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女性地謡「鵜澤久の会」
能楽公演 参加記
青山貞一
掲載月日:2013年1月27日 
独立系メディア E−wave


 以前から気になっていた「能楽」にはじめて接することができた。

 同僚の池田こみちの聖心女子大付属中学校、高等学校の同級生、鵜澤 久さんが私の自宅近くのJR目黒駅近くにある能楽堂で能を研究公演するということで、池田そして池田の叔母と3人で参加した。

 鵜澤さんは、聖心女子大付属高校卒業後、東京芸術大学邦楽科観世流を専攻後、同大学院を修了し、現在、女性の観世流シテ方能楽師準職分である。鵜澤さんのお嬢さん、鵜澤光さんも東京芸術大学邦楽科観世流を専攻後、現在、女性の観世流シテ方能楽師準職分であり、今回公演されていた。


左、池田こみち、右、観世流シテ方能楽師 鵜澤久氏 能楽堂の楽屋にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-1-26


左、青山貞一、右、観世流シテ方能楽師 鵜澤久 能楽堂の楽屋にて
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S8 2013-1-26

 能楽堂の場所は、JR目黒駅南口からドレスメーカー学院通り(ドレメ通り)を南側に300mほど下ったところにある。喜多六平太記念能楽堂(以下は道順地図)である。


喜多六平太記念能楽堂の位置 出典:グーグルマップ

 実は6年ほど前まで、私達の環境総合研究所(東京都目黒区)の本社は、この能楽堂の斜前にあるマンション雅叙苑にあった。そんなこともあり、一度能楽堂に行ってみたいと思っていたが、池田の友人が観世流の能楽師であったこともあり、今回、研究公演に参加することとなった。

 なお、鵜澤さんのご自宅兼稽古場は、私達の現在の研究所がある東京都品川区旗の台のすぐ近くにあり、鵜澤さんご自身が研究所に来られたこともある。

 
目黒駅近くにある喜多六平太記念能楽堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-1-26


喜多六平太記念能楽堂の入り口
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-1-26

 なお、観世流とは、能楽における能の流派のひとつであり、シテ方、小鼓方、大鼓方、太鼓方がある。シテ方観世流については、以下の説明をご覧頂きたい。

◆シテ方観世流

 大和猿楽四座のひとつ結崎座に由来する能の流儀。流儀の名は流祖観阿弥の幼名(芸名とも)である「観世(丸)」に基く。二世世阿弥は能の大成者として名高い。

 現宗家は二十六世観世清和。能楽協会に登録された能楽師は2006年の時点で560名あまりにのぼり、五流最大の流勢を誇る。一時梅若家が梅若流として独立したこともあったが、現在は観世流に復帰している。

 大流であるため、内部に芸風の差があるが、豊麗で洗練された味わいが特色とされる。謡はギンを出さず(産み字をつけない)、高音を利かせて、華やかに謡うのが特色で、型も圭角のすくない、まろやかなものを好む。戦後『三山』『求塚』『蝉丸』を復曲し、現行曲は210番。

出典:Wikipedia

観阿弥(正慶2年/元弘3年(1333年) - 至徳元年/元中元年5月19日(1384年))

 日本の南北朝時代から室町時代にかけての猿楽師。息子の世阿弥とともに、いわゆる能を大成した人物。名は清次。時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに観は観世に由来)は観阿弥陀仏。その略称が観阿弥で、早くから観世大夫、あるいは観阿弥、観阿として記録に登場する。観世家の祖。観阿弥最後の舞台となった静岡市葵区宮ヶ崎町の静岡浅間神社には、26世宗家観世清和による顕彰碑がある。 またその観阿弥の生涯を描いた舞台「カンアミ伝」を劇団わらび座が舞台化を行っている

世阿弥(正平18年/貞治2年(1363年)? - 嘉吉3年8月8日(1443年))

 日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。 父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。幼名は鬼夜叉、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは、「世阿彌」。

