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ローマ帝国の末路を見つめたハドリアヌス

青山貞一 Teiichi Aoyama
 
初出:2008年3月19日
独立系メディア「今日のコラム」
 無断転載禁


  今年(平成20年、2008年)の正月、NHKのBSハイビジョンで、ローマに係わる興味深い番組が3つ放映された。

 ひとつめは「カルタゴのハンニバル」に関するもの。NHKハイビジョン。番組名は、「ローマ帝国に挑んだ男〜天才軍師ハンニバル〜」である。

 ふたつめは 「ローマ帝国の末路」を描いた番組。番組名はNHKのドキュメンタリーハイビジョン特集、「ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス」である。

 そして3つめは、チェコのプラハ城とヤン・フスそして初代チェコ大統領のマサリクの生涯を描いたNHKハイビジョン特集、「城:王たちの物語 プラハ城」であった。

 いずれも長編、たいへん見応えがあった。

 今の世界情勢を考察する上でも、大いに参考になるものばかりだった。 そして2008年2月、イタリアに仕事で行く際に、番組内容をしっかりと頭にたたき込んでおいたのである。

 以下は番組「ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス」のエッセンスである。概説してみよう。



<ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス>
 
 ふたつめの「ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス」は、ひとつめの番組、すなわち「奇才の軍師、ハンニバル」の攻撃から逃れたローマがその後帝国化し、領土を外延的に拡大する国家戦略をとることに関連している。

 ローマ帝国の第14代皇帝で、五賢帝の3人目と目されるハドリアヌスは、帝国各地をあまねく視察し、帝国の現状、実態の把握に努める。その結果、ティベリウス帝に次いでローマ帝国の拡大路線を放棄し、現実的な判断に基づいて領土の縮小へと路線を転換させる希有な皇帝として知られる。

 まさに、この番組はローマ帝国の末路を見つめ各種改革を断行したハドリアヌスの姿に着目し、なぜローマ帝国は領土拡張後の絶頂期に滅亡に向かったのか、なぜ元老院やローマ市民の多くはハドリアヌスの改革路線を支持しなかったのか、その背景は何かについてドキュメントタッチの番組として仕上げている。 

プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス
古典ラテン語Publius Aelius Trajanus Hadrianus、プーブリウス・アエリウス・トライヤーヌス・ハドリアーヌス、76年1月24日 - 138年7月10日)

 ローマ帝国の第14代皇帝(在位:117年 -138年)。五賢帝の3人目。帝国各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める一方、ティベリウス帝に次いで帝国拡大路線を放棄し、現実的判断に基づく領土縮小路線への転換を行った皇帝としても知られる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

五賢帝時代
  • ネルウァ(96年 - 98年)…最初の五賢帝
  • トラヤヌス(98年 - 117年)
  • ハドリアヌス(117年 - 138年)
  • アントニヌス・ピウス(138年 - 161年)
  • マルクス・アウレリウス・アントニヌス(161年 - 180年)…最後の五賢帝
    • ルキウス・ウェルス(161年 - 169年)…共同皇帝
  • コンモドゥス(180年 - 193年)…五賢帝ではないが含めてアントニヌス朝とも

 ハドリアヌスは、ローマ帝国の属州であるヒスパニア・バエティカの出身で先帝トラヤヌスの従兄弟の子供として生まれた。生まれ故郷のイスパニア訛りが強く、終生その訛りが抜けなかったこともあり、周囲にからかわれることも多かったという。

 その出身地(現在のスペイン)から見て分かるように、いわば外様大名が将軍となっており、ローマ帝国の中心にいる元老院らに規模縮小路線や財政を考えた現実路線は無視されたり、激しく抵抗されることとなる。

 一方、そのハドリアヌスは、パンノニア総督、シリア総督歴任後、先帝トラヤヌス指揮下の幕僚としてダキア戦争、パルティア戦争の後方支援等に従事、すぐれた手腕を発揮する。 その後、パルティア戦役を遂行中に急死したトラヤヌスの跡を継いでAD117年8月11日にローマ皇帝に就任した。


プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌスの誕生
出典:NHK「ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス」

 周知のようにハドリアヌスが皇帝に就任した当時、ローマ帝国は領土面では最盛期にあった。下の地図にあるように、北は現在のイングランドの北端でスコットランドとの境界、東は東欧諸国から中東諸国、南は北アフリカ、西はスペイン、ポルトガル、ジブラルタルまで地中海沿岸地域全体に勢力を拡大していた。


最盛時にローマ帝国が支配した領土
出典:NHK, ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス

 ハドリアヌスは、その治世においてメソポタミア(現在のイラクなど)を放棄することによって国境の安定化と辺境地域への防衛策の強化を推し進めた。さらに帝国内各地を4度にわたり視察、巡幸しながらローマ帝国内の改革を協力に押し進めた実績が特筆される皇帝である。

 番組ではほとんど触れられなかったが、ハドリアヌスはローマ帝国の東部で係争中のパルティア戦役の事態収拾にあたった。パルティアは以下の解説にあるように、カスピ海南東部、イラン高原東北部など中東から中央アジアにまたがる一大遊牧民の長である。

 先帝トラヤヌスの積極策により、当時のローマ帝国は東はメソポタミアにまで勢力を拡大し、帝国史上最大の版図となっていた。 だが、これは同時に隣国であるパルティアを刺激し、東部国境の紛争激化と周辺地域の不安定化をもたらしていた。

パルティア(Parthia, 紀元前247年頃 - 226年)

 カスピ海南東部、イラン高原東北部に興ったダーハ氏族の1支流であるパルニ氏族を中心とした遊牧民の長、アルシャク(ギリシャ語形:アルサケス)が建てた王国。アルサケス朝アルシャク朝(中世ペルシャ語:Ashkanian)とも呼ばれる。パルティア語名アルシャクは古代ペルシア語形ではアルタクシャサで、アケメネス朝のアルタクシャサ王(ギリシャ語形:アルタクセルクセス)に相当する名前である。 

 元々パルティアは東北イランのパルティア王国の故地、古代ペルシア語でのパルサワ(Parthava)のギリシャ語形であったが、王国の領域は現在でいうアルメニア、イラク、グルジア、トルコ東部、シリア東部、トルクメニスタン、アフガニスタン、タジキスタン、パキスタン、クウェート、サウジアラビアのペルシャ湾岸部、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦の領域にまで拡大した。

 最も初期の都はミトラダトケルタ、次いでカスピ海南岸のヘカトンピュロス、更に遷都してバビロニアのクテシフォン。歴代のパルティアはアルサケスという称号を継承しており、初代王の個人名であったものが、後にパルティアの君主号として定着したものと言われている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 ハドリアヌスはこれらの状況をふまえ、ローマとして防衛や植民地維持が困難なメソポタミア方面からの即時撤退を進めるとともに、隣国パルティアとの関係改善に努力した。ハドリアヌスの決定には、国境を示しそれ以上の拡大を戒める意図もあった。この結果、両国間の紛争は減少し、東部国境に長期にわたる安定をもたらした。

 ハドリアヌスは東方の隣国との外交問題を収拾した後、一転し国内に目を向ける。その取り組みの多くは、ハドリアヌス自身が帝国各地を4度にわたり踏査したことから得た課題と解決策である。ハドリアヌスは実際に自分が経験し得たことをもとに、国内改革を次々に打ち出したのである。

 ハドリアヌスの領土内の現地視察は少数の随伴者のみによる立ち入り調査、や抜き打ち調査の形で行われた。さらに巡幸先の各地では、ハドリアヌス自らが土木工事などのインフラ整備から軍備の再編まで、個々に指示を出すとともに、今で言う歳費削減のための徹底した行政改革や合理化を行った。

 とくにゲルマン人との国境であるライン川やケルト人との紛争が絶えないブリタンニア北部(現イングランド北部でスコットランドの国境線沿い)では、異民族の侵入に備え防衛線の強化に力を入れた。

