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2007年2月12日(初日)午後
羽田から那覇空港に降り立ったのが2月12日の午後11時過ぎ、空港近くでレンタカーを借りた後、最初に沖縄本島の最南部、糸満市にあるひめゆりの塔に向かった。
現地調査の本題と直接関係はないが、やはりこの地を訪れなければ、沖縄を理解することはできないだろう。宇都宮さんは高等学校の修学旅行で山口県の萩市からひめゆりの塔などに来たという。なかなかすばらしい高校だ。
那覇空港から県道331号にそって南下すると、忽然と
ひめゆりの塔が現れる。
図3 ひめゆりの塔の位置
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ひめゆりの塔
ひめゆりの塔は、沖縄戦末期の激しい戦闘(いわゆる沖縄戦)でほぼ全滅した沖縄陸軍病院第三外科壕の跡に立つ慰霊碑だ。糸満市にある。
写真7 ひめゆりの塔記念碑
当時、沖縄の総人口の1/3以上が死亡したと推定されるいわゆる沖縄戦について以下に記す。
沖縄戦とは
沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄に上陸した米軍と日本軍との間で行われた地上戦。
これは民間人を巻き込んだ日本国内での最大規模の地上戦であり、また日米最後の組織的戦闘となった。
沖縄戦は1945年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月23日の日本陸軍第32軍の壊滅で終了した。
アメリカ軍の作戦名はアイスバーグ作戦。
大規模な戦闘は沖縄島で行われた。米軍の作戦目的は本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であり、日本軍のそれは本土決戦への時間稼ぎ。いわゆる「捨て身作戦」(出血持久作戦)であった]。
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沖縄戦は第二次世界大戦における、日本国内(マリアナ諸島および占領地域を除く)で民間人を巻き込んだものとしては最大の地上戦である。
また、民間人の犠牲者が戦闘員の死者よりも多かったのもこの戦闘の特徴である。
沖縄県生活福祉部援護課が1976年3月に発表したところによると、日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄県出身者12万2228人のうち9万4000人が民間人とされている。
負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は1万2520人で、負傷者7万2千。
ただし、日本側の死者数は戸籍が焼失したり一家全滅が少なくないなどの事情により全面的な調査は行われていないため、実数はこれを大きく上回るという指摘がある。
現在は死者20万人を超えており、未だに数多くの遺骨が見つかっていない。
当時の沖縄県の人口は約45万人と推計されており(沖縄タイムスによる)、少なくとも県民の3人に1人が死亡したことになる。
また、激戦地となった南部地域ではいくつもの集落で住民が全滅もしくは住民の半数近くが死亡するなどで人口が激減したため、合併を余儀なくされた村もある。
使用された銃弾の数は、アメリカ軍側だけで750万発。
このほか、砲弾6万18発と手榴弾39万2304発、ロケット砲弾2万359発、機関銃弾約3000万発弱が発射された(数値は、ジョージ・ファイファー『天王山』による)。
また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄では鉄の雨や鉄の暴風などと呼び、また英語では、the Typhoon of Steelと呼ぶ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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以下に沖縄戦の総括表を示す。わずか3ヶ月の間に沖縄本島で20万人以上の人々が死亡した最大規模の地上戦であったことがわかる。
表2 沖縄戦、総括表
沖縄戦 |
戦争: 太平洋戦争(大東亜戦争) |
年月日: 1945年3月26日-6月23日 |
場所: 沖縄本島 |
結果: アメリカの勝利 |
交戦勢力 |
大日本帝国(沖縄守備軍) |
アメリカ合衆国(第10軍) |
指揮官 |
牛島満中将 |
サイモン・B・バックナー中将 |
戦力 |
兵員 116,400人 |
兵員 548,000人 |
損害 |
死者・行方不明者
188,136人(民間人を含む) |
死者・行方不明者
12,520人 |
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
写真8 ひめゆりの塔記念碑
