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   3.11以降の日本B
  
  津波被害の半分は人災
  
  歴史的教訓を生かせ!
             青山貞一
             政策学校一新塾代表理事
            掲載月日:2012年3月21日
                  独立系メディア E−wave Tokyo

             無断転載禁

 以下は、2012年3月20日、東京都港区にある政策学校一新塾で代表理事、青山貞一が行った基調講演の一部である。今後、何回かに分けて基調講演の内容をお伝えしてゆきたい!




ミニ講義をする青山貞一、東京港区に政策学校一新塾にて
2012.3.20


ミニ講義をする青山貞一、東京港区に政策学校一新塾にて
2012.3.20

●世界の地震の10%は日本列島とその周辺海域

 世界で起きている地震の10%が日本列島とその周辺で起きているとされる。



 日本の歴史をひもとけば、三陸絵画への津波の場合、主な津波だけをとっても以下のように1000年に一度ではなく、100年に一度の頻度で来襲している。


   869年 貞観三陸津波
  1611年 慶長三陸津波
  1896年 明治三陸津波
  1933年 昭和三陸津波
  2011年 東日本大震災・津波


 ちなみに2011年の東日本大震災・津波と1896年の明治三陸津波の主な被災地における犠牲者を比較すると以下のように、明治三陸津波は東日本大震災津波に比肩される巨大な津波であったことが分かる。

               2011年         1896年(推定値)
           東日本大震災津波     明治三陸津波
★岩手県  
大槌町         1,450人         900人 ( Max 9m, Ave 6m)
釜石市         1,180人        8,181人 (Max 15m, Ave 12m)
大船渡市          449人        3,143人 (Max 26m, Ave 11m)
陸前高田市       2,098人         845人 (Max 33m, Ave 9m)

★宮城県           
気仙沼市      1,411人      1,467人 (Max 22m, Ave 7m)

 合計          6,588人      14,536人

( )内は最高波高と平均波高

2011年8月23−25日、三陸海岸津波調査対象地域

調査対象となった三陸海岸   作成:青山貞一

 今回、日本全体で2万人超の津波犠牲者を出したと言うことは、紛れもなく過去の甚大な被害からの教訓を国、自治体が生かしてこなかったことを意味する。

 一言で言えば、「津波被害の半分は人災」なのである。下の動画は、まさに津波被害が決して単なる自然災害ではなく、半分は人災であることを詳述したものである。


◆青山貞一:繰り返す津波被害の半分は人災である? You Tube


◆現地に見る生死の分かれ目

 地域によって異なるが、私たちが現地調査で行った目視確認及び住民らへのインタビューでは、津波の高さは市街地でも3階のビル屋上を超え20mに及んでいる地域も結構あった。 また海に流れ込む河川がある場合、例えば中小の河川の場合、上流5km近くまで津波が押し寄せ家屋を破壊していた。

 3.11でもっとも甚大な被害が起きた地域のひとつ岩手県大槌町では、高台にある大槌稲荷神社の宮司さんに詳細なインタビューを行った。

 大槌町は小さな町で1500人近くが亡くなったり依然として行方不明となっている複雑に海岸線が入り組んだリアス海岸の一角にある町だが、神社に逃げ込んだ地域住民は命が助かったが、家財などを取りに自宅に戻った人(主に父親)は帰らぬ人となったとのことである。

 この神社では3.11以降、当分の間150人もの被災住民を境内、神社内で対応したとのことである。

 以下は大槌町の安渡地区で生死を分けた大槌稲荷神社の階段である。上から2段下近くまで津波が押し寄せたという。 下の写真で青山の右足が置いてあるところまで津波が押し寄せたとのことである。


生死を分けた岩手県大槌稲荷神社の階段にて 撮影:池田こみち


生死を分けた岩手県大槌稲荷神社にて 撮影:青山貞一


生死を分けた岩手県大槌稲荷神社にて 撮影:青山貞一

 以下は3.11前後の大槌市の中心部である。



 以下は3.11前後の大槌市稲荷神社である。


出典:青山貞一

大槌稲荷神社
 〒028-1105:岩手県上閉伊郡大槌町安渡2丁目8−1

 稲倉魂命・健御名方命二柱を御祭神として、当初は笹原稲荷の社名で、現在の寺沢の地に祀ってあったが、その後鳩崎(現在の釜鼻の地)に鎮座、 時代の経過とともに参拝者が増え境内が手狭となり、享保五 年(1720年)現在地、稲荷山に再遷宮 を以って社名を二渡神社と改称しましたが、昭和18年11月18日、社名を大槌稲荷神社と改め今日に至っています。 海の神社の特色を持ちながら、五穀豊穣・海上安全・富国安民の祈誓をこめられるなど、沿岸地方にあって霊験あらたかなお社として崇敬されています。(大槌商工会HPより)


