厳寒のロシア2大都市短訪 エルミタージュ美術館 コレクションの歴史 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2017年5月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
ロシア短訪・総目次に戻る ◆サンクトペテルブルグ(Saint Petersburg) サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群 サンクトペテルブルグ市の紋章 サンクトペテルブルグ市旗 エルミタージュ美術館のロゴ ◆エルミタージュ美術館 コレクションの歴史 Abgebildete Person: Kaiserin Katharina II. v. Russland, Tochter v. C.A. Anhalt-Zerb Sourec:Wikimedia Commons Follower of ヨハン・バプティスト・ランピ1世 - 美術史美術館, パブリック・ドメイン, リンクによる Sankt-Petorburg, Zimni palac source:Wikimedia Commons Dezidor - 自ら撮影, CC 表示 3.0, リンクによる Origins: Catherine's collection エカテリーナのコレクション 翻訳:池田こみち 大女帝エカテリーナ(2世)が1764年、ベルリンの実業家ヨハン・エルンスト・ゴツコフスキーから絵画を購入したことをきっかけにしてそのコレクションが始まりました。彼は、プロシア公国(Prussia Kingdom)のフレデリック2世のためにコレクションしていましたが、フレデリック2世は最終的に購入を拒否しました。 そこで、ゴツコフスキーは225~317の絵画(実際の数は論争がある)を主に、フラマン人とオランダ人に提供すると共に、その他の90点ほど(数は正確ではありませんが)をロシア皇室に納めることになりました。 絵画のコレクションには次のようなものが含まれていました。 レンブラント(13点)、ルーベンス(11点)、ヤーコブ・ヨルダーンス(7点)、アントニー・ヴァン・ダイク(5点)、パオロ・ヴェロネーゼ(5点)、フラン・ハルス(3点、「『手袋を持つ少年の肖像』を含む)、ラファエル(2点)、ハンス・ホルバイン(2点)、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1点)、ヤン・ステーン(『怠け者夫婦』)、ヘンドリック・ホルツィウス、ディルク・ファン・バビューレン、ヘラルト・ファン・ホントホルストなど。 エカテリーナがゴツコフスキーから最初に購入した作品の中で最も有名かつ重要なものは、1636年にレンブラントが描いた『ダナエ』、1624年にレンブラントが描いた『十字架降下』、そして、1650年にフラン・ハルスが描いた『手袋を持つ少年の肖像』の3点と言えます。これらの絵画は、現在もエルミタージュ美術館に収蔵されており、1764年にエカテリーナがエルンスト・ヨハン・ゴツコフスキーのその他の多くコレクションの中から購入したものです。 1764年、エカテリーナはユーリー・フェルトンに冬宮の東の拡張を指示し、彼は1766年にその拡張工事を完成させました。その後、その部分は、小エルミタージュの南パビリオンとなりました。1767年から1769年に、フランスの建築家であるジャン-バプティスト・ヴァラン・ドゥ・ラ・モト(Jean-Baptiste Vallin de laMothe)がネヴァ川の堤防上に北パビリオンを建設しました。1767年から1775年にかけて、ギャラリーを繋ぐ拡張工事が行われ、そこにエカテリーナのコレクションが収蔵されました。 全体が新古典派調の建物は現在では、小エルミタージュとして知られています。エカテリーナの時代、エルミタージュは一般公開される美術館ではなく、ごく限られた人々だけに女帝が所有する作品を見ることが許されていました。 ジャン-バプティスト・ヴァラン・ドゥ・ラ・モトは、エリザベートのために2階の南東の角の一画に部屋を再建しましたが、後に、その部屋はピョートル3世が専有することになりました。この特別な館の最大の部屋は「謁見の間」(戴冠広間とも呼ばれます)であり、227㎡の広さがありました。 エルミタージュの建物は概ね1000人もの人々が居住する家であり、働く場でもありましたが、その中には、皇帝の一家も含まれていました。また、エルミタージュの建物は、美術品のコレクション以前に、ロシアの遺物・骨董品や富を示す絢爛豪華な展示場でもあったのです。 これらの建物では貴族のための大規模なレセプション、州政府および政府関係者のための式典など、多くのイベントが行われました。エルミタージュの建物群は、エカテリーナの創建によるもので、宮殿内では、宮殿、劇場、そしてエルミタージュの博物館でさえあらゆる種類の祭典を行うことが出来るように造られていました。 これは、エルミタージュを皇室の住居としてだけでなく、ロシア帝国の重要なシンボルとして、また記念碑として定着させることになりました。 