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■今回のNHKインパール・スペシャル番組の特徴 2008年8月26日夜21時からNHKのBSハイビジョンで、「インパール作戦の生き証人・補給なきコヒマの苦闘」が放映された。 私が知る限り、NHKがインパール作戦をドキュメント番組化するのは2回、今度はその2回目である。 第一回目は、NHKが1994年6月13日、インパール作戦関連番組を放映している。以下は You Tube 版である。ごらん頂きたい(既にリンクがはずれていました!)。 ※時の記録 ドキュメント太平洋戦争 〜ビルマ・インパール作戦:責任なき戦場〜 第一回目、すなわち1994年6月13日に放映された「時の記憶 ドキュメント太平洋戦争〜ビルマ・インパール作戦・責任なき戦場」はNHKが総力を結集し制作したものであり、内容はきわめて秀逸、事実内外の多くの賞を受けている。 実はNHKの1994年の番組を見るだけで、日本軍のインパール作戦がいかに杜撰、稚拙、無謀なものであるとともに、無責任きわまりないものであったかがよく分かる。同時に、このインパール作戦は、日本的組織における意思決定、責任体制の本質をよく示しているものであり、今日的意味も大きいと思える。 あるひとは、この作戦をさして、世界の戦史上最も愚劣と言われるインパール作戦と述べているほどである。 今回のNHKの番組は、第一回目の番組内容をベースに制作されている。2008年8月26日から始まった戦争証言シリーズの大きな特徴は、戦争に実際に従軍した兵士、いわゆる生き残り兵士の証言をもとに番組を構成している点である。生き証人の証言を多用している点にある。 今回のインパール作戦に関連した番組でNHKのインタビューに応じた元日本兵士はいずれも80歳から90歳にあり、従軍した兵士への聞き取りは、まさに今が限度であることがわかる。その意味でこのシリーズはきわめて時節、時期を得たものである。 ■世界の戦史上最も愚劣と言われるインパール作戦 ところで、インパール作戦、日本側作戦名:ウ号作戦は、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され6月末まで継続されたトンデモ作戦である。 松山大学法学部教員の田村氏は、インパール作戦を白骨街道として、次のように述べている。 すなわち、「第2次世界大戦中インパール(インド東北の辺境、マニプール土侯{どこう}国の首都)作戦ほど悲惨な戦闘はなかった。作戦開始以来第15師団および第31師団には1発の弾丸も、1粒の米も補給されなかった。無謀極まりない東条の作戦開始であったが、その撤退の決断も遅すぎた。 大本営が第15師団に退却命令を出した1944(昭和19)年7月15日は、時すでに雨期に入っていた。日本軍は、ぬかるみの中飢えと寒気と英印軍の追撃に苦しみながらの退却は凄惨をきわめた。 ジャングル内の道は、軍服を着たまま白骨となった死体が続き(戦死および戦傷病で倒れた日本軍兵士は72,000人。生き残った兵士はわずか12,000人にすぎなかった-『決定版昭和史第11巻138頁』)、兵士達はこの道を「靖国街道」、「白骨街道」と呼んだ(『新聞集成・昭和史の証言』第18巻333頁)。 食料・弾薬の補給が全くない状態で、雨期をむかえようとしていた時、第31師団長佐藤幸徳は、独断でコヒマへの撤退を命じ、5月には第15軍司令官牟田口廉也(むだぐちれんや)のコヒマ死守の命令を無視、コヒマを放棄して補給可能地まで退却した。 この判断は全く正しく退却した部隊は助かった。しかし、佐藤は直ちに罷免され、敵前逃亡罪で軍法会議にかけられたそうになったが、「精神錯乱」を理由に不起訴処分となった(『新聞集成・昭和史の証言』第18巻499頁)。」と。 グーグルでインパール作戦を検索していると、田村氏による上記のような論評が多いことが分かる。 「インパール 作戦の生き証人・補給なきコヒマの苦闘」 出典:NHKのBSハイビジョン インパール(Imphal)はインドとビルマ(今のミャンマー)の国境沿いの 標高200m級の山岳地帯にある! 出典:グーグルマップ ■インパール作戦と牟田口廉也陸軍中将 そのインパール作戦は、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦を指す。しかし、 補給線を軽視した第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将による史上希な杜撰で稚拙な作戦によって、日本軍は歴史的な敗北を喫し、最終的に投入された兵力8万6千人に対し帰還時の兵力は僅か1万2千人に激減、日本陸軍瓦解の発端となっている。 「インパール 作戦の生き証人・補給なきコヒマの苦闘」 出典:NHKのBSハイビジョン 本インパール作戦は、我が国の無謀な作戦の代名詞としてしばしば引用される。とりわけ第15軍司令の牟田口廉也は、日本軍史上、現代に至るまでこれほど右派左派問わず酷評され、擁護する人間が全くいないのは将官、将校では稀有な存在である。 以下はその牟田口のプロフィールである。
■インパール作戦への参加兵力 以下はインパール作戦に参加した兵力の比較である。単に師団が少なく、兵力が小さいだけでなく、日本軍は食糧、武器の兵站に当初より著しく乏しく、2000m級のジャングル密林の山岳地帯をいくつも超える無謀きわまりないものであった。とくに装備面ではイギリス軍が航空機、戦車など火気弾薬で圧倒的に優れていたこともある。 日本軍 ()内は秘匿号。
インド国民軍
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8 | 市民による自主管理 | Citizen Control | 市民権利としての参加・ 市民権力の段階 Degrees of Citizen Power |
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7 | 部分的な権限委譲 | Delegated Power | |
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6 | 官民による共同作業 | Partnership | |
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5 | 形式的な参加機会の増加 | Placation | 形式参加の段階 Degrees of Tokenism |
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4 | 形式的な意見聴取 | Consultation | |
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3 | 一方的な情報提供 | Informing | |
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2 | 不満をそらす操作 | Therapy | 非参加・実質的な 市民無視 Nonparticipation |
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1 | 情報操作による世論誘導 | Manipulation |
氏名 | 戦前の社内 における地位 |
戦後の主な経歴 |
村山長挙 | 社長 | 朝日新聞会長(1951-1960),朝日新聞社長(1960-1964) |
上野精一 | 会長 | 朝日新聞取締役(1951-1970)朝日新聞会長(1960-1964) |
緒方竹虎 | 副社長 | 衆議院議員、自由党総裁、吉田内閣副総理 |
原田譲二 | 代表取締役 | 貴族院勅撰議員、大阪観光バス社長 |
石井光次郎 | 代表取締役 | 衆議院議員、通産大臣 |
鈴木文四郎 | 常務取締役 | 参議院議員、NHK理事 |
美土路昌一 | 常務取締役 | 全日空社長、朝日新聞社長(1964-1967) |
小西作太郎 | 常務取締役 | 日本高野連顧問 |
上野淳一 | 取締役 | 朝日新聞取締役、朝日新聞社主 (上野元会長の息子) |
杉山勝美 | 整理部長 | 朝日新聞取締役 |
長谷部忠 | 報道部長 | 朝日新聞会長(1947-1949, 朝日新聞社長(1949-1951) |
高野信 | 報道部長 | 朝日新聞取締役、テレビ朝日社長 |
荒垣秀雄 | 報道第二部長 | 朝日新聞論説委員 |
島田撰 | 欧米部長 | 朝日新聞論説副主幹 |
遠山孝 | 写真部長 | 朝日新聞取締役 |
飯島保 | 連絡部長 | 朝日新聞論説委員 |