Memorandom 10.ウズベキスタンの古都ブハラ Buxoro, Uzbekistan 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2015年1月19日 独立系メディア E−wave Tokyo |
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ウズベキスタンの国章 以下は現在のブハラ市の概要です。 ここではWikipediaを参照、引用しています。 ブハラ(ウズベク語: Buxoro)は、ウズベキスタンの都市であり、ブハラ州の州都です。ザラフシャン川下流域に古代より栄えたオアシス都市で、1993年には、旧市街地がユネスコの世界遺産に登録されています。人口は約23万7千人(1995年)です。 ブハラは古代からサマルカンドと並ぶいわゆるソグディアナの中心都市であり、イスラーム時代以降、特にサーマーン朝の首都となってからもイラン・中央アジアにおける最も重要な都市のひとつであったと言えます。 また近代でも20世紀の初頭までブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)の首都が置かれ、西トルキスタンにおける政治・文化の中心都市でした。 特にサーマーン朝にはじまる近世ペルシア語文学の発信源としてこの都市が残した足跡は大きく、シャイバーニー朝やジャーン朝においてはブハラの宮廷でペルシア語に加え、チャガタイ語文芸運動を隆盛させその中心都市としても発展しています。 このような歴史背景から、現在は住民の大多数が民族籍上ウズベク人とされているものの、住民の間ではペルシア語系のタジク語が広く話され、タジク人としてのアイデンティティを有する者も数多く存在する複雑な民族構成をもっています。 ミーリ・アラブのマドラサとブハラの市街地 出典:Wikipedia 地勢・産業 ブハラは、ザラフシャン川下流域のオアシス地帯に位置し、その中心都市である。約220キロ東にサマルカンド、450キロ北東にウズベキスタンの首都タシュケントが位置しています。 約85キロほど南西がトルクメニスタンとの国境であり、トルクメニスタンのテュルクメナバートは約100キロ南西となります。産業は天然ガスを産出するほか、繊維、絨毯などの生産でも知られています。 旧市街地が世界遺産に登録されて以降は観光産業にも力を入れています。 ブハラのイスマーイール・サマニ廟 出典:Wikipedia 歴史 中央アジアの乾燥地帯の中に位置しながら水資源に恵まれたオアシスに位置するブハラに人々が集落を建築し始めたのはきわめて古く、考古学上の発見から紀元前5世紀には城壁を持つ要塞都市が成立していたことが明らかになっています。 古代のこの地方ではペルシア帝国の影響を受けたイラン系の文明が発達し、紀元後のブハラではソグド人の都市国家が建設されました。 都市国家ブハラの商人たちは東西交易の仲介者として活躍し、隋唐時代の中国の記録には「安国」という名称で登場しています。 1060年に成立した唐の歴史書新唐書西域伝には「安国は又の名を布豁、あるいは捕喝建という」という意味の記載があります。 しかし8世紀初頭にはこの地方にイスラム帝国の勢力が及び、ブハラは709年にウマイヤ朝のホラーサーン総督クタイバ・イブン=ムスリムによって征服されました。これ以後ブハラはイスラム教を奉ずる勢力の支配下に置かれ、次第にイスラム化が進みます。 9世紀後半、土着のイラン系貴族がアッバース朝から自立してサーマーン朝が成立し、ブハラは10世紀の末まで続いた王朝の首都となりました。 サーマーン朝の時代には東方の草原地帯からイスラム世界に向かって送り込まれるテュルク系のマムルーク(奴隷軍人)の交易が盛んに行われたことにより、マムルーク交易と結びついた商業都市として発展を遂げた。サーマーン朝時代に市域は大幅に拡張され、要塞と長大な市壁に囲まれた市街地、およびその周囲に発達した郊外地域からなる大都市となり、ブハラはサマルカンドにかわってマーワラーアンナフルの中心都市に成長したのです。 サーマーン朝の滅亡後はテュルク系のカラハン朝、ホラズム・シャー朝の支配下に入り、政治・経済・文化の中心ではなくなりましたが、依然として中央アジア屈指の大都市でした。しかし13世紀の前半にはモンゴルの征服を受け、市街が破壊されていったんは荒廃しました。 その後のモンゴル帝国支配下で徐々に人口が回復し、同世紀の後半までに都市は復興しましたが、15世紀のティムール朝まで政治的な中心はサマルカンドに奪われたこともあり、征服以前の繁栄には及びませんでした。 ブハラはサマルカンドと双璧のすばらしいイスラム建築が多数市外に存在しています 出典:Wikipedia 15世紀初頭、明の永楽帝の命を受けた外交使節の陳誠が陸路でこの地を訪れ、『西域番国志』に当時のブハラ(「卜花児」と記録されている)の様子を記録しています。 16世紀後半に至り、ウズベク人のシャイバーン朝がブハラを実質上の首都と定めるとともに、ブハラは再び拡大に転じました。 アブドゥッラーフ2世(1583年 - 1598年)はブハラの再開発を推進し、王族、ナクシュバンディー教団、貴族によってモスク、マドラサ、公衆浴場、商店街が建設されました。 19世紀後半にブハラは南下政策を推進するロシア帝国によって征服され、ブハラ・アミール国はロシアの保護国としてその植民地に組み込まれました。ロシア人たちはムスリムたちが住む旧市街を避け、その隣接地に新ブハラ(カガン)と呼ばれる近代都市を建設したため、ブハラは本来の都市構造と景観を維持できました。 チャハル・ミナール(「4本のミナレット」) 出典:Wikipedia また、新ブハラを起点としてロシアの各地とブハラを結ぶ鉄道の敷設が進められ、ブハラはロシア帝国と緊密に結び付けられました。カガン駅は現在もブハラの鉄道の玄関口になっている。 1917年のロシア革命の影響はブハラにも及び、1920年に赤軍の軍事介入でブハラで革命が成功、ブハラ・アミール国が滅んでブハラ人民ソビエト共和国が成立しました。しかし旧支配層から国外の汎トルコ主義者まで巻き込んだ革命勢力に対する反抗(バスマチ運動)や、ロシア共産党のソビエト政権による介入・粛清によって共和国の指導層は急速に瓦解しました。 最終的に1924年にブハラ人民ソビエト共和国は解体されて、民族の分布を基準とする境界線による新しい共和国が編成されることになった。 1991年にソビエト連邦が崩壊してウズベキスタン共和国が独立すると、ブハラは新しいウズベク独立国家の優れた文化遺産として再評価されるようになりました。 1993年のユネスコ世界遺産登録を経て、観光都市としてのブハラの再開発が進んでいる。ユネスコの後援で開催された1997年のブハラ建設2500周年の祭典をきっかけにブハラの歴史的建造物の修復が行われましたが、建物が本来持つ特色が失われたという声もあります。
つづく |