東マレーシア・サバ州現地予備調査 東インド会社による東南アジア収奪 East India Company and Southeast Asia exploitation 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2015年2月9日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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<全体目次> 1月31日 成田→コタキナバル(東マレーシア・サバ州) 2月 1日 ~ 2月4日 現地予備調査 1日 熱帯雨林自然保護区野生生物観察 2日 ボルネオ島最北部クダッ現地視察 .........● 3日 キナバル山麓、キナバルパーク現地視察 4日 コタキナバル市内視察 2月 5日 コタキナバル→成田 ◆大航海時代における東インド会社による東南アジア収奪 本稿の主な出典は、ステディー・マレーシア及びWikipediaです。 英国によるインド、スリランカさらにボルネオなどにおけるアジア諸国における東インド会社は有名ですが、大航海時代、英国以前に、スペイン、ポルトガルも同様に、船でアフリカ南端を回り、アジア、とりわけ東南アジア諸国で東インド会社を設立していたのです。 ここでは、ポルトガル侵攻、支配以降、とりわけオランダ、英国について振り返ります。それ以前は、もちろんスペインによる侵攻、支配です。 オランダによるボルネオ島やスマトラ島、ジャワ島などのインドネシアの植民地支配は有名ですが、実はそれよりも1世紀前の16世紀、ポルトガルがアジア貿易、特に香料交易の利益独占のためアジアにやってきました。 ポルトガルは最初にインドのゴアを支配し、そこを根拠地と、さらに現在のマレーシアのマラッカを次の拠点目標にしたのです。1511年、インドのゴアを出発したポルトガル艦隊は18隻(兵隊は約1000人)でした。 しかし、現地より遙かに秀逸な武器を使って2万人のマラッカの兵隊を破り、マラッカを完全制覇しています。当時、王座を追われたスルタンはジョホールにジョホール王国をつくりポルトガルに攻撃をくり返しました。しかし、結局、マラッカを取りかえすことはできませんでした。 有名なカソリックのキリスト教イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルらがアジアにやってきたのはこの時期にあたります。現在、マレーシアのマラッカ地域にキリスト教の古い教会が多数あるのは、このためです。支配者となったポルトガルは、キリスト教を庇護しました。しかし、これは同地に住むイスラム系の住民や商人をマラッカから追いやることなり、最終的にキリスト教をマレー半島に定着させることはできませんでした。 ポルトガルによる東南アジア諸国侵攻、支配から約一世紀ほど遅れ、マレー半島からインドネシアにかけての東南アジア海域に進出したのは,言うまでも無くオランダと英国でした。 オランダは16世紀末から東南アジアに船団を送り侵攻の機会をうかがっていました。そして1619年、ついにジャワ島のジャカルタの侵攻に成功します。さらに1623年には、下に地図を示しますモルッカ諸島のアンボジアにあった英領商館を全滅させます。 こうしてオランダはこの地方特産の香辛料の貿易をほとんど独占してさらに勢力を進展させたのです。
さらにオランダは1641年、ポルトガル艦隊を破りマラッカの新しい支配者になりました。そして、アジアにおける最強国となったのです。 オランダと英国の闘いでは1623年の「アンボンの大虐殺」が有名です。この争いには英国商館に雇われていた日本人の巻き込まれ、10人近くが処刑されたという記録が残されています。 なお、マラッカ市中心部に「スタダイス」と呼ばれる赤色煉瓦の建物が立ち並んでいますが、これは17~18世紀に建てられたもので、東南アジアで最も古いオランダ建築となっています。 現在のスタダイズの町並み 出典:Wikipedia
◆英国の東インド会社による東南アジア収奪 本稿の主な出典は、ステディー・マレーシア及びWikipediaです。 英国が本格的に東南アジア諸国に侵攻するのはその跡です。 18世紀、アジアとの貿易は対中国相手となりました。その寄港地として同時に鉱物(錫など)の生産地としてマレー半島は注目されます。 英国は上述のように、17世紀オランダとの争いに敗れ東南アジアから離脱していたのですが、18世紀も半ばになると、再度マレー半島への進出を画策します。 1789年、フランシス・ライトがマレーシアのペナン島をケダ州のスルタンから、次に1819年にはラッフルズがシンガポールをジョホールのスルタンから譲渡されました。 さらに18244年、「英蘭協定」をオランダと結びスマトラ島とジャワ島をオランダの勢力界圏として認める代わりに英国のマレー半島で権益を認めさせました。その結果、マラッカのあらゆる権益を英国のものとしたのです。 ペナン、シンガポール、マラッカの三港はやがて英国植民地省が直接統治するようになり、海峡植民地として英国によるマレー半島進出の拠点となってゆくのです。 錫の産地であったマラッカのペラ州では、採掘に中国人などが携わっていたのですが、鉱山の権利をめぐり争いが起こり、加えてスルタンの世継問題もあり混乱していました。 マレーシア(半島とボルネオ島) 出典:Wikipedia 英国は当初マレー諸国に口出しをしない方針賭していたのですが、貿易や鉱山開発などに安全をきたすとして武力を背景に混乱を鎮めました。