Memorandom 2.中央アジアの覇者、ティムール朝 Samarkand, Uzbekistan 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2015年1月19日 独立系メディア E−wave Tokyo |
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サマルカンド市の市章 ウズベキスタンの国章 次はティムール朝です。なお、本稿の大部分はWikipediaを出典、参照しています。 ◆ティムール朝とその版図 ティムール朝(ウズベク語 : Temuriylar)は、中央アジアのトランスオクシアナ(現在のウズベキスタン中央部)に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつです。 中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝(1370年 - 1507年)です。 その最盛期には、版図は下の地図にあるように北東は東トルキスタン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及び、かつてのモンゴル帝国の西南部地域を制覇していました。そのため創始者のティムール在位中の国家はティムール帝国と呼ばれることが多くなっています。 往事のウズベキスタンの領土(版図) 出典:Wikipedia 現在見ると、西はイラク、シリア、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン、トルコの一部、南はトルクメニスタン、イラン、アフガニスタン、パキスタン、カシミール、インドの一部、西はタジキスタン、北はカザフスタン、西はキルギス、タジキスタン、ヒマーチャル/ブランデーシュ、さらに中国の一部を含む広大な領土であったことが分かります。 出典:グーグルマップ ちなみに中央アジアに関連した歴史上の帝国の最盛期の領土分布を見てみると以下のようになります。 モンゴル帝国 (1206年 - 1634年) モンゴル帝国は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス 、すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km2で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。 ティムール帝国 (1307年 - 1507年) ティムール朝(ウズベク語 : Temuriylar)は、中央アジアのトランスオクシアナ(現在のウズベキスタン中央部)に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝(1370年 - 1507年)。その最盛期には、版図は北東は東トルキスタン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及び、かつてのモンゴル帝国の西南部地域を制覇した。創始者のティムール在位中の国家はティムール帝国と呼ばれることが多い。王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人(チャガタイ人)の一員であった。ティムール一代の征服により、上述の大版図を実現するが、その死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残った。これらは最終的に16世紀初頭にウズベクのシャイバーニー朝によって中央アジアの領土を奪われるが、ティムール朝の王族の一人バーブルはアフガニスタンのカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てた。 オスマン帝国 (1299年 - 1922年) オスマン帝国は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国で、15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブルと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んだ。 ムガル帝国 (1526年 - 1858年) ムガル帝国(英語:Mughal Empire)は、16世紀初頭から北インド、17世紀末から18世紀初頭にはインド南端部を除くインド亜大陸を支配し、19世紀後半まで存続したトルコ系イスラーム王朝(1526年 - 1858年)。首都はデリー、アーグラなど。ムガル朝(Mughal dynasty)とも呼ばれる。チンギス・ハーン以来モンゴル人によってインダス川流域やカシミール地方から度々侵入を受けたが、インドの諸政権はムガル帝国の成立まで領土的な支配を許していなかった。ムガル帝国の創始者バーブルは中央アジア出身で、ティムール朝の王族ウマル・シャイフを父、チンギス・ハーンの二男チャガタイを祖とするモグーリスタン・ハン家のユーヌスの娘クトルグ・ニガール・ハーニム(英語版)を母とするテュルク・モンゴル系の遊牧貴族で、彼が現在のアフガニスタンからインドに移って建国した。 上記の4帝国(朝)のうち、ティムール朝と領土及び時期が重なるのは、モンゴル帝国と言えます。 ◆ティムール 王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人(チャガタイ人)の一員でした。 ティムール一代の征服により、上述の大版図を実現しますが、その死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残っただけとなります。 出典:Wikipedia これらは最終的に16世紀初頭にウズベクのシャイバーニー朝によって中央アジアの領土を奪われますが、ティムール朝の王族の一人バーブルはアフガニスタンのカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てます。 王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人(チャガタイ人)の一員でした。 ◆ティムールの征服事業 14世紀初頭、中央アジアの東西トルキスタンに勢力を拡大したチャガタイ・ハン国は、1340年頃には早くも分裂に向かい、東トルキスタンの東チャガタイ・ハン国とトランスオクシアナの西チャガタイ・ハン国に分かれました。 西チャガタイ・ハン国では多くの有力部族が地方に割拠したためにハンの権力は早々に喪失し、各地に分領を持つ有力な遊牧貴族による群雄割拠の態をなすことになります。 この中で盗賊的な活動を行いながら小さいながらも自己の勢力を築きつつあったのが、チンギス・ハーンの出たボルジギン氏と同祖の家系を誇る名門バルラス部族の出身である没落貴族の息子ティムールでした。 ティムールによるバルフ攻撃(ホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本より) 1360年、東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)のトゥグルク・ティムールが西チャガタイ・ハン国に侵攻し、一時的にチャガタイ・ハン国の東西統一を成し遂げると、ティムールはこれに服属してバルラス部の旧領を回復します。 やがてトゥグルク・ティムールが本拠地の東トルキスタンに帰ると、ティムールは東チャガタイ・ハン国から離反し、西チャガタイ・ハン国の諸部族と同盟と離反を繰り返しながら勢力を広げ、1370年までにトランスオクシアナの覇権を確立しました。 彼はチンギス・ハーンの三男オゴデイの子孫ソユルガトミシュを西チャガタイ・ハン国のハンとして擁立し、自身はチンギス・ハーンの子孫の娘を娶って、「ハン家の婿婿(アミール・キュレゲン)」という立場においてマーワラーアンナフルに住むチャガタイ人の諸部族の統帥権を握りました。一般に、この年をもってティムール朝の確立とされています。 新王朝(ティムール王朝)の確立後、ティムールは東トルキスタンに遠征してモグーリスタン・ハン国を服属させ、マーワラーアンナフルの西のホラズムを征服しました。さらにジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)から亡命してきたトクタミシュを支援してジョチ・ウルスを再統一させ、北西のキプチャク草原を友好国として中央アジアの支配を固めた。 続いて、1335年のフレグ王家断絶後、イルハン朝(イル・ハン国)が解体して諸勢力の割拠していたイラン方面の経略を開始し、1380年にはトランスオクシアナからアム川を越えてホラーサーンを征服、1388年までにイランの全域を服属させ、アルメニア、グルジアからアナトリア東部までを勢力下に置きました。 1393年にはイランのファールス地方を支配するムザッファル朝を征服してイランの全土を完全に制圧し、さらにカフカスからキプチャク草原に入って、ホラズムの支配をめぐってティムールと対立したトクタミシュを討ち(トクタミシュ・ティムール戦争(英語版))、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の都サライを破壊しました。 1398年には矛先を変えてインドにも侵攻し、デリー・スルタン朝の都デリーなどを占領しています。
1400年には再び西方に遠征してアゼルバイジャンからシリア、イラクを席巻してマムルーク朝を破り、1402年にはアンカラの戦いでオスマン帝国を破って一時的に滅亡させ、シリア、アナトリアの諸侯国にまで宗主権を及ぼしてサマルカンドに帰還しています。 こうしてティムールは30年間でモンゴル帝国の西半分をほぼ統一することに成功したのです。 1404年には「ティムール紀行(スペイン語版)」で知られるルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホがティムール朝を訪れていますが、ティムールの病の為にフランス王シャルル6世とカスティーリャ王エンリケ3世への返書を得ること無く帰国しています。 改めて東方のモンゴル帝国の大ハーン直轄領(元)回復をこころざし、元に代わって中国を支配した明への遠征に向かう途上の1405年にティムールは病死しました。 つづく |