「エカテリーナの日」には、冬宮は宮殿広場と呼ばれるなかでも中心的な役割を果たしました。宮殿広場はサンクトペテルブルクの中枢的な場所として、市の最も重要な建物すべてにリンクしていました。宮殿広場の存在は、サンクトペテルブルグの町の発展にとって非常に重要でした、そして20世紀後半にはそれが都市の中枢とはならなかったにもかかわらず、その象徴的な価値は依然としてとてもよく保存されていました。 エカテリーナは、優れたコレクター(蒐集家)の後継者たちが販売する優れた作品を手に入れていました。1769年、サクセンでは、600点を超える絵画、印刷物、絵図などからなるブリュル(Bruhl)のコレクションを買い求めました。 3年後、彼女は、フランスでDenis Diderot の支援を受けて、Crozatの絵画コレクションを購入しました。続いて、1779年、ロンドンで一時期Robert Walpoleが所持していた198点の絵画コレクションを手に入れました。 さらに、1781年にはパリでCount Baudouinから119点の絵画コレクションを購入しました。エカテリーナが好んで買い集めた作品は、宝石とカメオで装飾されたものであると信じられていました。 2000年11月にウェールズ公が開設したエルミタージュの最初の展覧会では、エカテリーナのために、彼女の好きな作品を集めて展示する特設の展示室(ギャラリー)が設えられました。この展示室には、彼女の宝石を埋め込んだDavid Roentgenの手によるキャビネットととももに、彼女のカメオも展示されました。 ミネルヴァのシンボルが頻繁に使用され、エカテリーナが好みパトロンとして後援した技術品の数々、エカテリーナをミネルヴァに見立てて造られたミネルヴァのカメオもここに展示されていました。この特別なカメオは、彼女の義理の娘であるデンマークの女王となったマリア・フェオドロフナが作らせたものでした。 これらは、エカテリーナの膨大なアンチークや近代に彫られた宝石類・カメオ類などのコレクションの中のごく一部に過ぎません。 註)ミネルヴァ(Wikiより) ミネルウァ(ラテン語: Minerva)は、詩・医学・知恵・商業・製織・工芸・魔術を司るローマ神話の女神[1]。英語読みはミナーヴァ。俗ラテン語などに基づくミネルヴァという読みでも知られる。芸術作品などでは、彼女の聖なる動物であり知恵の象徴でもあるフクロウと共に描かれることが多い。音楽の発明者でもある。 コレクションは、すぐに建物の許容量を超えてしまいました。彼女の生涯の中で、エカテリーナは古典の画家達の4000点の絵画、38000点の図書、10000点の宝石類、10000点の図画類、16000点のコインやメダル類、そして、自然史に関するコレクションで二つの展示室が一杯になってしまい、1771年にYury Felten に宮殿の増築を指示しました。 新古典派の建物(増築)は、1787年に完成し、大エルミタージュまたは、旧エルミタージュと呼ばれるようになりました。エカテリーナはまた、1783年から1787年にイタリアの建築家Giacomo Cuarenghiがすぐ隣に建設した彼女の私的劇場にもエルミタージュという名前を付けました。 1787年、ロンドンにおいて、エカテリーナはLyde Browneが所有する彫刻作品を入手しました。その多くは古代ローマの大理石によるものでした。エカテリーナはこれらの彫刻をエカテリーナ宮殿やツァールスコエ・セローの公園の装飾用に使用しましたが、後にこれらは、エルミタージュの古代遺跡コレクションの中心的なものとなりました。 1787年から1792年にかけて、Quarenghiはラファエロの回廊(Raphael Loggias)とともに、Donato Bramanteが設計したヴァチカンのローマ教皇宮殿のギャラリー(展示室)を複製し、ラファエルのフレスコ画を描くための(新たな)棟を冬の運河に沿って設計し建築しました。サンクト・ペテルブルクの回廊(ロジア)には、クリストファー・ウンターバーガー(Closteropher Unterberger)が描いたバチカンのフレスコ画が飾られ、1780年代には彼の作品が飾られました。 註)ツァールスコエ・セロー(wikiより) サンクトペテルブルク中心区の南方24kmほどの位置にあるロシア皇帝の離宮(夏の宮殿)、エカテリーナ宮殿などが集まる避暑地。かつてはプーシキン市だったが、現在はサンクトペテルブルク市プーシキン区となっている。サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群の一つとして、世界遺産にも登録されている。 エカテリーナは美術界において多大な貢献をし成果を収めることに成功しました。彼女は何千点もの優れた作品を収集し、その数と価値は膨大なものでした。彼女のコレクションでは、少なくとも4000点の絵画が西ヨーロッパに存在するより古くより権威のある博物館に匹敵するほどのものになりました。 エカテリーナは彼女のコレクションを誇りにし、ヨーロッパ王室文化に広まった幅広い競争力のある美術の収集に積極的に参加しました。エカテリーナの美術品収集を通じて、彼女はヨーロッパ中に知られるようになり、受け入れられるようになり、それは、開化した社会としてロシアを描き出すことに繋がりました。