 現イングランド北部でスコットランドの国境線沿いでは、「ハドリアヌスの長城」と呼ばれる防衛線の構築が有名であり、現在、同構築物などは世界遺産となっている。

 NHKの番組では、東京大学の教授が現在、英国の世界遺産になっているハドリアヌスの長城に立つところから始まる。

 ハドリアヌスの長城は、イングランド北部のスコットランドとの境界線近くにある長城。1世紀後半に版図にブリタンニアを組み込んだローマ帝国がケルト人のうち、ローマに服従していないピクト人など北方諸部族の進入を防ぐために築いた。皇帝ハドリアヌスが長城の建設を命じ122年に工事が開始される。


ハドリアヌスの数少ない土木事業としての長城
出典:NHK ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス


ハドリアヌスの数少ない土木事業としての長城
出典:NHK ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス

 このハドリアヌスの長城は、ニューカッスル・アポン・タインからカーライルまで118kmにも及ぶ。壁の高さは4〜5m、壁の厚さは約3m。後期に建設された壁は約2.5mと薄くなっている。

 完成当初は土塁であったが、その後、石垣などで補強されている。ハドリアヌスの長城は、約1.5kmの間隔で監視所も設置されていた。 長城構築の作業者は、ローマ帝国の支配地から動員された。 さらに6kmの間隔で要塞も建築された。その要塞の構築には500人〜1000人のローマ兵が配備されたと推定される。


ヴィンドランダ要塞の遺跡
出典:NHK ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス

 領土拡張を続けていたローマ帝国が、拡張政策を続けることを断念した政策転換点としても象徴的な建造物の一つである。

 この長城は文化的境界ではなく、あくまで軍事上の防衛線として建設された。しかし、この防衛線はイングランドのスコットランドに対する防御壁として、ローマ帝国の支配が及ばなくなった4世紀後半以後も17世紀まで使用されていたという。


ハドリアヌスの長城の位置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 そのため長城は、イングランドとスコットランドとの境界として半ば固定化、イングランドとスコットランドの間の現在の境界線の位置にも大きな影響を与えている。

 東大教授は、このハドリアヌスの長城の近くで兵士用の浴場などの遺跡を発掘している地元の大学のグループに話しを聞く。ハドリアヌスの長城付近で発掘された遺跡には、ローマ帝国支配時代の同地における要塞の戦力報告書や兵士、市民の人口統計調査書などが発掘されている。現代の炭素の同位元素技術により、文字が遺跡から浮かび上がる。


残存するハドリアヌスの長城
出典:Wikipedia


グリーンヘッド付近に残存するハドリアヌスの長城
出典:Wikipedia

 ローマの領土拡大戦略は、同時に侵略した領土の支配のための派兵や滞在、支配地域における民衆の不満を抑えるために円形闘技場や大浴場の建設などど、土木工事から兵站に至るまで巨額の経費がかかることをも意味した。にもかかわらず前線では兵士の士気がどんどん衰える。

 肥大化したローマ帝国がさらに占有、支配した領土での士気やモラルの低下は随所で顕在化する。たとえば、東欧のダキア、現在のルーマニアもそのひとつである。ダキアには金鉱があるというだけで、支配の対象となった。しかし、炭坑では強制労働とそれを監視する兵士が疲弊する。

ダキア(Dacia)

 古代中央ヨーロッパの一地域で、ダキア人とゲタエ人が居住していた地域を指す。ほぼ現在のルーマニアの国土(より正確には「大ルーマニア」と呼ばれた時代の国土)にあたり、東はティサ川、西はハンガリー、南はドナウ川、北はカルパチア山脈の森林地帯までの地域となる。ルーマニアでは同様の表記で、「ダチア」と読む。