そして1874年、「パンコール条約」を結び駐在官制度の導入をスルタンに認めさせたのです。 「パンコール条約」は、マレー人の宗教と習慣以外のすべてのことに関してスルタンは英国駐在官の忠告を受けるという不平等なものでしたが、実際は宗教、習慣以外のすべてを駐在官が取りしきることだったのです。 「パンコール条約」は、その後、マレー半島の他の王国との条約の基準になり、1896年には駐在官を受け入れたぺラ、セランゴール、ネグリセンビラン、パハンの四国がまとまりマレー連合州がつくられることになりました。 これに先立つ1840年、ボルネオ島サラワクのクチンに、英国人探検家ジェームズ ブロック(James Brooke)が二度目の訪問をしています。 当時、ボルネオ島にある東マレーシア一帯はブルネイのスルタンの領地でした。しかし、地方で頻繁に反乱がおこり、その鎮圧に手を焼いたスルタンからサワラクの支配権をゆずるという交換条件のもと援助したブルックが建てた「白人王国」は、その後次第に領地を広げ、二代目の国王チャールズのころまでに、ほぼ現在のサラワク州に相当する領土を持つようになったのです。またサバ州の支配権も1881年に英国北ボルネオ会社に渡りました。 ブルネイは領地の大部分を失い、残った領地を守ることも難しくなり、英国は、サラワクの白人王国やサバとともにブルネイを保護領にすることにしたのです。これは1888年のことです。 その後、マレー連合州に参加していなかったマレー半島のケランタン、ケダ、ペルリス、トレンガヌ、ジョホールの各州にも英国の影響が広がり、1914年までには、全州に英国人顧問が置かれるようになったのです。その結果、現在のマレーシアの領土のほぼ全部が英国の保護国になります。こうして英国のマレーシア支配は、1941年、太平洋戦争が始まるまで続くことになったのです。 英国がマレーシアを支配したこの時代は、英国内で産業革命がおこり、近代化が進展した時代です。マレー半島はその英国の産業革命の資源供給基地、工業原料の供給地として位置づけられました。半島、ボルネオ島ともに鉱山や森林、農地で働く中国人や労働者、プランテーションで働くインド人労働者が多数移り住んできたのです。マレーシアは土着のマレー人以外に中国系、インド系などの諸民族が暮らす多民族国家ですが、それは英国が支配したこの時期、時代が大きく影響していると言えます。 ◆侵略、支配の手段としての東インド会社 このように、ポルトガル、オランダも英国同様、東南アジア諸国に侵攻、支配する際、いわゆる「東インド」という国家ではない会社での貿易を行うことを大義名分としてきたのです。 「東インド」会社は、英国によるインド、スリランカなどの会社が有名ですが、その実、 ・英国東インド会社 ・オランダ東インド会社 ・フランス東インド会社 ・ポルトガル東インド会社 ・デンマーク東インド会社 ・スウェーデン東インド会社 などがあり、いずれも民間営利企業を手段として使ったと言えます。英国側の名称は、「勅許会社」でした。 その「利益追求」という目的を達成するための手段として、「貿易」「略奪」「搾取」「侵略」があっただけです。しかし、上記で見てきたように、その「東インド会社」は民間企業でしたが、東南アジア諸国をを統治する権利、軍隊を持つ権利、通貨を発行する権利などなどをスルタン、王様から認められた(認めさせた)「勅許会社」であったのです。 さらに言えば、相手国、地域が中国、日本のようにそれなりに強い場合は「貿易」を強要し、相手の国、地域が弱ければ「侵攻」「略奪」「支配」「搾取」を選択するというように、実に自国にとって都合の良い、また世界の他国に対しても言い訳の効く方法をとったと言えます。 ◆「勅許会社」の実態 勅許会社(ちょっきょがいしゃ、英: Chartered company)は、特許会社とも呼ばれ、主に英国、オランダなどの西欧諸国で国王・女王の勅許または国家行政の特別許可状をもらい設立された貿易を主とする会社であり、自国に都合の良い組織と言えます。 特に植民地獲得への貿易、植民地の経済支配の目的で作られ、そうした経済活動はリスクが大きいとし、会社設立の見返りとして経済貿易に関する独占権を与えられたものです。英国東インド会社、オランダ東インド会社などが有名です。 その歴史 1555年に英国で作られたモスクワ会社が、勅許会社としては初期の例といえます。大航海時代の貿易は各航海ごとに出資者を募り、航海後それを清算して解散しました。これを改めて、継続的な「勅許会社」を設立できるようになり、それがその後「株式会社」に発展したといわれています。 勅許会社一覧 英国 1555年 モスクワ会社 1600年 英国東インド会社 1606年 バージニア会社 1629年 マサチューセッツ湾会社 1670年 ハドソン湾会社 1672年 王立アフリカ会社 1711年 南海会社 1792年 シエラレオネ会社 1752年 アフリカ商人会社 1824年 ヴァン・ディーメンズ・ランド会社 1835年 南オーストラリア会社 1839年 ニュージーランド会社 1847年 東部諸島会社 1881年 英国北ボルネオ会社 1886年 王立ニジェール会社 1888年 帝国イギリス東アフリカ会社 1889年 英国南アフリカ会社 <参考> イギリス東インド会社(英: East India Company(EIC))は、アジア貿易を目的に設立された、イギリスの勅許会社である。アジア貿易の独占権を認められ、17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事した。