これは、エカテリーナが大きな誇りを持っていたもう一つの偉業です。エカテリーナは、彼女の存在を誇示するため、パトロンとして多くを芸術への支援を続けました。 彼女は特に人気のある女神、ミネルヴァを愛していました。ミネルヴァの古典的伝統に従った性格としては、軍の誇り、知恵、芸術に対する後援を象徴しています。ミネルヴァ・エカテリーナという称号をつかって、彼女は、個人的に文学や文化の新しい研究機関を創設し、彼女自身の多くのプロジェクトに参加しました。 エカテリーナをミネルヴァと並び称することは、ロシアにおいて、見識ある芸術に対する支援(後援)として伝統となるでしょう。 Expansion in the 19th century[edit] 19世紀における拡張・増設 1815年、ロシアのアレクサンダー1世はジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(ナポレオンの妻:Josephine de Beauharnais)の跡継ぎ(相続人)から38点の絵画を購入しました。その多くは、戦争中にカッセルのフランス人によって略奪されたものでした。エルミタージュのレンブラントコレクションは、世界最大とみられていました。また、ジョセフィーヌの財産からアレクサンダーが購入したものは、イタリア新古典派の彫刻家アントニオ・カノーヴァによる4つの彫像であり、最初にエルミタージュのコレクションに加えられました。 Eventually the imperial collections were enriched by Greek and Scythian artifacts excavated within the Russian Empire. 最終的には、ロシア帝国内で発掘されたギリシャとスキタイの遺物によって帝国のコレクションが一層充実したものとなりました。 1840年から1843年の間、ヴァシリー・スタソフは小エルミタージュの南パビリオンの内装を再設計しました。1838年ニコラス1世が新古典派のドイツ人建築家レオ・フォン・クレンツェに指示し、一般大衆のための美術館を設計させました。美術館のための土地は、シェペレヴ宮殿の解体したことにより、小エルミタージュの隣に造られました。この建設は、ロシアの建築家ヴァシリー・スタソフとニコライ・イェフィモフが1842-1851年に監督し、クアレンギが設計した棟をラファエル回廊に組み込みました。 1851年、博物館は、ヴェネツィアでティツィアーノの5つの油絵(キャンバス)を含むCristoforo Barbarigoのコレクションを取得しました。 今日、エルミタージュ美術館のティツィアーノの絵画(ダナエ)を除くすべての絵は、バルバリゴのコレクションからサンクトペテルブルクに来たものでした。 新設エルミタージュは、1852年2月5日に一般に公開されました。同じ年、エルミタージュ美術館のエジプトコレクションが出来あがり、ニコラス1世の義理の息子であるLuechetenberg伯爵が寄贈した作品によって一層充実したものとなりました。1851年から1860年には、古いエルミタージュ(Old Hermitage)の内装がAndreiStackensneiderによって州議会、閣僚、国立団地(アパート)をつくるために、再設計されました。Stakenschneider は、小エルミタージュの北側パビリオンにパビリオンホールを新たに造りました。 1920年代まで、博物館の入り口は新エルミタージュの建物の南側の正面の真ん中にあり、フィンランドから持ち込んだ灰色セルドボール花崗岩でつくられた、5メートルの高さのある男像柱によって支えられた柱廊式玄関(ポルティコ)の下にあります。 1861年、エルミタージュはバチカン政府からGiampietro Campanaコレクションの一部を購入しました。そのほとんどが古代の遺物でした。これらの中には、500点の花瓶、200点のブロンズ像、多数の大理石像などもありました。 エルミタージュは、1865年にレオナルド・ダヴィンチが描いたとされる『リッタの聖母』を取得し、また、1870年にはラファエロによる『コネスタービレの聖母』を取得しました。1884年、パリでロシアのアレクサンダー3世はアレクサンダー・バシレウスキのコレクションを取得しました。 1885年、兵器のコレクションとして、武器や装甲のための倉庫がロシアのアレクサンダー1世によって、建設され、ツァールスコエ・セローのエカテリーナ宮殿からエルミタージュ(宮殿)へと移行されました。1914年、レオナルドの『ブノアの聖母』がコレクションに加えられました。 注)コネスタビレの聖母について ラファエロの出身地イタリアのペルージャのコネスタビレ伯爵が所蔵し ていた作品。コネスタビレ伯爵のコレクションの中でも至宝と言われて いたこの作品を外国に売るに当たって,この市民は強く反対したそうで すが、経済的に困窮していた伯爵はこの絵をロシア帝国に売却すること とし、売却理由を説明する本をつくって市民に配ったとのことです。 (複数の解説より池田こみちが全体をとりまとめました) つづく ロマノフ家家の肖像へ 総目次に戻る |