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史上最悪のインパール作戦と

朝日新聞の戦争報道

青山貞一
掲載月日:2008年8月28日
独立系メディア E-wave Tokyo

今回のNHKインパール・スペシャル番組の特徴

 2008年8月26日夜21時からNHKのBSハイビジョンで、「インパール作戦の生き証人・補給なきコヒマの苦闘」が放映された。 私が知る限り、NHKがインパール作戦をドキュメント番組化するのは2回、今度はその2回目である。

 第一回目は、NHKが1994年6月13日、インパール作戦関連番組を放映している。以下は You Tube 版である。ごらん頂きたい(既にリンクがはずれていました!)。

 ※時の記録 ドキュメント太平洋戦争
    〜ビルマ・インパール作戦:責任なき戦場〜

 第一回目、すなわち1994年6月13日に放映された「時の記憶 ドキュメント太平洋戦争〜ビルマ・インパール作戦・責任なき戦場」はNHKが総力を結集し制作したものであり、内容はきわめて秀逸、事実内外の多くの賞を受けている。

 実はNHKの1994年の番組を見るだけで、日本軍のインパール作戦がいかに杜撰、稚拙、無謀なものであるとともに、無責任きわまりないものであったかがよく分かる。同時に、このインパール作戦は、日本的組織における意思決定、責任体制の本質をよく示しているものであり、今日的意味も大きいと思える。

 あるひとは、この作戦をさして、世界の戦史上最も愚劣と言われるインパール作戦と述べているほどである。

 今回のNHKの番組は、第一回目の番組内容をベースに制作されている。2008年8月26日から始まった戦争証言シリーズの大きな特徴は、戦争に実際に従軍した兵士、いわゆる生き残り兵士の証言をもとに番組を構成している点である。生き証人の証言を多用している点にある。

 今回のインパール作戦に関連した番組でNHKのインタビューに応じた元日本兵士はいずれも80歳から90歳にあり、従軍した兵士への聞き取りは、まさに今が限度であることがわかる。その意味でこのシリーズはきわめて時節、時期を得たものである。


■世界の戦史上最も愚劣と言われるインパール作戦

 ところで、
インパール作戦、日本側作戦名:ウ号作戦は、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され6月末まで継続されたトンデモ作戦である。

 松山大学法学部教員の田村氏は、インパール作戦を白骨街道として、次のように述べている。 

 すなわち、「第2次世界大戦中インパール(インド東北の辺境、マニプール土侯{どこう}国の首都)作戦ほど悲惨な戦闘はなかった。作戦開始以来第15師団および第31師団には1発の弾丸も、1粒の米も補給されなかった。無謀極まりない東条の作戦開始であったが、その撤退の決断も遅すぎた。

 大本営が第15師団に退却命令を出した1944(昭和19)年7月15日は、時すでに雨期に入っていた。日本軍は、ぬかるみの中飢えと寒気と英印軍の追撃に苦しみながらの退却は凄惨をきわめた。

 ジャングル内の道は、軍服を着たまま白骨となった死体が続き(戦死および戦傷病で倒れた日本軍兵士は72,000人。生き残った兵士はわずか12,000人にすぎなかった-『決定版昭和史第11巻138頁』)、兵士達はこの道を「靖国街道」、「白骨街道」と呼んだ(『新聞集成・昭和史の証言』第18巻333頁)。

 食料・弾薬の補給が全くない状態で、雨期をむかえようとしていた時、第31師団長佐藤幸徳は、独断でコヒマへの撤退を命じ、5月には第15軍司令官牟田口廉也(むだぐちれんや)のコヒマ死守の命令を無視、コヒマを放棄して補給可能地まで退却した。

 この判断は全く正しく退却した部隊は助かった。しかし、佐藤は直ちに罷免され、敵前逃亡罪で軍法会議にかけられたそうになったが、「精神錯乱」を理由に不起訴処分となった(『新聞集成・昭和史の証言』第18巻499頁)。
」と。