出典:Wikipedia

飛鳥時代
奈良時代......「猿楽」の源流、起源?
平安時代......「能楽」の源流、起源?
鎌倉時代
室町時代...... 観阿弥、世阿弥
南北朝時代.....世阿弥
戦国時代
安土桃山時代
江戸時代
幕末
明治時代

 下の写真は平泉中尊寺の白山神社にある能楽堂である。この能楽堂は、舞台、楽屋、橋掛、鏡の間などを完備し、近世の能舞台としては東日本唯一のもの。国の重要文化財に指定されている。


平泉中尊寺の白山神社にて
撮影:池田こみち Digital Camera Nikon CoolPix S10

岩手県平泉、白山神社

 養老元年(717年)、泰澄によって開かれたという。中世以降比叡山延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られるようになる。白山信仰の越前側の禅定道の拠点(越前馬場)として、最盛期には48社36堂6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市を形成した。

 『平家物語』には、平家と木曾義仲方との燧ケ城の戦いで、平泉寺の長吏斎明が木曾義仲を裏切り平家側についたことが書かれている。斎明はその後の倶利伽羅峠の戦いで捕らえられ処刑されているが、一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。


平泉の白山神社本殿
撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8

 戦国時代には朝倉氏と肩を並べる越前国の一大勢力であったが、天正2年(1574年)一向一揆勢に焼き討ちされ衰亡。その後、豊臣秀吉などの崇敬を受けて顕海が復興し、江戸時代には福井藩・越前勝山藩から寄進を受ける。

 寛政8年(1688年)いさかいが絶えなかった越前馬場と加賀馬場の問題が江戸幕府により裁定された際に白山山頂が平泉寺領と定められ、白山頂上本社の祭祀権を獲得した。明治時代に神仏分離令により寺号を捨て現在に至る。

出典:Wikipedia


東日本随一と言われる平泉中尊寺、白山神社の能楽堂
撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8


撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8


撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8

 下は、秩父事件の発端となった椋神社内にある能楽堂である。


椋神社境内の能楽堂(埼玉県秩父郡にて)
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


椋神社境内
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

足利義満(あしかがよしみつ。1358―1408)と能

 義満は室町幕府三代将軍。能の大成に大きく関わった。

 義満は、将軍職を義持に譲り大御所となった応永元年(1394)の後にも、応永十五年(1408)に没するまで、最高権力者として君臨した。

 能の大成者の一人である観阿弥が催した勧進能を見物した義満は、その芸のすばらしさに感服し、これ以降、猿楽の能役者を後援するようになった。それまでの幕府は、田楽の能役者だけを後援していたのである。したがって、猿楽の能役者にとっては、この勧進能は歴史的な大きい出来事であった。

 その勧進能に父観阿弥と共に出演した世阿弥は、美童であったと推測され、義満に寵愛ちょうあいされ、それによって義満近侍きんじの公家くげとも親しく交わる機会を得て、当時の上層文化を吸収したと考えられる。連歌に秀でた二条良基にじょうよしもとなどとの具体的な交流もあったと推測される。このような上層階級との交流は、後の世阿弥の作能に大きな影響を与えたと考えられている。

 また、観阿弥の勧進能を観覧した後の義満は、観阿弥に続いて近江猿楽の犬王(後に道阿弥と称する)という能役者の藝を好み、観阿弥の後には、世阿弥を凌いで、犬王が能界の第一人者の地位を得た。その後義満は没するまで、犬王を世阿弥よりも優遇したようであるが、それは世阿弥が冷遇されたという意味ではなく、二人の年齢的な差による藝の円熟度もかかわっているのかもしれない。

 世阿弥も、変わらずに義満の後援を受け、室町幕府の御用役者的地位を得ていた。そしてその期待に応えるために、世阿弥は数多くの能を作ったとされる。そのようにして作られた世阿弥の作品は、そのほとんどが現在でも名作として頻繁に上演されている。
応永六年に、世阿弥は京都一条竹ヶ鼻で勧進能を催した。義満後援のもとに行われたこの勧進能によって、世阿弥は当時の猿楽の能の第一人者と認められたと見られている。

