる。 出典:満蒙開拓団はこうして送られた〜眠っていた関東軍将校の資料〜 ちなみにこの満蒙開拓団計画を推進した東宮はその後、日中戦線で戦死するが、その葬儀には、当時の総理大臣、東条英樹などともに、岸信介も名を連ねている。 周知のように、岸信介は満州国を実質的に支配していた以下の5人の一人である。
関東軍の計画は先住中国人を中国東北部一帯から追い出し、傀儡国家、満州国をソ連の攻撃から守る最前線に農耕兵士として配置するというもので、ことのはじめから無謀極まりないものであり、日本政府も当初、それに慎重となる。 しかし、5.15事件後、軍におされ広田内閣は昭和11年3月、閣議決定で100万世帯、500万人の満州への移住計画を決める。 出典:満蒙開拓団はこうして送られた〜眠っていた関東軍将校の資料〜 しかし、5.15事件以降、日中戦争同様、軍部(この場合は関東軍)が実権を握り、天皇(昭和天皇)に嘘をついて計画を推し進めるのである。 終戦直後、ソ連が満州に進行し、関東軍は上記の満蒙開拓団の農民らを見捨て、自らさっさと日本に帰国、残された開拓団の1/3強に相当する8万人が自決を含め死亡した。そのうち、ソ連軍や中国側に殺された者以外に、関東軍など日本兵が満蒙開拓団員である日本人を多数殺戮したという事実も番組で開陳されている。
死んだ者以外の人々のうち、日本に帰国できたひと、ソ連経由で帰国した人もいるが、その多くは残留孤児として結果的に中国人家族に引き取られ今日に至っている。 だが、残留孤児に対してはつい20年前まで日本政府はきわめて冷淡な対応、すなわち日本に受け入れ家族がいない残留孤児の帰国は認めないとされてきた。 今回のNHKスペシャルは、現在、全国各地で進められている国を相手取っての残留孤児による(1)謝罪,(2)生活保証についての裁判への重要資料たりうるものである。 関東軍など軍部の独走による中国侵略、満州国の建国、満蒙開拓団計画がいかに常軌を逸したものであるかを事実を関東軍幹部の日記、資料、満鉄、その関連会社の内部極秘資料などをもとに例証している。 その意味で、このスペシャルは先の「なぜ日中戦争は拡大したのか」の前編をなすものとして見ると、日本国とはいかなるものかがことことさようによく理解できる。 ところで、私が58年近く住んでいる品川区小山3丁目(通称、武蔵小山商店街、東急目黒線武蔵小山駅)では、その昔約1000人が満蒙開拓団に参加し、800余名が亡くなった歴史がある。 近所のお婆さんからよく荏原村満蒙開拓団の悲しい話を聞かされた。42年前にガンで亡くなった父も満蒙開拓団員に誘われたそうだが、体が弱かったこともあり参加しなかったそうだ。91歳になる母に聞くと、多くの女性団員はあるとき性的虐待や辱めを受けるくらいならと、毒を飲んで集団で自決の道を選んだそうです。 満蒙開拓団に行き、帰らぬ人となった人々の慰霊碑が朗惺寺と言うお寺にある。自宅から100mも離れていない場所だ。 私が生涯、「反戦」「非戦」に徹底しているのには、いくつかの理由があるが、幼少の頃から聞かされたこの満蒙開拓団の悲しい歴史もその一つとなっている。 また長野県南部のいわゆる南信地域からは多くの満蒙開拓団にかり出され、その多くは死亡している。事実、今回のスペシャルでは飯田市の現地取材、すなわち生き残ったお年寄りの発言が多くあるのはそのためだ。 なお、下の図は日本全国から満蒙開拓団として行った移民数である。見て分かるように圧倒的多くが長野県から出ている。 出典:時論公論 「"満蒙開拓団"の史実に学ぶ」 菊地 夏也 解説委員 2013年08月17日 (土) なお、満蒙開拓団については、以下が参考になります。 ◆時論公論 「"満蒙開拓団"の史実に学ぶ」 菊地 夏也 解説委員 2013年08月17日 (土) |