●浸水域と神社の位置

 私たちが三陸海岸(岩手県南部、宮城県北部)にでかけたのは、2011年8月23日からだが、8月20日のTBS 報道特集で、なぜ?神社の手前で大津波が止まったワケ (2011/8/20 放送)が放映されたそうだ。

 至極残念だが、私たちはこの特集を見ていなかった。

 TBSの番組案内によると、「福島県の沿岸を調べていくと、不思議な現象が確認された。東日本大震災で起きた津波の浸水域の線上に多くの神社が無傷で残っていたのだ。今回、私たちの取材で浮かび上がってきたのは、何百年・何千年の昔から伝わる先人たちの知恵、いわば『いにしえの警告』とも呼べるものだった」とある。

 さらに、なぜ?神社の手前で大津波が止まったワケとあり、以下のようなリードを見つけた。

▽福島県沿岸部の82の神社と津波の浸水域の不思議な符合
▽宮城でも岩手でも・・・
▽相馬市長が語る言い伝え
▽古文書に残されていた記録・・・慶長の大津波(1611年)
▽江戸時代の街道と宿場町にも先人の知恵
▽地名にも表れる過去の災害の教訓
▽貞観津波(869年)と神社の教訓
▽東京電力と東北電力の津波の想定
▽生かされなかった2年前の警告
▽20メートル削り取られた敷地に立つ福島第一原発

 そこでYouTubeに再録されていないかと探したが、残念ながら今のところ見つけられなかった。さらにツィッター情報を探すと以下が出てきた。

 
視察した大槌、釜石、大船渡、陸前高田、気仙沼の沿岸域を対象に、沿岸域と神社の位置関係をグーグルマップ、グーグルアースを用いて調査してみた。

 以下が今回視察した岩手県南部、宮城県北部の三陸海岸にある神社の位置である。地図上、色及びで示している。地図では、今回訪問できなかった岩手県北部の山田町、宮古市も含まれている。

 なお、神社はグーグルの拡大率によって増えたり減ったりすので、以下に示した神社が実存するすべての神社を示しているわけではない。


三陸海岸(宮古市〜気仙沼市)にある神社の位置。
神社は地図上、色及びで示している。
出典:グーグルマップ  

 以下は今回の現地視察地ではないが、宮城県南三陸町から福島県内南部までの沿岸地域に存在する神社の位置である。


三陸海岸(南三陸町〜いわき市)にある神社の位置。
神社は地図上、色で示している。
出典:グーグルマップ  


●歴史的教訓を生かせ!

 以下に現地調査に基づく青山、池田の総括を示したい。

(1)東日本大震災・津波に際し、国、行政関係者、東電などの事業者、関連研究者らは、東日本大震災・津波を称し、1000年に一度の自然災害であるかの発言をしているが、それは事実に反するものであり、115年前に起きた明治三陸地震・津波に類するものであること。

(2)明治三陸地震・津波によって甚大な被害、犠牲者が出たにもかかわらず、その経験が教訓としてその後のまちづくりに十分生かされてこなかったこと。

(3)その背景には、1200億円の巨費を投じた釜石市の巨大湾口防波堤や同じく釜石市の小白浜海岸につくられた巨大なコンクリート堤防など、いわゆる土建公共事業的な対応、それも内務省、復興省、建設省、国土交通省、水産庁などの直轄あるいは補助による土建事業があったことは否めない。

(4)上記の土建公共事業とその効果の過大宣伝により、当該地域に住む住民らの心理として、あの巨大堤防があるから、あのコンクリート堤防があるから万が一の場合でも問題ない、また避難する意識が鈍った可能性も否定できないだろう。

(5)さらに実際、三陸海岸各地を現地調査して強く感じたのは、いずれの被災地も被害、犠牲者の圧倒的多くは当然のことながら、海水面と数mと違わない臨海部やその背後地の平場、さらに海に繋がる河川の下流、中流で起きていることである。

(6)これは言うまでもなく明治三陸津波以降、高台への移住があったとしても、それらの多くは個人移住、分散移住が中心であり、集団移住さらにはまちづくりレベルでの一括移住は多くなかったことがある。

(7)現地調査では、甚大な被害を受けたまちでも、(5)に示した以外の対応、すなわち浸水域より上(高台)に移住した住宅や施設は、甚大な被害を免れていた。浸水域は、当然のこととして地形などの要因、条件によりことなる。現在、現地ではこの浸水域が道路毎に明示されている。

(8)おそらく明治三陸津波発生後、各三陸地域では、高台など浸水地域を越える地域への個人単位あるいは集団での移転が行われたのであろうが、当然のこととして、その基礎となる財政基盤、資金が課題となる。また、一旦移転しても、漁業関係者などは、次第に海浜、海岸に関連施設を再移設したり、住宅を再移設してきた実態があるようだ。

つづく