 観阿弥・犬王(道阿弥)・世阿弥という優れた役者が世に現れ、猿楽の能が芸術と言いうるような変質を遂げたのは、為政者足利義満の権力によるところが大きかったと言えるだろう。

出典:Wikipedia


入場券

 能楽堂内部は、以下の写真のごとくとなっている。大きな神社に行くと、どこにも能舞台があるが、その舞台が能楽堂内部に入れ子になっている。

 東京のど真ん中、それも自宅近くに、こんな能楽堂があるとはつゆほども知らなかった。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-1-26


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-1-26

 観客席は以下の配置図にあるように舞台の下側を中心に左側、二階席がある。私達はA席の最後部に座った。上の写真はそこから撮影した舞台である。


出典:鵜澤久第三回研究公演パンフレットより

 肝心の番組を示す。
 
 鵜澤光さんらによる「仕舞」そして鵜澤久さんの「葛城」あと、観阿弥の作品で有名な「求塚」が公演された。

 あらかじめあらましなどを「勉強」していったが、能の世界の奥行きと歴史・文化に魅せられた一日であった。気になったこととして、どうみても参加者の平均年齢が70歳超であったことである。

 他の伝統芸能でもそうだが、もっと若い人々に能楽の存在をアピールできればと思う!

 青山貞一


出典:鵜澤久第三回研究公演パンフレットより


 以下は<求塚>の解説。

◆求塚 ― もとめづか ―



作者 観阿弥
素材 『大和物語』
場所 摂津国 生田(現・神戸市生田区)
季節 早春
演能時間 1時間40分〜50分
分類 4番目 執心物

■あらすじ
出典:http://www.kanshou.com/03/butai/motome.htm

「住みわびぬ我が身捨ててん津の国の生田の川は名のみなりけり」

 旅の僧が都に上る途中、生田の里で、若菜摘みの女性に、生田の森、生田の川、求塚などの事を尋ねます。若菜摘みの女性たちは戯れながら帰ってしまいますが、1人残った女性が、求塚のことを語ります。

「 昔この所に、菟名日少女と申す女ありしに。また其の頃、小竹田男子、血沼の丈夫と申しし者、かの菟名日少女に心をかけ、同じ日の同じ時、わりなき思ひの玉章を通はす。…」小竹田男子と血沼の丈夫、二人の男に思いを寄せられた菟名日少女は「彼方へ靡かば此方の恨みなるべし…。」と、どちらにも靡かずにいましたが、様々の争いの後、二人の男は生田川の鴛鴦を弓矢で射、二つの矢先は同じ鴛鴦に当りました。菟名日少女は、鴛鴦が死んだ事までも「我故」と思い、「住みわびぬ我が身捨ててん津の国の生田の川は名のみなりけり」、これを最後の言葉に菟名日少女は生田川に身を捨てます。それを取り上げ、塚の土中に籠め、又、二人の男は「何時まで生田川…」何時まで生きる事があろうかと、と刺し違えて死んでしまいました。

 これを語るうちに、その女性は、菟名日少女を「私」と言い、二人の男が死んだ事まで「我が利(トガ)」で、たすけ給えと言いながら塚の中に入ってしまいます。

 所の者に話を聞き、僧は弔いをしていると、求塚の中より弔いを喜ぶ声が聞こえ、浮かばれていない菟名日少女の亡霊が現れます。小竹田男子と血沼の丈夫、二人の男は、菟名日少女の左右の手を引き、来れ来れと責め、又、鴛鴦は鉄鳥となって、菟名日少女の髪に乗り移り、頭をつつき、髄を食います。菟名日少女は、地獄の鬼に追っ立てられ、「行かんとすれば、前は海、後は火焔、左も右も水火の責めに詰められて」しかたなく柱に縋りつくと、柱は火焔となって燃え上がります。八大地獄の責めを受け、三年三月の苦しみが果てると、鬼も去り火焔も消え、暗闇となります。菟名日少女の亡霊は、元の住処を求め行き、求塚の草の蔭野の露の様に消え失せます。

