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スコットランド独立の背景

(6)独立とスチュアート王朝

青山貞一 Teiichi Aoyama

September 5 ,2014
Alternative Media E-wave Tokyo
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 1314年  バノックバーンの闘い(ブルース・ザ゙・ロバート1世)の後、16世紀中頃までスコットランド王国の独立が維持され、スコットランド王国のステュアート王朝も維持されることになる。こうしてステュアート朝の前期はスコットランド文化がもっとも繁栄した時代となったのである。

 1413年、スコットランド初のセント・アンドルーズ大学が開設され、ゴルフの原型となるスポーツが生まれた(世界的に有名な全英オープンのセント・アンドリュースコースはこのとき生まれている)。


セント・アンドルーズ大学  出典:Wikipedia

◆ケイトさん(キャサリン・エリザベス・ミドルト)
 現在のイギリスのケンブリッジ公爵夫人、ケイトさんは8歳から13歳までセントアンドリューズ小学校に通い、同校卒業後、ウィルトシャーのマルボロカレッジに進学し、その後、スコットランドのセントアンドリューズ大学へと進学している。


出典:AFP

 世界的に有名な全英オープンのセント・アンドリュースコースもこの時代にできている。スコットランドはゴルフ(当初はクラブとかホールと言った)の発祥地ではないが、原型が北欧、オランダなどからスコットランドに伝わり、ゴルフとなった説が有力である。


世界的に有名な全英オープンのセント・アンドリュースコース
  出典:Wikipedia

 その後、宗教改革により、その多くが破壊されているがセントアンドリュース大聖堂など各地にすばらしい聖堂が建てられた。 またスコットランドはローマやフランスの文化を取り入れるようになった。


破壊され尽くされたセントアンドリュース大聖堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


破壊され尽くされたセントアンドリュース大聖堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 この時代の首都はパースであり、キャッスル・ロックという岩山の上に建つ古代からの要塞であったエジンバラ城は、16世紀頃にならないとシンボル的な存在とはなっていない。

 ちなみにパースは13世紀から15世紀までスコットランド王国の首都であった。下は現在パースの町並みである。


現在のパース(Perth)の町並み
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


ステュアート朝の開始

 ところで、スコットランドのステュアート家の歴史は11世紀にまで遡れるが、14世紀には宮宰(Steward of Scotland)の地位にあった。 王位にあったブルース家は縁続きの関係になっていた。1371年にデイヴィッド2世が没してブルース家の後嗣がとだえたとき、これを継承したのが甥のロバート・ステュアートであった。これによりステュアート朝は始まる。

 ステュアート朝(Stuart dynasty )は、1371年から1714年まで続いたスコットランド起源の王朝。1603年以後はイングランド国王を兼ねて同君連合体制となった。「ステュアート」は、スコットランド語の宮宰(Steward of Scotland)に由来する。悲劇の女王で有名なメアリー女王のとき綴りをStewertからStuartに改めている。

スコットランド王朝時代

 1371年、デイヴィッド2世が没してブルース家が断絶すると、ウォルターとマージョリーの息子ロバートがロバート2世として即位し、ステュアート朝が始まる。

 以降、ロバート3世からジェームズ6世まで、続いて計8人がスコットランド王として統治した。多くの王が幼少にして即位したこともあり、有力貴族間の政争や貴族との対立に巻き込まれ、王が殺害・連行される事態が相次ぐ。

 アーブロース宣言とタニストリーによって王の力は制限され、氏族の長である貴族たちの覇権争いが表面化した。このなかで幼少の王が即位したり、時には暗殺されたりという事件も起こった。

◆タニストリー(Tanistry)

 ケルト文化圏の王位・族長位継承制度である。

 ゲール語のTainsteは「第2の王」をあらわし、選定によって後継者となった者をタニスト(Tanist)とよぶ。後継者の選定は、王の存命中に行われる点が特徴的であるが、このことが王の暗殺など「副作用」ももたらした。

 タニストリーはアイルランド・スコットランド・マン島などで世俗権力継承の慣習となり、現在はアイルランドの首相・副首相にその名を残している。

起源と歴史
 タニストリーの起源はアイルランドの英雄コーマック・マク・アートの時代(3世紀)まで遡ることができる。アイルランドに文字文化が興った初期には、すでにタニストリーに関する記述がみられ、それ以前から類似する伝統があったと考えられている。