 グーグルでインパール作戦を検索していると、田村氏による上記のような論評が多いことが分かる。


インパール 作戦の生き証人・補給なきコヒマの苦闘」
出典:NHKのBSハイビジョン



インパール(Imphal)はインドとビルマ(今のミャンマー)の国境沿いの
標高200m級の山岳地帯にある!
出典:グーグルマップ


■インパール作戦と牟田口廉也陸軍中将

 そのインパール作戦は、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦を指す。しかし、 補給線を軽視した第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将による史上希な杜撰で稚拙な作戦によって、日本軍は歴史的な敗北を喫し、最終的に投入された兵力8万6千人に対し帰還時の兵力は僅か1万2千人に激減、日本陸軍瓦解の発端となっている。


インパール 作戦の生き証人・補給なきコヒマの苦闘」
出典:NHKのBSハイビジョン

 本インパール作戦は、我が国の無謀な作戦の代名詞としてしばしば引用される。とりわけ第15軍司令の牟田口廉也は、日本軍史上、現代に至るまでこれほど右派左派問わず酷評され、擁護する人間が全くいないのは将官、将校では稀有な存在である。 以下はその牟田口のプロフィールである。

◆牟田口 廉也(むたぐち れんや)

 明治21年(1888年)10月7日 - 昭和41年(1966年)8月2日)は、佐賀県出身の陸軍軍人。陸軍士官学校(22期)卒、陸軍大学校(29期)卒。

 盧溝橋事件や太平洋戦争開始時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮する。最終階級は中将。今日における評価は非常に低い。木村兵太郎や富永恭次と同じく東條英機に重用され、いわゆる三奸四愚と並んで東條の腹心の部下の一人であった。

 また、当時の大日本帝国陸軍の将官の評価の際にはその全体的なレベルの低さを象徴する人物として、杉山元、富永恭次等と共に真っ先に名前が挙がることが多く、インパール作戦における様々な失策や愚策についても、一貫して反省せず弁解じみた発言や態度を通したことから、死後も再評価はされず、旧日本軍の中で痛烈な酷評を受けている軍人である。

 今日でも日本国内外を問わず、軽侮に近い評価が強い。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)


■インパール作戦への参加兵力

 以下はインパール作戦に参加した兵力の比較である。単に師団が少なく、兵力が小さいだけでなく、日本軍は食糧、武器の兵站に当初より著しく乏しく、2000m級のジャングル密林の山岳地帯をいくつも超える無謀きわまりないものであった。とくに装備面ではイギリス軍が航空機、戦車など火気弾薬で圧倒的に優れていたこともある。

日本軍 ()内は秘匿号

  • 第15軍(林) - 司令官:牟田口廉也、参謀長:久野村桃代
    • 第15師団(祭) - 師団長:山内正文
    • 第31師団(烈) - 師団長:佐藤幸徳
    • 第33師団(弓) - 師団長:柳田元三

インド国民軍

イギリス軍

  • 第14軍 - 司令官:W.スリム中将
    • 第4軍団(インパール方面) - 軍団長:G.スクーンズ中将
      • 第17インド軽師団 - 師団長:D.コーワン少将
      • 第20インド歩兵師団 - 師団長:D.グレーシー少将
      • 第23インド歩兵師団 - 師団長:O.ロバーツ少将
      • 第254インド機甲旅団 - 旅団長:R.スコーンズ准将
      • 以下増援部隊
      • 第5インド歩兵師団 - 師団長:H.ブリックス少将
      • 第7インド歩兵師団 - 師団長:
      • 第50インド空挺旅団 - 旅団長:M.ホープトンプソン准将
      • 第89インド歩兵旅団 - 旅団長:W.クローサー准将
    • 第33軍団(コヒマ方面) - 軍団長:M.ストップフォード中将
      • 第2師団 - 師団長:

インパール作戦の経緯
 
 以下は、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)にみる、インパール作戦の経緯である。26日の番組でも、以下の記述に近い流れに沿い、番組が進んだ。

 インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールは、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点であった。ビルマ-インド間の要衝にあって連合国から中国への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられた。


出典:NHKのBSハイビジョンで 「インパール 作戦の生き証人・補給なきコヒマの苦闘」

 大本営陸軍部は、1943年8月、第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の立案したインパール攻略作戦の準備命令を下達した。しかし、作戦計画は極めて杜撰であった。

 川幅約600mのチンドウィン川を渡河し、その上で標高2000m級の山々の連なる急峻なアラカン山系のジャングル内を長距離進撃しなければならないにもかかわらず、補給が全く軽視されていることなど、作戦開始前からその実施にあたっての問題点が数多く指摘されていた。

