ウズベキスタン現地予備調査 サマルカンド3日目 サマルカンドの郷土史博物館 Viloyai O'lkashunosilk Muzeyi グレコ・バクトリア王国 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2015年3月7日 独立系メディア E−wave Tokyo 無断転載禁 |
タジキスタン家族のソムサ食堂で食事をとった後、さらに歩いてサマルカンドの中心街を歩き、サマルカンドの郷土史博物館(Viloyai O'lkashunosilk Muzeyi)に行きました。 この郷土史博物館もなかなか場所が見つかりにくいところにありましたが、何とか郷土史博物館を探し当てることができました。 アミール・ティモール通りからジョミー(Jomy)通り入って少し行ったところにありました。下のグーグルアースの真ん中にある赤い屋根の中庭があるところです。 出典:グーグルアース 下の写真が郷土史博物館の門です。なかなか重厚な趣がある門です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-3 以下は上の写真にある郷土史博物館の看板ですが、非常に見にくくなっております。看板には確かに郷土史博物館(Viloyai O'lkashunosilk Muzeyi)とありました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-3 門を入ると、さらに以下のかわいい門扉がありました。門の前には2門の大砲が置いてありました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-3 以下は入り口付近に立つ池田こみちです。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-3 以下が博物館への入り口です。 私達以前にはここでも誰も入館しておらず、私達が入ってきたことを知った学芸員の女性が急遽、入り口に来ました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-3 いつものように入場料、写真撮影料を2人分支払い博物館の中に入ります。建築物はかなり老朽化していますが、歴史的な文物はしっかり展示してありました。 この博物館は、国立や市立ではなくおそらく私立のサマルカンドについての歴史文化博物館です。ここでもわたくしたち以外、誰も入館者はいませんでした。 , 郷土博物館は、郷土博物館とは言っても、考古学、歴史学、民族学、民族史、さらには動物、鳥類、昆虫など幅広くまで展示されています。まさにサマルカンドの総合博物館といえるものです。しかも、ウズベキスタンで有名な絹織物、染色、絨毯なども大きな実物が多数展示されています。 サマルカンドだけでなくウズベキスタンでは、おそらく他ではなかなか見れないものも多数ありました。 最初は考古学、歴史学の分野です。日本で言うところの縄文、弥生時代の石器などが多数展示されていました。 ◆紀元前のグレコ・バクトリア王国(Greco Bactrian Kingdom)時代 その後、サマルカンドのBCからAD1000年前後までの文物(レプリカ)がありましたが、その多くは昨日、Afrosiab考古学博物館で見たものでした。というのも、Afrosiab考古学博物館、郷土史博物館ともに、サマルカンドをテーマにした博物館であるからです。 非常に残念なのは、ここでも英語の説明はまれで大部分がウズベク語とロシア語であったことです。 以下は、Afrosiabの考古学博物館についての論考(ブログ)と重複する部分があります。 以下は、グレコ・バクトリア王国の版図です。 グレコ・バクトリア王国(紀元前255年頃 - 紀元前130年頃)とは、ヒンドゥークシュ山脈からアム川の間(現在のアフガニスタン北部、ウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタンの一部)に、バクトラを中心として建てられたギリシア人王国で、代表的なヘレニズム国家の一つです。 グレコ・バクトリア王国は支配体制が未整備だったため、王統交替・勢力盛衰が頻繁で王権が弱く、地方の王が権力を持ちしばしば国家が分裂しました。 名称のグレコ・バクトリアとは、ギリシア人のバクトリアという意味で、単にバクトリアやバクトリア王国とも呼ばれます。 以下の解説は主にWikipediaに寄っています。 グレコ・バクトリア王国の版図 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-3-3 建国以前 バクトリア地方は、もともとアッシリアが分裂してできた4王国の一つであるメディア王国の一部でした。その後、紀元前518年ごろ、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世の時代に征服され、ペルシア帝国の一部となりました。さらにその後、紀元前328年にマケドニア王国のアレクサンドロス大王によって征服されています。大王の死後はセレウコス朝シリアの一部となり従軍ギリシア人の一部が住み続けました。
以下はAfrosiabの考古学博物館で見た絵です。以下はどうも紀元前のグレコ・バクトリア王国(Greco Bactrian Kingdom)時代のもののようです。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-3-3 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-3 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-3 以下も考古学博物館で見たものです。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-3 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-3 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-3 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-3-3 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-3 建国 紀元前256年にサトラップ(総督)の地位にいたギリシア人のディオドトスが反乱を起こし、独立してバクトラ(Baktra、現:アフガニスタン北部、バルフ)を都とするグレコ・バクトリア王国を建国しました。このとき、北部のソグディアナ(現在のウズベキスタンのサマルカンド州とブハラ州、タジキスタンのソグド州一帯、フェルガナ盆地にあったソグド人の国家)、西方のマルギアナ(現在のトルクメニスタン)などを征服しました。ディオドトス2世の時代の紀元前228年頃、同じくセレウコス朝より独立したパルティアと同盟を結び、西方を固めた。この同盟は、紀元前189年まで続きます。 ティムール帝国 (1307年 - 1507年) 発展と分裂 インドに進出したデメトリオス1世(在位:紀元前200年 - 紀元前180年)は、ヒンドゥークシュ山脈を越えて南下、ガンダーラを占拠した。さらに北西インドの侵略を続け、アラコシア、ゲドロシア、カチャワール半島まで支配下とした。デメトリオス1世に続いて、その弟アンティマコス1世(在位:紀元前180年 - 紀元前171年)の治世に入ると、インドにおけるマウリヤ朝の衰勢に乗じて更にインド方面へ勢力を拡大し、タクシラを占領してガンダーラ地方を征服した。しかし紀元前171年頃、 アンティマコス1世は武将の一人であるエウクラティデスによって殺される。ほどなくして、グレコ・バクトリア王国はバクトリアに残存する集団と北西インドの集団(インド・グリーク朝)に分裂した。 また歴史博物館部分では、今まで見たことがないチンギスハーン、ティムールなどにかかわる版図が多数掲示されていました。 版図マニアの青山にとっては、非常に貴重なものとなりました。当然、入場時に写真撮影費を別途支払っているので、撮影しましたが、うまく映っているかどうかはわかりません(笑い)。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-3 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-3 バクトリアからインドまでの諸都市 王国の衰退とバクトリア地方の放棄 エウクラティデス1世(紀元前171年 - 紀元前145年頃)は王位を奪ってからというもの、多くの戦争を遂行したため、グレコ・バクトリアの兵力と国力を衰退させてゆきます。しかし、そんな状況下でもエウクラティデス1世はインド・グリーク朝のデメトリオス2世を倒し、西北インドをふたたび支配下に置くことに成功します。紀元前145年頃、エウクラティデス1世がインド遠征から帰還する際、王国の共同統治者にしておいた息子のヘリオクレスによって殺され、ヘリオクレスがグレコ・バクトリア王国の君主となりました。しかし、ヘリオクレスの治世は長く続かず、紀元前140年〜紀元前130年の間に北の遊牧騎馬民族であるアシオイ,パシアノイ,トカロイ,サカラウロイの4種族に侵攻され、王国は滅ぼされました。 つづく |