Memorandom 7.ウズベキスタンの首都 タシケント Tashkent, Uzbekistan 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2015年1月19日 独立系メディア E−wave Tokyo |
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タシケント市の市章 ウズベキスタンの国章 タシケント(ウズベク語: Toshkent)は、ウズベキスタンの首都です。以下は現在のタシケント特別市の位置を示しています。 なお、本稿はWikipediaを引用、参照しています。 タシケントの位置 左上の水色はアラル海です 現在のタシケント市概要 ウズベキスタン北東部、シルダリヤ川の支流であるチルチク川の流域に位置する歴史的なオアシス都市です。 都市名はテュルク語で「石の町」という意味です。 ◆都市の歴史 タシケントはチルチク川の形作るタシュケント・オアシスの主邑として、またカザフ草原・天山山脈北麓の遊牧地帯とトランスオクシアナのオアシス定住農耕地帯を中継する商業都市として古代から繁栄しました。 国際交易では中国にまで名を知られ、『後漢書』以来石国と呼ばれました。 また「チャーチュ」の音写として「者舌」(『魏書』)や隋唐時代の「柘支」、玄奘三蔵の『大唐西域記』では「赭時」と書かれていました。ソグド人が中国地域で用いた一字姓では、チャーチュ出身者は「石」姓を名乗っています。 750年には唐の将軍高仙芝が石国に侵攻したためにシャーシュ(チャーチュ)はイスラム帝国に支援を求め、タラス河畔の戦いのきっかけをつくっています。その後、さまざまなイスラム王朝と北方の遊牧民の支配を経て次第に都市住民のイスラム化・テュルク化が進展しました。 サーマーン朝時代にはBinkathとも呼ばれましたが、カラハン朝の10世紀末頃から「タシケント」の名が現れます。 1214年にはホラズム・シャー朝に、1219年にはチンギス・カンに、それぞれ破壊されます。しかし、ティムール朝そしてシャイバーニー朝によってタシケントの町は再建されます。 『西域番国志』によると、15世紀初頭、明の永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路でこの地(「達失干」と記録されています)を訪れています。 ムガル朝の始祖バーブルは自伝『バーブル・ナーマ』では「タシケンドは書物には“シャーシュ”または“チャーチュ”と書かれて」いると述べており、彼が中央アジアで活躍した16世紀頃には既に「タシケント」の方がティムール朝の王族たちなどではより一般化していたらしいことが伺えます。 タシケントは、1809年にはコーカンド・ハン国の支配下に入ります。当時、人口は10万人を越えてロシアとの交易で栄える経済都市となっています。 1865年、帝政ロシア軍が夜間攻撃で侵攻、防御が堅固で激しい戦闘となったが制圧に成功、ロシアはタシケントを直轄領に組み入れ、1867年にトルキスタン総督府が設置され、ロシアの中央アジア支配の拠点となりました。 1865年当時のタシケント市
旧市街の外側にロシア人の住む新市街ができ、ロシア人商人などが続々と移住してきました。また、中央アジアをめぐるロシアと英国の衝突で、スパイの暗躍する町となっています。 1874年のトルキスタン軍管区設置や1889年のカスピ海横断鉄道延伸などの新事業に従事する労働者階級のロシア人は、やがてロシア革命の中央アジアでの担い手となって行きました。 ロシア革命が起こると、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の首都となり、再び中央アジアをめぐるロシアと英国が衝突し、英国のフレデリック・ベイリー(英語版)らスパイの暗躍する町となったのです。 1917年当時のタシケントの街の様子を描いた絵 出典:Wikipedeia 1924年にはウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入され、1930年、サマルカンドに代わって首都となりました。 第二次世界大戦が起こると、ナチス・ドイツの侵攻を受けたヨーロッパ・ロシアから工場が疎開され、市の工業化が進み、ロシア人の割合も急増して行きました。 戦後シベリア抑留を受けた日本人捕虜はここタシュケントにも回され、中央アジア最大のバレエ・オペラ劇場たるナヴォイ劇場の工事などに従事しています。 戦後シベリア抑留を受けた日本人捕虜が工事をしたとされる バレエ・オペラ劇場のナヴォイ劇場 出典:Wikipddia ウズベキスタンの紙幣にも描かれているナヴォイ劇場 出典:Wikipddia 過酷な強制労働にも関わらず、後述の地震にも全くの無傷という見事な仕事がなされており、他にも道路・工場といった多くのインフラが今でも現役で機能していることとあわせ、現在ウズベキスタンで親日感情が高いことの一因となっているようです。 1966年4月26日、大地震に見舞われ、78000棟の家屋が倒壊しました。地震後、計画的な都市作りが行われています。そのため非常にソ連的な町並みとなり、最盛期にはソ連で4番目の人口を誇る大都市に成長しています。 ウズベキスタン独立後の今日でも大きなロシア人社会を抱えていますが、町並みからロシア色は消えつつあり、イスラム原理主義の動きも出ています。 つづく |