当初は香辛料貿易を主業務としたが、次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行い、法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行う、インドの植民地統治機関へと変貌していった。インド大反乱の後、インドの統治権をイギリス王室に譲渡し、1870年代に解散した。 オランダ 1602年 オランダ東インド会社 1614年 ニューネーデルラント会社 1621年 オランダ西インド会社 <参考> オランダ東インド会社(正式には連合東インド会社、オランダ語 : Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOC)は、1602年3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられ、アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。資本金約650万ギルダー、本社はアムステルダムに設置され、重役会は17人会(Heeren XVII)と呼ばれた。18世紀末に政府により解散させられた。 旧VOCアムステルダム本社 スウェーデン 1638年 ニュースウェーデン会社 1649年 スウェーデン・アフリカ会社 1731年 スウェーデン東インド会社 1786年 スウェーデン西インド会社 デンマーク 1616年 デンマーク東インド会社 1671年 デンマーク西インド会社 1774年 王立グリーンランド貿易会社 <参考> デンマーク東インド会社は、1612年にデンマーク王国のクリスチャン4世の特許状によって設立された東インド会社である。英国、オランダ、フランスについで4番目の「東インド会社」であり、「重商主義」政策を進めるクリスチャン4世の方針とコペンハーゲン在留のオランダ商人、英国人商人の利害が一致して設立の運びとなった。「デンマーク東インド会社」はインドのトランケバルにデンマーク領インド(1620年から1869年)や西インド諸島に植民地を建設し、「デンマーク海上帝国」と呼ばれる交易圏を形成することに成功する。またグリーンランドなどの北方の探検をおこなった。しかし、「デンマーク東インド会社」の構成員はイギリス東インド会社やオランダ東インド会社から疎外された英国人商人やオランダ人商人で、交易の実態も「もぐり」に近いものだったため、先行3社には勢力は及ばなかった。 ドイツ 1682年 ブランデンブルク・アフリカ会社 1752年 エムデン会社 1882年 ドイツ西アフリカ会社 1882年 ドイツニューギニア会社 1884年 ドイツ東アフリカ会社 1891年 アストロラーベ会社 ポルトガル 1482年 ギニア会社 1628年 ポルトガル東インド会社 1888年 モザンビーク会社 1891年 ニアサ会社 1892年 ザンベジア会社 フランス 1664年 フランス東インド会社 1664年 フランス西インド会社 1670年 レバント会社 1673年 セネガル会社 1717年 ミシシッピ会社 1887年 フランス西アフリカ会社 <フランス東インド会社> フランス東インド会社(仏: Compagnie francaise des Indes Orientales)は、フランスで1604年にアンリ4世が対インド貿易でのオランダとイギリスの独占に対抗して組織した特権会社で、その後、1664年に重商主義を信奉する財務総監コルベールのもとで再組織され、ルイ14世によって認可された国営貿易会社となった。本格始動がイギリスやオランダより半世紀以上遅かったが、植民地経営と商業利権の獲得をめざした。1719年、財務総監ジョン・ローにより、フランスが展開していたすべての国営貿易会社[1]と統合されて、インド会社(仏: Compagnie des Indes )と名を改めた。この時に株式も王立銀行の銀行券と統合されたが、バブル崩壊によって、1725年に銀行から分離。1731年、アフリカとルイジアナ貿易を切り離して、再び東インド会社と名を戻して業務を続けたが、一般には以後もインド会社と呼ばれた。このように東インド会社、あるいはインド会社という名称ではあるが、貿易の対象はインドに限定されるわけではなくて、世界各地に及んだ。特に18世紀以降の実態は国営貿易の総合商社であった。1769年に一旦廃止されるが、1785年に財務総監カロンヌによって再建され、貿易会社として1795年まで活動した。清算に関してインド会社汚職事件を引き起こしたが、これはダントン派の粛清理由となった。 ロシア 1799年 露米会社 日本 1936年 台湾拓殖会社 1908年 東洋拓殖会社 1935年 満州拓殖公社 <参考> 東洋拓殖株式會社(とうようたくしょく、英名 Oriental Development Company、通称 東拓)は、日露戦争後の1908年(明治41年)12月18日に設立され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで京城府及び満州国、モンゴル、サハリン、南洋諸島、ミクロネシアに存在した大日本帝国の特殊会社である。戦前の日本における南満州鉄道株式会社(満鉄)と並ぶ二大国策会社であり、大東亜共栄圏内の植民地政策に関して特権的な利権を保有。北はソビエト連邦国境から南は南方諸島まで、関連会社・子会社は85社を超えた。 つづく <全体目次> |