図4は、その沖縄戦の戦闘経緯である。
沖縄戦は1945年3月26日、慶良間島に米軍が上陸するが、その後4月1日に沖縄本島に米軍がはじめて上陸する。
そして名護には4月6〜7日、最後が本島南部、現在の糸満市で6月21日となっている。
このように我が国で唯一の激しい地上戦となった沖縄戦のなかでも、
ひめゆりの塔がある沖縄本島最南端は、最後の最後の地上戦、それも激しい地上戦となった場所である。
これら沖縄戦では約3カ月で、軍民20数万の死者を出す筆舌に尽くせない凄まじさであり、沖縄の風景を一変させたとさえ語り継がれている。
図4 沖縄戦の戦闘経緯:
出典:沖縄県平和祈念資料館
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、ひめゆりの塔の名前の由来は以下の通りである。
慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなむ。
「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、もとは「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになった。
「塔」と名はついているが、実物は高さ数十センチメートルでそれほど高くはない。
これは、終戦直後の物資難な時代に建立された事と、アメリカ軍統治下に建立されたという事情によるものである。
また、この種の慰霊碑は、沖縄には非常に多くあり、ひめゆりの塔はそれらのうちで一番古いものではない(最古のものは、ひめゆりの塔と同じく金城夫妻らが米須霊域に建てた「魂魄の塔」(こんぱくのとう)であるとされている)。
しかし、1949年に石野径一郎によって碑に関する逸話が小説化されると、直後に戯曲化され、さらに同名の映画がつくられ有名となった。沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、現在でも参拝する人が絶えない。
ひめゆりの塔から外科壕跡を挟んだ奥には慰霊碑(納骨堂)が建てられており、さらに、その奥には生存者の手記や従軍の様子などを展示した「ひめゆり平和祈念資料館」がある。また、敷地内や隣地には沖縄戦殉職医療人の碑など複数の慰霊碑や塔が建てられている。
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また、ひめゆりの塔ができた歴史的経緯は、ウィキペディアによれば以下の通りである。
1945年3月24日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。
しかしその後激しい戦闘が続き、日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退した4月24日頃には山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされるようになったため、5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜んだ。
この際患者を収容する壕が確保できなかったために負傷兵は原隊への復帰が命じられ、病院としての機能は失われていたという。
戦局が絶望的になると、6月18日、学徒隊は解散を命じられる(看護婦採用試験合格者を除く)。しかし、既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味した。
最も被害を受けたのは第三外科壕の学徒隊である。第三外科壕は19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した。さらに壕の生存者9名のうち教師1名と生徒3名は壕脱出後に死亡した。従って、第三外科壕にいたひめゆり学徒隊のうち沖縄戦終結まで生き残ったのはわずかに生徒5名のみである。
第一外科壕、第二外科壕は、アメリカ軍の攻撃を事前に察知し、19日未明までに地下壕から脱出した(そのうちの一部は第三へ避難)。しかしこれらの学徒隊もその後の激しい戦闘で多くが死亡した。
職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名であるが、このうち解散命令以後に死亡したのは117名で全体の86%にものぼり、さらにわかっているだけでも全体の35%にあたる47名が第三外科壕に攻撃があった6月19日に亡くなっている。
戦後、戦死した生徒の親である金城和信らによって壕が発見される。その後、アメリカ軍によってこの地に住むことを命じられて住んでいた真和志村人らによって遺骨が集められ、4月に慰霊碑が建てられた。
ひめゆり学徒隊という名称は動員当時から存在したが、兵士らにとっては所属校がどこであるかはほとんど問題にならなかったので、実際にはこの呼称はほとんど用いられず、学生さん、学徒、などと呼ばれていたという。
