ウズベキスタン現地予備調査 サマルカンド2日目 ウルグ・ベグ天文台 Ulug'bek nomidagi Observatory Track in Samarkand 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2015年3月20日 独立系メディア E−wave Tokyo 無断転載禁 |
◆ウルグ・ベク天文台 天文学では、イタリアのガリレオ・ガリレイ、ポーランドのコペルニクスが地動説などで世界的に著名ですが、それよりも100年以上前、中央アジアのサマルカンドでウルグ・ベクは天文学に理論的、実験的、実証的に関わり、地動説のみならず天体観測においても多大な成果を上げています。 ヨーロッパからから距離的にも遠い中央アジアの中世にあって、このような希有で秀逸な天文学や数学などの成果を続々あげていたウルグ・ベクは、日本ではほとんど知られていませんが、ウズベキスタンではティムール同様、国民にとっての英雄、とりわけ文化人、学術研究者として絶大な人気を博しています。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 ウルグ・ベク天文台 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 ウルグ・ベク天文台 出典:Wikipedia ウルグ・ベクは、上記のように第四代の君主であると同時に、ウルグ・ベグ自身が数学、医学、天文学などに通じた学者でもあったのです。何とも多彩で秀逸な頭脳の持ち主だったのです! ティムールの孫でもあるウルグ・ベクがサマルカンド知事時代に行った文化事業はとりわけ名高いのは、サマルカンド郊外に建設したウルグ・ベク天文台です。この天文台では当時、当時世界最高水準の天文表が作成されていました。
なお、ウルグ・ベク天文台で行われた発見や研究は当時の天文学者にとって日食を予測し、日の出や天体の推移の時刻を計算する上で極めて重要なものであり、彼らは恒星年 (一年の長さに相当) を365日6時間10分8秒と計算しています。 下は天文学で用いる六分儀の一部です。現在も天文台跡で見ることができます(無料)。この六分儀は、記念切手にも右側に描かれています。 ウルグ・ベク天文台 出典:Wikipedia これは約600年後の現代の計算によって得られる数値である365日6時間10分9.6秒と約2秒しか違わないという精確さであったそうです。1449年に天文台は破壊されましたが、その後も約75年間に渡ってサマルカンドで天文学の研究が続けられました。 ◆学術研究面の事績 カディーザーデ・ルーミー、ギヤースッディーン・アル=カーシーらで構成される学者の集団を率いて、ウルグ・ベクは1420年ごろに完成したウルグ・ベク天文台で天文観測を行っています。 1437年/41年頃にウルグ・ベクたちの観測結果は天文表としてまとめられ、従来使用されていたナスィールッディーン・トゥースィーの天文表に代わって使用されるようになりました。天文表には1,018の恒星が記録され、うち約900の星の記録は実際の観測に基づいており、サマルカンドでの観測が困難な星についてはプトレマイオスの『アルマゲスト』の記録に修正を加えたものが収録されています。 計算に少数、円周率を用いた星の観測は、当時のヨーロッパ世界の研究水準を凌駕していました。オリジナルの天文表がどのような言語で書かれていたかは判明していませんが、アラビア語、もしくはペルシア語で書かれていた説が有力視されています。 ウルグ・ベクらによって作成された天文表は精度が高く、ヨハネス・ケプラーの台頭に至るまで重要視されていました。 17世紀のオックスフォードの天文学者John Greavesは5種類の写本を使用してウルグ・ベクの天文表の研究を試みましたが、彼の死のために研究が完成を見ることはなかったそうです。また1665年には、トーマス・ハイドによってヨーロッパで初めてウルグ・ベクの天文表が出版されています。 ウルグ・ベクの伝統的なイスラーム諸学への関心は、自然科学への関心に比べて低かったようです。一方、ウルグ・ベクは幼少期からコーランの全てを暗誦することができ、7種類の暗誦法について精通していたといわれています。 ウルグ・ベクは自身が建設したマドラサで教鞭を執り、コーランについて講義を行っていました。ウルグ・ベクは科学的問題の把握と立証にへつらいや世辞は不必要なものだと考え、学生たちに命じて対等な立場で議論を行っています。議論の際にあえて不適切な意見を述べ、自分の意見を鵜呑みにした学生の誤りを正すこともありました。 ティムール朝期に成立した歴史書『四ウルス史』の編纂にはウルグ・ベクが関わっていました。これは彼自身が著した本だと考えられています。 つづく |