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   ウズベキスタン現地予備調査
サマルカンド2日目

ハズラティ・ヒズル・モスク
Khuja Khidr Mosque Visit in Samarkand

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年3月10日
独立系メディア E−wave Tokyo

無断転載禁

 ビビ・ハニムモスクを視察後に、私達は遠くに見える丘の上にあるシャー・ヒ・ジンダ霊廟群に歩いて向かいます。

 下の写真はビビハニムモスクからシャー・ヒ・ジンダ霊廟群に向かう途中の池田です。右上の丘にあるのがサマルカンド人の代々の墓です。

 その下にシャー・ヒ・ジンダ霊廟群の入り口があります。


ビビ・ハニムモスクから見たハズラティ・ヒズル・モスク(Khuja Khidr Mosque)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-3

 下の地図にあるようにビビ・ハニムモスクからの距離は600m程度です。天気も良くトレッキング日和です。


出典:ウズベキスタン大使館配付資料

 下はビビハニムモスクからシャー・ヒ・ジンダ霊廟群に向かう途中の池田です。

 後ろに見える大きな寺院はハズラティ・ヒズル・モスク(Khuja Khidr Mosque)です。このモスクはシャー・ヒ・ジンダ霊廟群を歩いた後、丘の上にあるサマルカンド住民の墓が続きますが、その墓の出口にあたりにあります。


ハズラティ・ヒズル・モスク(Khuja Khidr Mosque)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-3

 このハズラティ・ヒズル・モスクがあった場所に、相当前、ゾロアスター教の寺院がありました。その後、アラブによる侵略後の8世紀初頭に最初のモスクが建てられました。

 その後、チンギス/ハーンのモンゴル軍により破壊されますが、19世紀になってブハラ・ハーンにって今のハズラティ・ヒズル・モスクが再建されています。


ハズラティ・ヒズル・モスク(Khuja Khidr Mosque)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-3

 ここで後にも出てくる用語として、ゾロアスター教とアラブ軍(ウマイヤ王朝)について概説しておきます。

◆ゾロアスター教(英: Zoroastrianism)

 ゾロアスター教はは、古代ペルシアを起源の地とする善悪二元論的な宗教である。『アヴェスター』を根本経典としています。

 ゾロアスター教の起源は古く、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアが成立したとき、すでに王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが信奉する宗教でした。

 紀元前3世紀に成立したアルサケス朝のパルティアでもヘレニズムの影響を強く受けつつアフラ・マズダーへの信仰は守られ、3世紀初頭に成立した、後続するサーサーン朝でも国教とされて王権支配の正当性を支える重要な柱とみなされていました。ゾロアスター教は、活発なペルシア商人の交易活動によって中央アジアや中国へも伝播していったのです。

 7世紀後半以降のイスラームの台頭とペルシア人のムスリム化によってペルシアのゾロアスター教は衰退し、その活動の中心はインドに移ってゆきました。

 17世紀以降のイギリスのアジア進出のなかで、イギリス東インド会社とインドのゾロアスター教徒とのあいだで関係が深まり、現在、きわめて少数派ながらインド社会で少なからぬ影響力を保持しています。

 ゾロアスター教の教義は、善と悪の二元論を特徴としていますが、善の勝利と優位が確定されている宗教です。一般に「世界最古の一神教」と評されることもありますが、これは正確ではなく、その教義のなかではアムシャ・スプンタなど多くの神々が登場します。

 なお、世界最古の預言者といわれるザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトストラ)は、紀元前1600年頃から紀元前1000年頃にかけて生きた人といわれますが、その生涯の詳細についてはよくわかっていません。しばしば、ゾロアスター教の創始者といわれ、「ゾロアスター教」の呼称も彼の名に由来しますが、その活動には今なお不明なところが多いようです。

 ゾロアスター教発祥の地と信じられているのが、古代バルフ(Balkh、ペルシア語: Balkh)の地です。バルフは現在のアフガニスタン北部にあり、ゾロアスター教の信徒にとっては、ザラスシュトラが埋葬された地として神聖視されてきました。

 ゾロアスター教の儀式のなかで最も重要とされるのがジャシャンの儀式です。これは、「感謝の儀式」とも呼ばれ、物質的ないし精神的世界に平和と秩序をもたらすものと考えられています。

 ゾロアスター教の礼拝は、「火の寺院」と称される礼拝所でおこなわれます。寺院は信者以外は立入禁止となっており、信者は礼拝所に入る前、手と顔を清め、クスティと呼ばれる祈りの儀式をおこなう習わしとなっています。クスティののち履物を脱いで建物に入り聖火の前に進んで、その灰を自分の顔に塗って聖なる火に対して礼拝を捧げるのです。

 ゾロアスター教の葬送は、鳥葬ないし風葬であり、今日ではあまり見られない風習のひとつです。この葬送は、遺体を棺などに埋納せずに野原などに放置し、風化ないし、鳥がついばむなど自然に任せるというもので、そのための施設が設けられることもあります。

 この施設は「沈黙の塔」(ダフマ)と呼ばれ、屋根を設けず、石板の上に死者の遺体を置き、上空から鳥が降下して死体をついばむことのできる構造の建物となっています。ゾロアスター教の教義によれば、人間はその肉体もアフラ・マズダーはじめとする善神群の守護のもとにあるのだから、清浄な創造物である遺体に対して不浄がもたらされることのないよう、鳥葬ないし風葬がなされると説明されていると説明されています。

出典:Wikipedia


ハズラティ・ヒズル・モスク(Khuja Khidr Mosque)
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3

アラブ軍(ウマイヤ王朝)

 歴史上最初のアラブ軍は、ウマイヤ朝(Banu Umayyad )による軍と言えます。このウマイヤ朝は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝(661年 - 750年)を意味します。

 サラセン帝国(ただしサラセン帝国はかつてのヨーロッパでの呼称)、大食(唐での呼称)、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもあります。

 イスラームの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝です。

 第4代正統カリフであるアリーとの抗争において最終的に政権を獲得したシリア総督ムアーウィヤが、661年に自らカリフとなることにより成立した政権です。

 都はシリアのダマスカスにおきました。ムアーウィヤの死後、カリフ位がウマイヤ家の一族によって世襲されたため、ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフによる王朝を「ウマイヤ朝」と呼んでいます。750年にアッバース朝によって滅ぼされるが、王族のひとりアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を建てる。

 カリフ位の世襲制を採用した最初の王朝形の政権でもあり、ムスリムであるアラブ人による集団的な異民族支配を国家の統治原理とする一方、非アラブ人はズィンミー(庇護民)として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負わせるアラブ人至上主義を敷いていました。

 また、ディーワーン制や駅伝制の整備、行政用語の統一やアラブ貨幣鋳造など、イスラム国家の基盤を築いています。

出典:Wikipedia


 上述しましたが、シャー・ヒ・ジンダ霊廟群を視察し終わった後、サマルカンドの住民のお墓が続きますが、そのお墓群を見終わった後、このハズラティ・ヒズル・モスクに出ます。

 私達は、ハズラティ・ヒズル・モスクを遠望した後、シャー・ヒ・ジンダ霊廟群に向かって歩きます。


つづく