なお、ひめゆり学徒隊以外にも他の学校の生徒を集めて作られた学徒隊は別にあり、それぞれ所属校にちなんだ名称がついていた(県立首里高等女学校のずゐせん学徒隊などが有名)。これらの学徒隊もほぼ同様の運命をたどり、それぞれの名にちなんだ慰霊碑が建てられている。
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写真9 ひめゆり学徒が沖縄南部で移動した経路図
なお、沖縄戦では、かずかずの
民間人保護の失敗 があったとされている。たとえば、
「友軍」による住民虐殺を以下に示す。
「友軍」による住民虐殺
生存者の中には「日本兵のほうがアメリカ兵より怖かった」「『捕まったら強姦されるか殺される』と聞いていたのに優しくしてもらえて驚いた」などと証言する者が多くいる。
南部に現存する「轟の壕」では、「泣き声で敵に発見される」という理由で壕内で幼児を虐殺するなどをしたうえ、投降を警戒した兵士が住民を奥に追いやって監視をしたため大量の餓死者が発生し、また危険が迫ると逆に住民を入口付近において盾にした挙げ句馬乗り攻撃で多数の犠牲が出た。
そのため、投降した住民がアメリカ軍に「日本の兵隊を生かしますか?」と問われて「殺せ!」と答えたという。読谷村では、山中に潜んでいた日本軍がアメリカ軍保護下の住民を連れ出して虐殺するという事件があったという。
しかし、アメリカ軍によって保護された住民が収容された収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく、「飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった」という。
また、終戦後のアメリカ軍も日本人を軽く扱い、アメリカ兵による強姦や殺人などの事件が日本へ沖縄領土が返還されるまで多数起きており、沖縄領土が返還されてからはアメリカ兵による事件が少なくはなったものの後を絶たないのが現状である。
このように、結果として沖縄戦は民間人に甚大な被害をもたらす悲惨きわまりないものとなり、また「友軍」と呼んで期待していた日本軍に捨て石にされたという想いもあってこの遺恨は今日も続いている。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ただし個々の証言の出典について疑義が出ていることを付記しておく。
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平和祈念資料館
ひめゆりの塔の近くに下の写真にある平和祈念資料館がある。
平和祈念資料館は、「第二次世界大戦で貴い命を失ったすべての人々に哀悼の意を表すとともに、悲惨な戦争の教訓を後世に伝え、世界の恒久平和の実現に寄与するため」に平和祈念公園内に設置された資料館である。
内部は写真撮影が禁止されているが、資料館内部には、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校から学徒動員され亡くなった女学生らの顔写真やプロフィールが展示されている。これらについては、以下のオフィシャルサイトをご覧頂きたい。
※ひめゆり平和祈念資料館オフィシャルサイト
写真10 ひめゆり平和祈念資料館
写真11 ひめゆり平和祈念資料館
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平和祈念公園
ひめゆり平和祈念資料館を後に、県道331号線を東に進むと、平和祈念公園に到着する。この平和祈念公園は、ひめゆりの塔などを含め沖縄戦跡国定公園の一部である。
表3 平和祈念公園概要
位置 |
糸満市摩文仁 |
種別 |
広域公園 |
テーマ |
戦跡・参拝=慰霊 |
計画面積 |
47.0ha |
供用面積 |
34.55ha |
出典:沖縄県
平和祈念公園を含む沖縄戦跡国定公園は、沖縄県本島南端部、糸満市と八重瀬町にまたがり、第二次世界大戦の沖縄戦の戦跡と自然景観をもつ国定公園となっている。
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沖縄平和祈念公園全体図 出典:沖縄県
写真12 平和祈念公園内の「平和の礎」 出典:沖縄県
国立沖縄戦没者墓苑は、18万余柱の遺骨が安置されている納骨・慰霊施設である。1979年(昭和54年)2月に建立された。赤瓦が葺かれた参拝所と石を積み上げた琉球墳墓風の納骨堂、それを囲む広場からなる。近くには各府県や各種団体の慰霊碑・慰霊塔が多数建立されている。
戦没者墓苑には、日本全国各地から沖縄戦に参加し死亡したひとびとの墓もある。
写真13 平和祈念公園
写真14 平和記念公園の駐車場近くにあった
大きな風力発電装置
平和祈念公園を視察した後、沖縄高速道を使い名護市許田ICを経由し、一路、本部の半島の最西端にあるホテル・マハイナに向かった。最南端の平和祈念公園からホテル・マハイナまでは高速を使って約1時間40分かかった。
つづく