スコットランド独立の背景 (4)中世スコットランドの形成 青山貞一 Teiichi Aoyama September 9 ,2014 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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※独立系メディアの<スコットランド>スレッド ◆中世スコットランドの形成 参考出典:Wikipedia スコットランドの王朝は、統一アルバ王国の成立によって始まる。 アルバ王国、すなわちスコットランド王国は、イングランドとの勢力争いおよびスコットランド独立戦争をへて、ひとつの王国としてまとまりを見せた。この時期のスコットランドは、ヨーロッパから流れ込んでくる人々の影響のもと、ヨーロッパ化が進んだ。
アルバ王国の地域区分 灰色:王領地 黄色:封建諸侯の領地 茶色:氏族または王の支配に浴さないと考えられている地域 出典:Wikipedia 統一アルバ王国の成立 いまに伝わるケネス・マカルピンの伝説は、アルバ王国がどのようにして成立したかを説明している。それによれば、アイルランドから渡ってきたスコット人のダルリアダ王国が、東のアルバ王国を征服し、ケネス・マカルピンはケネス1世としてアルバ王国の王位についたとされる。 しかし、両者を比較したとき、ダルリアダ王国の劣勢はあきらかであり、この伝説の信憑性は低いとされている。また、最近の研究ではケネス1世没後、ピクト人の王があとを継いだと考えられている。 一方、スコットランド南西部は、638年ごろからアングル人のバーニシア王国ついでノーサンブリアの勢力下にあった。
この地方がスコットランドに組み入れられるのは、1018年のマルカム2世の征服によってであった。このころにはオークニー諸島・ケイスネス・サザランドといった北部地域を除き、スコットランド王朝の支配下にあった。北部や島嶼地域は依然ノース人の勢力圏になっていた。 このころ確立されたタニストリーという王位相続制度によって、スコットランドは二つの家系が交互に王位を継承していた。タニストリーは王の生前から後継者を決めてあるため、後継者にしてみれば王の早逝が望ましかった。結果、王の暗殺事件が頻発することになる。戯曲「マクベス」は、こうした社会的背景によって起きた事件の物語である。 アーブロース宣言 ノルマン・コンクエストに始まる外との接触は、スコットランド史に新たな展開をもたらした。ひとつにはイングランドとの勢力争いが顕在化したこと、もうひとつは多様な民族の流入と社会・文化の変化である。 ウィリアム1世らイングランド諸王はノルマン・コンクエストの延長としてスコットランドにたびたび侵攻し、ときにはスコットランドを屈服させることもあった。このころからイングランドとの抗争が日常化し、双方の境界線はハドリアヌス長城を上下した。エドワード1世のスコットランド侵攻とウィリアム・ウォレスの抵抗も、その文脈の中で起こった事件だった。 スコットランドは対イングランド戦略の必要性からフランスと「古い同盟」を結んで対抗した。 その後しばらくフランスとは友好関係を維持するが「古い同盟」はフランスの属国化を意味する体制でもあった。エドワード1世の征服により1296年イングランドに屈服して、王座のシンボルであったスクーンの石を奪われた。しかし、10年後、ウィリアム・ウォレスらが反乱をおこして独立戦争がおこった。この戦争は曲折をへて1318年には実質的独立を達成し、1328年になってイングランドとの和約も成立した。 このとき有力諸侯によって採択され、ロバート1世が承認したアーブロース宣言(1320年)は、マグナ・カルタのごとく、その後のスコットランドの統治の根幹をなす宣言となった。いわく、イングランドに従属する王は人々の手によって斥けられるとする。この宣言はのちのちまでスコットランドの政治を左右し、国王への権力集中を防ぐ効果をもたらした。
上記の独立戦争と独立宣言については次章のスコットランド独立戦争に詳述する! つづく |