 こうした問題点を内包していたことで、当初はビルマ方面軍、南方軍、大本営などの上級司令部総てがその実施に難色を示したインパール作戦であったが、1944年1月に大本営によって最終的に認可された背景には、敗北続きの戦局を一気に打開したいという陸軍上層部の思惑が強く働いていた。


出典:NHKのBSハイビジョン 「インパール 作戦の生き証人・補給なきコヒマの苦闘」

 上層部の思惑を前に、インパール作戦の危険性を指摘する声は次第にかき消された。ビルマ方面軍の上級司令部である南方総軍では、インパール作戦実施を強硬に反対した総参謀副長稲田正純少将が東條英機首相と富永恭次陸軍次官によって1943年10月15日に更迭され、第15軍内部でも作戦に反対した参謀長、小畑信良少将は就任後僅か1ヵ月半で牟田口自身によって直接罷免された。

 また、インパール作戦の開始前に、支作戦(本作戦の牽制)として第二次アキャブ作戦(ハ号作戦)が1944年2月に花谷正中将を師団長とする第55師団により行なわれた。この支作戦は失敗し、同月26日には師団長が作戦中止を命令していたにもかかわらず、本作戦であるインパール作戦に何ら修正が加えられることはなかった。

 インパール作戦には、イギリス支配下のインド独立運動を支援することによってインド内部を混乱させ、イギリスをはじめとする連合軍の後方戦略を撹乱する目的が含まれていたことから、インド国民軍6000人も作戦に投入された。そのうちチンドウィン河まで到達できたのは2600人(要入院患者2000人)で、その後戦死400人、餓死および戦病死1500人の損害を受けて壊滅している。

 なお、連合軍は第14軍第4軍団(英印軍3個師団基幹)を中心に約15万人がこの地域に配備されていた。

 ....

 物資の不足から補給・増援がままならない中、3月8日、第15軍隷下3個師団(第15、31、33師団)を主力とする日本軍は、予定通りインパール攻略作戦を開始した。

 日本軍は3方向よりインパールを目指した。しかし作戦が順調であったのはごく初期のみで、ジャングル地帯での作戦は困難を極めた。

 牟田口が補給不足打開の切り札として考案した牛・山羊・羊に荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させ、必要に応じて糧食に転用しようと言ういわゆる「ジンギスカン作戦」は、頼みの家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前にさらに脱落し、たちまち破綻した。

 NHKのBSハイビジョン番組では、ハンニバルの象作戦ならぬ牛、羊引き連れ作戦が大きく映像で映し出されたが、川幅約600mのチンドウィン川を渡河した牛や羊はわずか、大部分は川に流され死んでしまった。


 また3万頭の家畜を引き連れて徒歩で行軍する日本軍は、進撃途上でも空からの格好の標的であり、爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま散り散りに逃げ惑ったため、多くの補給物資が散逸した。

 さらに、急峻な地形は重砲などの運搬を困難にし、火力不足が深刻化、糧食・弾薬共に欠乏し、各師団とも前線に展開したころには戦闘力を既に消耗していた。本来歩みの遅い牛を引き連れて、迅速さを求められる敵拠点の攻略作戦を敢行するという思考そのものに無理があった。

 物資が欠乏した各師団は相次いで補給を求めたが、牟田口の第15軍司令部は「これから送るから進撃せよ」「糧は敵に求めよ」と空電文を返すばかりであった。

 第31師団「烈」佐藤幸徳師団長隷下第31歩兵団長宮崎繁三郎少将所属中突進隊第138連隊長だった鳥飼恒男大佐が戦後親族に語ったところでは、牟田口は、補給を無視した無謀な突進命令を発したことから、部隊内では、「無茶口(ムチャグチ)」と呼ばれることがあったと言う。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)


■インパール作戦を当時の朝日新聞が一面で大賛美!

