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ちなみに、私たちが調査などでよく行く福島県二本松市には、二本松少年隊があった。 二本松少年隊(にほんまつしょうねんたい)とは、幕末の二本松藩において戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊のこと。ただし、会津藩の白虎隊と違い当時は隊名がなく、二本松少年隊と名づけられたのは戊辰戦没者五十回忌に刊行された「二本松戊辰少年隊記」からである。 白虎隊にせよ、少年隊にしても、少年武士の自刃は、非常に痛ましいものであり、単に幕末における日本武士の忠義などとして称えるべきものなのかと思うが、当時、この白虎隊の行動に対してイタリア、ドイツなど海外から碑の寄贈が相次いだ。 下は、イタリアのローマ市から寄贈された碑である。 イタリアのローマ市から寄贈された碑 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.2 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.2
下はドイツのフォン・エッツ・ドルフ氏寄贈の碑である。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.2
たまたま会津藩殉難烈婦の碑を見ていると、近くにいたボランティアの女性説明者が私たちの会話に割り込んできて、戊辰戦争時、政府軍の中核にいた薩長土肥軍を激しく非難しはじめた。 とりわけ土佐の坂本龍馬を厳しく罵倒したので、吉田松陰はどうかというと、龍馬ほどではないが、とやはり激しく罵倒する。さらに薩摩、西郷はと水を向けると、薩摩藩は「頭が悪くて...」ともう止まらなくなった。 私(青山)が吉田松陰門下でありながら新政府と意見が合わず下野し、1876年(明治9)萩の乱を起し斬罪された前原一誠について聞こうとしたが、もうどうしようもなかった。 戊辰戦争において会津藩、白虎隊の最大の宿敵は、言うまでもなく薩長土肥軍である。それを末代まで石に刻んでいる彼女の言動に、会津の精神文化をかいま見た次第である。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.2 私自身(青山)、日本の米国追随、米国盲従の原点は、福沢諭吉、伊藤博文、吉田松陰、坂本龍馬と思っているのだが、戊辰戦争(慶応4年/明治元年 - 明治2年、1868年 - 1869年)終結から140年以上たった今でも、骨の髄まで鬼畜薩長土肥連合としているのは、なかなかのもので感心、感動した次第である。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.2
下は、会津藩最後の藩主、松平容保弔歌の碑である。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.2
つづく |