日本と中国の歴史をひも解くシリーズ 日本における 「平頂山事件」 の扱われ方 出典:Wikipedia 日本語 独立系メディア E-wave Tokyo 2021年11月18日 |
一万人の洞窟(遼寧省撫順市平頂山の一万人の洞窟)記念碑 総合メニュー へ 本文 平頂山事件とは、1932年9月16日、現在の中国遼寧省北部において、撫順炭鉱を警備する日本軍の撫順守備隊(井上小隊)がゲリラ掃討作戦をおこなった際に、抗日ゲリラと通じていたとされる楊柏堡村付近の平頂山集落の住民の多くを殺傷した事件である[1]。 事件の経緯 1932年9月15日、日満議定書が締結され日本国は満州国を承認した。締結日の払暁から16日未明にかけて銃、槍、太刀で武装した中国側匪賊の大軍が撫順炭鉱の楊柏堡、東郷、東が岡などの採炭所を襲撃、施設に火を放ち、日本人5人が殺害された[3][6][7]。 事件では匪賊が楊柏堡採炭所の撫順医院看護手濱口友七郎や龍鳳採炭所職員の家族土田慎一郎は銃声とともに匪賊の「ヤー、ヤー」「ホイホイ、ホイホイ」などの叫び声を聞いている[2][8]。炭鉱事務所や社宅は匪賊によって焼き払われた[7]。殺害された犠牲者は目を繰り抜かれ、耳、鼻をそぎ落とされていたため、本人確認が困難であった[7] 事件の誘因となったのは、1932年9月15日の反満抗日ゲリラ「遼寧民衆自衛軍」による、撫順炭鉱襲撃事件である[2] 。この背景には、満州国の建国宣言(1932年3月1日)以来活発化していた、反満抗日運動の存在がある。 民間人居住区を狙ったこの襲撃に対し、周辺居住者を炭坑内や公会堂に避難させ、大人だけではなく青年団員や中学三年生以上(いずれも民間人の若者)を緊急に招集し、市街地への侵入を必死で阻止した。 当初放火を主としていたゲリラ側は戦術の不手際により、作戦が成功したとは言い難いまま退却したが、日本側も、炭鉱所所長含む死者5名、重傷6名、総額21万8,125円の被害を受けた。 翌日の撫順守備隊の捜索の結果、平頂山集落で前日の襲撃の際の盗品が発見され、当集落がゲリラと通じていたとの判断を下した。16日朝、ゲリラ掃討の目的で40名程の部隊が平頂山村に侵入し、同村住人のほぼ全員を同村南西側の崖下に集めて包囲し、周囲から機関銃などで一斉に銃撃し、また、生存者を銃剣で刺殺するなどして住人の大半を殺害した。 事件後に旧日本軍守備隊や撫順炭鉱関係者らは、殺害された住人の遺体を崖下に集めて焼却した上、崖を爆破して遺体を埋め、その周囲に鉄条網を張るなどして立ち入ることができないようにした。[3] 同集落が(または同集落の一部が)ゲリラに関与していたかどうかについては現在、否定も肯定もされてはいない。 事件後、撫順周辺の中国人労働者に動揺が走り、撫順を離れるものが大量に出た、と当時記録されている。中国国内では新聞などで報道され、国際連盟においても、1932年11月24日、国民政府の顧維鈞首席代表が問題にしたが、中国側の追及不足と日本側のあくまで掃討作戦の一環であるなどとする意見に、当時はそのまま終息している。被害者人数については諸説があり、中国側は、発掘死体の数などを根拠にしたとして3,000人を主張している。 また、守備隊の中隊長であった川上精一大尉の親族である田辺敏雄は、自著の中で、虐殺に参加した兵士の証言などをもとに犠牲者数を400-800人と推定している。なお当時、平頂山集落の人口は約1,400人、犠牲者数600人前後とする資料もある。 ジュネーヴでの国際連盟理事会では、中国側の被害者は死者700、重傷6~70、軽傷者約130名と報告されている。いずれも確証はなく、被害者の人数については類推の域を出ない。 戦後の裁判 この事件は、終戦後まもなく、国民政府の戦犯法廷で裁かれた。直接実行者である井上清一中尉(当時)をはじめとする軍関係者は終戦までの間に既に他所へ移動しており、終戦時の国民政府による身柄確保を免れたが、代わって現地に留まっていた炭鉱関係の民間人11人が逮捕された。 1948年1月3日、元撫順炭鉱長ら7人に死刑判決が下された[4] 。同年4月19日に刑が執行)、残り4人は事件と関係が薄いとの理由で無罪となった。死刑になった7人も事件とは無関係とされた[1]。 戦後の動き 日本では、戦後に本多勝一が朝日新聞に連載した「中国の旅」で、この平頂山事件がとりあげられ(連載1971年、書籍刊行1972年)、知られるようになった[2] 。 民主党議員団による日本への謝罪要求 2009年5月6日、訪中していた民主党の議員団[注 2]は、日本政府に対し、事件について公式謝罪をするように要求した[5]。 衆議院議員 : 逢坂誠二、郡和子、近藤昭一、佐々木隆博、篠原孝、田島一成 、筒井信隆、平岡秀夫、山田正彦 、横光克彦 参議院議員 : 相原久美子、犬塚直史、岡崎トミ子、神本美恵子、今野東、谷岡郁子、中村哲治、那谷屋正義、白眞勲、藤谷光信、松浦大悟、松岡徹、松野信夫、水岡俊一 「平頂山事件」裁判 事件当時4-9歳だった生存者の中国人男女3名が日本政府に各2000万円の国家賠償を求めた訴訟。一審(東京地裁)・二審(東京高裁)判決とも虐殺の事実を認定したが、賠償請求については棄却した[6]。2006年5月16日、最高裁が国家無答責の原則により、原告側の上告を棄却する決定を出し、結審した。 平頂山事件を描いた作品 テレビドラマ さよなら李香蘭(1989年、日本) 脚注 注釈 ^ 犠牲者数については、400 - 800人(田辺敏雄による説)や3,000人(中国説)など諸説がある 参考文献の出典 1^ コトバンク紅槍会 2^ a b 葛原恂 『負けてたまるか: 埋もれた小さな昭和史』 文芸社、2002年、18頁。 ISBN 483554773X 3^ a b c ““反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃”. 産経新聞: p. 2. (2015年9月13日) 4^ 葛原恂 『負けてたまるか: 埋もれた小さな昭和史』 文芸社、2002年、19頁。 ISBN 483554773X 5^ a b 李香蘭略年譜 テレビ東京 6^ 葛原恂 『負けてたまるか: 埋もれた小さな昭和史』 文芸社、2002年、18-19頁。 ISBN 483554773X 7^ a b c ““反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃”. 産経新聞: p. 4. (2015年9月13日) 8^ ““反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃”. 産経新聞: p. 3. (2015年9月13日) 9^ 山口淑子・藤原作弥著『私の半生』23-29頁 関連項目 ・平頂山事件 ・済南事件 ・尼港事件 ・通州事件 カテゴリ: 中華民国の国際関係 (1912-1949)日中関係史日本人の国外犯罪被害中国による大量虐殺中国の殺人事件1932年の満州国撫順の歴史1932年9月 総合メニュー へ エントランスへはここをクリック |