 私がさらに驚いたのは、朝日新聞の以下の記事である。

 朝日新聞は、一面で「わが新鋭部隊猛進 コヒマを攻略 敵空挺部隊攻撃も進む」と、歴史上希に見る杜撰、稚拙きわまりなく、敗退に次ぐ敗退となった日本のインパール作戦を一面で称えたことだ。

 私は数年前、米英によるイラク戦争突入やむなしという社説を出した朝日新聞に大きな憤りを感じたが、天下の無責任で杜撰、稚拙な作戦として知られるインパール作戦を日本国民に、「わが新鋭部隊猛進 コヒマを攻略 敵空挺部隊攻撃も進む」と礼讃記事を一面に掲載していたのである。あにはからんやであろう。


出典:NHKのBSハイビジョン 「インパール 作戦の生き証人・補給なきコヒマの苦闘」

 
 以下の図は、米国の社会学者、アーン・シュタインの「民度を計る」ための8段階の梯子を、私なりに少々手直しし、大学の講義(公共政策論など)で使っているものだ。

 図  「民度を計る」ための8段階の階段

8 市民による自主管理 Citizen Control 市民権利としての参加・
市民権力の段階

Degrees of
Citizen Power
   ↑
7 部分的な権限委譲 Delegated Power
   ↑
6 官民による共同作業 Partnership
   ↑
5 形式的な参加機会の増加 Placation 形式参加の段階
Degrees of
Tokenism  
   
4 形式的な意見聴取 Consultation
   ↑
3 一方的な情報提供 Informing
   ↑
2 不満をそらす操作 Therapy 非参加・実質的な
市民無視

Nonparticipation
   
1 情報操作による世論誘導 Manipulation
原典:シェリー・アーンシュタイン(米国の社会学者)青山修正版

 朝日新聞の上記の大本営発表さながらの一面記事は、いうまでもなく上記の図の1、すなわち情報操作による世論誘導そのものである!このようなことをした日本のマスメディアを信頼することなど到底できない。


戦時中の報道責任者のその後の昇進ぶり

 以下は、安田将三、石橋孝太郎著『朝日新聞の戦争責任』 太田出版から戦時中の報道責任者のその後の昇進ぶりを示したものである。

氏名 戦前の社内
における地位
戦後の主な経歴
村山長挙 社長 朝日新聞会長(1951-1960),朝日新聞社長(1960-1964)
上野精一 会長 朝日新聞取締役(1951-1970)朝日新聞会長(1960-1964)
緒方竹虎 副社長 衆議院議員、自由党総裁、吉田内閣副総理
原田譲二 代表取締役 貴族院勅撰議員、大阪観光バス社長
石井光次郎 代表取締役 衆議院議員、通産大臣
鈴木文四郎 常務取締役 参議院議員、NHK理事
美土路昌一 常務取締役 全日空社長、朝日新聞社長(1964-1967)
小西作太郎 常務取締役 日本高野連顧問
上野淳一 取締役 朝日新聞取締役、朝日新聞社主
(上野元会長の息子)
杉山勝美 整理部長 朝日新聞取締役
長谷部忠 報道部長 朝日新聞会長(1947-1949,
朝日新聞社長(1949-1951)
高野信 報道部長 朝日新聞取締役、テレビ朝日社長
荒垣秀雄 報道第二部長 朝日新聞論説委員
島田撰 欧米部長 朝日新聞論説副主幹
遠山孝 写真部長 朝日新聞取締役
飯島保 連絡部長 朝日新聞論説委員
出典:安田将三、石橋孝太郎著『朝日新聞の戦争責任』 太田出版


出典:安田将三、石橋孝太郎著『朝日新聞の戦争責任』 太田出版

 同書の紹介に次のような一節がある。

 朝日新聞の圧力で一度は絶版

 本書は1994年にリヨン社により発刊され、著作権侵害を理由に朝日新聞が圧力をかけ、発売停止となった本の復刻版です。

 戦時中の新聞は言論統制されていたから、責任は問われないという見方がありますが、現実にその紙面を見るとそれはウソであるとわかる。

 統制は確かにあった。しかし、勝利戦報道による売上大幅増加に味をしめ、むしろ統制が求めた以上に率先して戦争を煽りまくり、 結果として軍部をして、負けを認めることが不可能な地点まで追い詰めていったのが真実に近い。


 NHKがインパール作戦番組で紹介した朝日新聞のインパール作戦賛美の記事は、まさにむしろ統制が求めた以上に率先して戦争を煽りまくり、 結果として軍部をして、負けを認めることが不可能な地点まで追い詰めていったのが真実に近いといえよう。