 ロイダムナ(Roydammna)とよばれる次期王位・族長後継候補のなかから、その王国・部族の男子構成員が合議のうえ、次期後継者を決定した。コーマック・マク・アートの時代の記述には、コーマックの死後、彼の長子がタニストであり王になると記されている。

 古代・中世アイルランドのほとんどの諸王国でタニストリーに則って王位が継承され、これは17世紀ごろまでほぼ変わらない状態で続いた。近世に入ってイングランドのアイルランド・スコットランド支配が強まると次第に影をひそめていったが、1840年代まで生き残った。20世紀にタニストリーは、氏族の伝統を守り、絆を深めるために復活した。

出典:Wikipedia


◆ステュアート家関連年表

 以下の年表には参考のため中世の独立戦争、「スターリングブリッジの戦い」及び「バノックバーン」の闘いを黄色字で含めている。

12世紀 ウォルター・フィッツアラン、アサル朝王室執事長に就任。
1297年  スターリングブリッジの闘い(ウイリアム・ウォレス)
1314年  バノックバーンの闘い(ブルース・ザ・ロバート1世)
14世紀  第6代王室執事長ウォルター・ステュアートとロバート1世の
       娘マージョリー結婚。
1371年 マージョリーの子ロバート2世即位、ステュアート朝成立。
1390年 ロバート2世死去、ロバート3世即位。
1406年 ロバート3世死去、ジェームズ1世即位。国政は摂政オールバニ公に
      握られ、ジェームズはイングランドに滞留。
1424年 ジェームズ1世帰国、戴冠。
1437年 ジェームズ1世暗殺、ジェームズ2世即位。
1460年 ジェームズ2世事故死、ジェームズ3世即位。
1468年 ジェームズ3世、デンマーク王クリスティアン1世の
      王女マーガレットと結婚。オークニー諸島とシェトランド諸島を獲得。
1488年 貴族による反乱の末、ジェームズ3世が民衆により殺害され、
      ジェームズ4世即位。
1502-13年 スコットランド・イングランド間で「恒久和平」成立。
1503年 ジェームズ4世、イングランド王ヘンリー7世の
      娘マーガレット・テューダーと結婚。
1513年 ジェームズ4世、「恒久和平」を破棄しイングランドに侵攻。
      フロッドンの戦いで落命、ジェームズ5世即位。
1542年 ジェームズ5世死去。メアリー即位。
1567年 内乱によりメアリー譲位。ジェームズ6世即位。
1603年 エリザベス1世死去。ジェームズ6世/1世即位、
      スコットランドとイングランドは同君連合となる。
1625年 チャールズ1世即位。
1629年 チャールズ1世議会を解散。
1642年 ピューリタン革命起こる。
1649年 オリバー・クロムウェル、チャールズ1世を処刑し共和制樹立。
1653年 クロムウェルが終身護国卿となる。
1660年 護国卿リチャード・クロムウェルが退位し、王政復古。
      チャールズ2世即位。
1688年 名誉革命。ジェームズ7世/2世、フランスに亡命。
      メアリー2世・ウィリアム3世の共同統治。
1707年 イングランド・スコットランド正式に合併し、グレートブリテン王国成立。
1714年 アン女王死去、ステュアート朝断絶。
出典:Wikipedia


対外関係

 外に目を向けると、イングランドはふたたびスコットランドに侵攻してきていた。

 対外的には、イングランドとはおおむね険悪な関係で、同盟国フランスを巻き込んでしばしば戦いがおこった。


 「古い同盟」の維持はイングランドを敵国と認めることと同義であり、これは不可避な事態でもあった。フランスは軍を派遣し同盟国スコットランドを助けたが、この駐留費はスコットランド持ちであり、財政を圧迫する同盟に不平の声が出始めていた。

 特にイングランド育ちのジェームズ1世が即位するころになると、対フランス戦争に忙殺されていたイングランドはスコットランドとの和解を望み、ジェームズもイングランド的改革を行った。この進展は一筋縄ではいかなかったものの、のちの「新しい同盟」につながってゆくことになる。


ジェームズ1世  出典:Wikipedia

 一方で、スコットランドはその勢力範囲をゆっくりと、しかし、着実に広げつつあった。臣従しない氏族を従え、謀反を企てた貴族の領地を没収した。そして、北部や島嶼地帯のノルウェー領を割譲させ、スコットランド王国内に組み込んだ。また、ジェームズ1世の行った改革は、すぐには効果をもたらさなかったものの、スコットランドに議会政治を浸透させるきっかけを作った。

つづく