 能「求塚」の前半、菟名日少女は、雪の残る新春に菜摘み女たちに交じり、旅僧に戯言を言いながら、楽しそうに若菜を摘みます。本当ならば幸せな一生を送る筈であったと思います。ひょっとすると、楽しそうに若菜を摘む女たちと自分も一緒にと思って、ひかれるように交じったのでしょうか。

 菟名日少女は、「彼方へ靡かば此方の恨みなるべし…。」と考える様な、やさしい少女であった事と思います。己が決断をしなかった事で、また、己にかかる事を受け入れ様とした事で、思いもよらない結果となりました。鴛鴦が命を落とした事も「我故」と考え、自分で自分の命を絶ち、それ故、二人の男まで死んでしまいます。

 「住みわびぬ我が身捨ててん津の国の生田の川は名のみなりけり」生田の川は名のみなりけり。生きるという名前であるのに、生きられなかった…。浮世を渡るという言葉がありますが、生きていく事の難しさを思わずには居られません。菟名日少女、小竹田男子、血沼の丈夫の三人は、神戸の処女塚、その東西にある二つの求塚に、今も浮かばれずにいるのでしょうか。「やさしい」「優柔不断」、「強い」「わがまま」、「中道」「適度」、色々な言葉を改めて考えさせられる思いでおります。

登場人物

前シテ・・・菜摘の女

面:若女、節木増、孫次郎、小面

装束:鬘、紅入鬘帯、摺箔、紅入縫箔腰巻、水衣、紅入腰帯又は唐織着流、鬘扇、篭

後シテ・・・莵名日少女の霊

面:痩女

装束:鬘、紅無鬘帯、摺箔、浅黄大口、白練壺折、紅無腰帯、紅無鬘扇

ツレ・・・菜摘の女

面:小面

装束:鬘、紅入鬘帯、摺箔、紅入縫箔腰巻、水衣、紅入腰帯、紅入中啓、籠

ワキ・・・旅僧

装束:角帽子、無地熨斗目、 水衣、鍜子腰帯、墨絵扇、数珠

ワキツレ・・・従僧

装束:角帽子、無地熨斗目、縷水衣、鍜子腰帯、墨絵扇、数珠

アイ・・・所の者

装束:長上下

■舞台展開

塚に見立てた作り物が後見によって出される。

旅僧(ワキ)、従僧(ワキツレ)が、都へ上る途中、生田の里へ着く。

里の若い女(シテ・ツレ)の登場。早春の生田の風景を叙し若菜を摘もうと言う。
若菜摘みの様子が謡われる。ツレ二人は帰ってしまい、シテのみが残る。

一人残っていた里女は、旅僧を求塚へと案内し、その謂れを語り出す。

―昔、莵名日少女が二人の男に求愛され、生田川の鴛鴦を射当てた者にと決めたが、二人の矢は一つの鳥の翼に当ってしまった。 少女は生田川に身を投げ、二人の男は刺し違えて空しくなった。―そして、僧に回向を頼んで塚の内へと消えていった。

所の者(アイ)の居語。求塚の謂れについて莵名日少女の物語を述べる。

旅僧、莵名日少女の亡魂を弔っている。

莵名日少女の霊(後シテ)が荒涼たる墳墓の有様、現世への妄執を述べ、塚の中から現れる。

旅僧が回向をすると、莵名日少女の霊は苦しみのなかでも御法の声を聞けたことを感謝するのだが、今も二人の男の亡心に責められ、また八大地獄の数々の苦しみの様を見せる。

しばらくの安らぎの時がきて、もとの住処へ帰ろうと言って、暗闇のなかに塚を探し求め、そのまま姿は消え失せる。

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