 
ローマ帝国との度重なる戦争の後、紀元後106年、トラヤヌス帝の指揮する軍団によって征服される。以降ダキアはおよそ165年にわたってローマ帝国の支配下に置かれた。 だが実質的に支配を受けたのはダキア中央部および南西部のみ。ダキア全体の半分にも満たなかった。ローマ帝国の支配が及ばなかった北部は「自由ダキア」と呼ばれ、「自由ダキア人」たちがしばしば反乱を起こしていたことも判っている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 イングランド巡幸のあとハドリアヌス皇帝はダキア(現在のルーマニア)に向かう。ハドリアヌスは、ダキアへの出兵は得られる金よりも、出兵のための橋、道路などの土木工事と駐留による財政的な影響が大きく、ダキアからは撤退すべきであると主張した。


ダキアに進行するためにローマはドナウ川に橋を架けた
出典:NHK ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス


ドナウ川に架けた橋(トラヤヌス橋)の遺跡
出典:NHK ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス


トラヤヌス橋の記念塔
出典:NHK ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス


トラヤヌス橋の記念塔の下にある土木工事のレリーフ
出典:NHK ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス

 しかしながら、ダキアにある豊かな金鉱山の存在と権益に固執し、ハドリアヌスが主張するように、ダキアから撤退すればローマの繁栄に不可欠な富の源泉たる金鉱山を失うと元老院は強く反論した。

 これに対しハドリアヌスは反対派首謀者の粛正という厳しい策をとったが、元老院はハドリアヌスは市民から富を奪うという政治キャンペーンをローマ市民に徹底して展開した。

 その結果、市民ぐるみのハドリアヌスの反対運動が湧き上がり、ハドリアヌスはダキア放棄に異を唱える元老院と市民の前に孤立し、ダキア放棄を断念せざるをえなかった。


イングランド巡幸のあと皇帝はダキア(現ルーマニア)に向かう
出典:NHK ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス


ダキア、現在のルーマニアの金山跡
出典:NHK ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス

 ところでハドリアヌスは、帝国内外の防衛と叛乱への対処、統治機構の整備など、従来からの改革を含む数々の政策を実行し、国力の充実に努めた。

 ハドリアヌスの視察巡幸は、彼自身の好奇心によるものも大きかったが、当時帝国の直面した状況を十分に見据えた上での行動であり、数々の政策を精力的に実行する大きな原動力となっていった。内政面では、統治機構の整備等を推進。彼の構築した官僚機構は後世の模範となった。

 さらにハドリアヌスは、軍事面においても優れた才覚を発揮した。軍紀の改正による軍内部の改革に加え、ハドリアヌス自身が用兵術に長けていたことから、ローマ軍は連戦連勝であった。また彼は、軍隊内では一兵卒と変わらぬ生活をし、戦闘では陣頭指揮をとったため、従来の積極策から守勢への方針転換にもかかわらず、軍内部の士気が低下することはなかった。


ローマ帝国の政治・宗教の中心地、フォロ・ロマーノ
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10

 元老院には領土拡大に貢献した軍出身者も多く、ローマ帝国はじまって以来の領土縮小論は批判の的となった。


ローマ帝国の政治・宗教の中心地、フォロ・ロマーノ
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10

 このように、帝国内各地の踏査により帝国を拡大することの限界を察知し、いわば現実路線を歩もうとしたハドリアヌスだが、その政策は、繁栄・享楽のまっただ中にあった中央ローマの元老員や裕福なローマ市民からは理解を得られなかった。


フォロ・ロマーノからコロッセオ(円形闘技場)を見る
ローマの政治・宗教の中心地は同時に市民の娯楽・憩いの場でもあった

撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10

 そのため、彼の死後、元老院ではハドリアヌスをドミティアヌス同様記録抹殺刑に処す動きすらあった。しかし、記録抹殺刑はハドリアヌスの養子として後を継いだアントニヌス・ピウスが阻止、難を免れたというエピソードもある。

 ローマ皇帝の業績をたたえる碑が乱立するローマにあって、五賢帝のひとりとされるハドリアヌスの巡幸をたたえる碑がないのは、どうもこれが関係しているようだ。ハドリアヌスの時代は、表面的にはローマ帝国の絶頂期にありながらも、すでに地方行政・経済システムからローマの衰退が始まっていた時期であるといえる。

 結局、現場、現実を見ない、経営を考えないローマ帝国の拡大戦略は、末路に向かい、それに警鐘を鳴らす皇帝が議会からそっぽを向かれるというものだった。

 このように「現地踏査」をもとにローマ帝国の拡大戦略の限界について警鐘を鳴らすハドリアヌス皇帝に、ローマの元老院は、その警鐘に耳を貸さないばかりか、ハドリアヌスのローマ帝国の規模縮小論を批判し反対する。

 ハドリアヌスは文化面で大規模な別荘(ヴィラ・ハドリアヌス)をティヴォリに造営し、後世の新古典主義建築に大きな影響を与えた。


ヴィラ・ハドリアヌス全景
出典:NHK ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス

ヴィラ・ハドリアヌス(ティボリのハドリアヌスの別荘)

 ハドリアヌス帝は、ローマ帝国の広大な帝国の属州を旅した。118年、旅で魅了された風景を再現した別荘の建築をティヴォリで始めた。おおむねの完成をみたのは134年といわれる。ハドリアヌスが死亡後、ローマ皇帝たちがこの別荘を利用することはあまりなかったが、それでも別荘の拡張は続けられた。それ以後、廃墟となったが、15世紀ごろから発掘される。発掘には、同じティヴォリにエステ家の別荘の設計を任されていた、ピーロ・リゴーリオなども加わっていた。

 現在でもエジプトを模したPecile、やギリシャを模したCanopoなど、それぞれの土地の建物や風景を再現した庭園が残る。別荘の建物の数は30を越え、敷地の面積は、1.2km2に及ぶ。運河や浴場まである。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


ヴィラ・ハドリアヌス
出典:NHK ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス

 AD118年には、今日までローマに残るパンテオン神殿の再建に着手している。


ローマのパンテオン
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10


ローマのパンテオン内部
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10

パンテオン(Pantheon)

 ローマ市内のパラティヌスの丘に建造された神殿。元々はさまざまなローマ神を奉る万神殿であった。最初のパンテオンは紀元前25年、初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近マルクス・ウィプサニウス・アグリッパによって建造された。

 ローマ市内の建築物についてアウグストゥスとアグリッパは明確な役割分担を持っており、アグリッパが建造した神殿はこのパンテオンのみである。このためパンテオンはもともとアウグストゥスを奉ることを予定していたが市民の反発を避けるため万神殿に変更されたとの説もある。このパンテオンは後に火事で焼失している。

 2代目のパンテオンは118年から128年にかけて、ローマ皇帝ハドリアヌスによって再建された。現在ローマで見ることができるのはこの再建されたパンテオンであるが、正面にはアグリッパに敬意を表し M. AGRIPPA L. F. COS TERTIUM FECIT(ルキウスの息子マルクス・アグリッパが三度目のコンスルのとき建造)と記されている。

 建物は、深さ4.5mのローマン・コンクリート基礎の上部に直径43.2m の円堂と半球形のドームが載った構造で、壁面の厚さは6mに達するが、高さによって材質を使い分けており、ドーム上部は凝灰岩と軽石を素材として用い、その厚さは1.5mに減じる。

 床からドーム頂部までの高さは直径と同じ43.2mで、頂上部分にはオクルス(oculus, ラテン語で「目」の意) と呼ばれる採光のための開口部 があり、ドームの質量を感じさせない。ローマ神が信じられなくなったあとも、この象徴的な空間性によって、608年頃にはキリスト教の聖堂となり、破壊を免れた。建物自体が非常に改築されにくいものだったので、この荘厳な空間は、今日でも見ることができる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


ローマのパンテオン内部にある掲示板
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10

 ハドリアヌスの警鐘を聞かぬローマ帝国は、最終的に東西ローマの分裂を経て滅亡に向かう、というのが「ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス」のエッセンスであったと思う。