行政訴訟についてのお話ということで、特に行政書士の先生方、実際上は行政訴訟や行政手続に関して弁護士先生も顔負けのご活躍をされておられますので、少しでも参考になるお話ができればと思います。
まず構図としてどうなっているかを申し上げますと、行政訴訟改革についてはわりあいにわかに出てきたところがあります。司法審議会の意見書の中で、行政訴訟についてももっと使い勝手のよいものにすべきではないか、諸外国と比べても行政訴訟があまりにも不活発ではないかという問題意識が突如として最後のほうに入ってきました。この点は例えばロースクールをどうするか、司法試験制度をどうするか、ADRをどうするかとか、ほかの司法改革の論点に比べますと、行政訴訟については司法審議会の中では実質的な議論はほとんどなかったと理解しています。現在、政府に司法審議会意見書の実施部隊ということで司法改革本部が設けられまして、検討会が11あるかと思います。その中に行政訴訟検討会も入っているわけですが、ほかの検討会は法曹養成ですとロースクールをつくるとか、司法試験の新しい制度をつくるとか、わりあい方向性がはっきりしている。ところが、行政訴訟についてはいわば委任の範囲がはっきりしない方向だとか、結論についての手続や制度を考える具体的な枠組みが全くないわけです。一体何をすれば司法制度改革の一環としての行政訴訟改革をやったことになるのかが、あらかじめ示されていないという意味でやりにくい面があります。
ただ、見方を変えれば、要は活性化させていい制度にするというだけの委任でしたら、かなり大胆な改革もやりようによっては可能にもなりますので、できれば後者のほうでやっていくことが、私の個人的な気持ちです。こじんまりと何かやれと言われたからやったというよりは、せっかくの機会ですので行政訴訟制度についてもきっちりした制度にこの際抜本変革をする。訴訟の活性化というのは、乱訴を助長するだけだと言って消極的に見る向きもありますけれども、決してそんなことはございません。もちろん、アメリカのような訴訟社会がいいのかと言われれば、そうでない側面もあるのは事実ですけれども、幾ら何でも行政訴訟については国や自治体が強すぎる。私も建設省の役人で行政庁の被告代理人を多く務めましたので、実感としてわかりますが、行政庁は強過ぎます。もうちょっと対等の立場を確保して、本来権利を侵害されて救済されてもいいはずなのに泣き寝入りをしていた人々が、ちゃんと救われるようになる社会はだれにとっても意味があることではないかと考えます。行政側がある意味では敗訴する可能性が高くなるわけですけれども、行政訴訟の目的には大きく2つあるわけです。1つは個人や企業の侵された権利を回復してあげる、もう一つは行政自身がきっちりと適法に行われるようにする、この2つの機能があり、後ろのほうの機能からしますと、裁判の場で適法にやるべきだと規範が示された領域については、それ以降、行政の改善がもたらされるという意味で、行政にとっても決して悪いわけではない。救われるべき権利はきちんと救ってあげれば行政も質が高まる。そういう制度改正が、大きな意味での改革の理念になると認識しています。
別途お配りしている「司法制度改革の一環としての行政事件訴訟改革」という第一東京弁護士会の会報のインタビュー記事があるのですが、この中に経験談なども語っておりますので、後ほどご関心のある方はごらんいただければと思います。私は1981年に法学部を出まして、国家公務員法律職試験の資格で建設省に入っています。大学を出てすぐ土地収用法を2年ばかり担当しました。行政法的な実務に携わった一番の修練の場でした。土地収用というのは公共事業などの公共的・公益的事業について、任意買収で話し合いがまとまらないときに強制的に土地を買い取りする。ただし、憲法29条の正当な補償は行うという制度です。
土地収用は、財産権の剥奪という行政処分の中でも最も激烈なものの1つです。端的に財産権を取り上げてしまうもので個人にとっての権利侵害の度合いも大きい処分のうちに入ります。したがって、財産権を守るという観点から、沿革的にも比較法的にもそうなんですが、かなり慎重な手続規定を置いている。しかし、たまには伝家の宝刀として抜いて土地を取り上げて補償金を差し上げる。そこで、裁決が違法だから取り消せといって争われたり、補償金額が少ないからもっと補償金をよこせと増額請求訴訟になったり、たくさん裁判が起きます。私が担当した1つは事業認定といいまして、事業に公共・公益性があるかどうかを判断する実質審査をしました。また、都道府県の収用委員会がした裁決に不服があるときには、審査請求が建設大臣に対して、今は国土交通大臣ですけれども、できることになっています。これについて弁明を求めたり、反論書を求めたり、最後は裁決の起草業務をやっていたのがもう一つです。
さらに大きかったのは裁判でして、過去に建設大臣がした事業認定について、違法だから取り消せという取り消し訴訟が多くありました。中には無効確認訴訟など、さまざまな形態もありました。あるいは、収用委員会が収用裁決取消訴訟で訴えられているときに、相被告として巻き込まれて、事実上収用委員会の仕事をお手伝いするようなこともありまして、処分は適法だという立場で防御する側の被告の指定代理人として、かなりの事件を担当しました。
収用法20条に事業認定の要件というのがあり、このうち2つがよく争われる要件です。20条3号には、「土地の適性かつ合理的な利用に寄与」と書いてあるんです。4号には「収用する公益上の必要」と書いてある。適性かつ合理的とか、公益上の必要というのは非常に不明確で広い概念ですので、大抵の場合、そんな要件に全く当てはまらないようなものが争われることはないわけで、やはり収用はしたけれどもそこは非常に豊かな自然環境があったのだとか、生活の基盤となる集落があったのにそれが分断されるのだとか、争う側の原告のほうでも、もっともな理屈を立てて争うわけです。それが争われて裁判になると、裁量の問題になります。国側は予算も無尽蔵にあり、担当者も訴訟のためだけに法務省や建設省の職員が1つの事件に延べ何人もかけて徹底的に証拠調べをしたり、準備書面をつくったりする。成田空港訴訟も担当しましたが、新東京国際空港公団という設置主体が事業者で、その事業者の申請に対して認定を出した処分庁が建設大臣でした。空港公団は特殊法人ですが、成田空港がいかに合理的な計画だったのかについて資料を作る。審査対象は処分時の違法性ですが、後から結論に合わせて証拠をつくる作業に邁進するわけです。予算も時間もあり、有能な職員も抱えていますから、比較的容易にできてしまう。
基本的には国側や公団側の全戦全勝になりやすく、それは訴訟の力関係からして、最初からある程度予想されることでもあったという気がします。勝ったから非常に上手に訴訟行為をやったのだとか、あるいは指定代理人が非常にいい準備書面を書いたから勝ったのかというと、そういう側面がゼロとは言いませんが、基本的にはやっぱり勝つべくして勝つという訴訟が、行政訴訟には多いのではないかという印象です。やはり行政庁は圧倒的に強いわけです。裁量規定は処分庁に有利で、お金、人、組織の点にしても優位です。
収用で国・収用委員会側が負けた珍しい例は日光太郎杉判決です。由緒ある太郎杉という木をひっかけて、栃木県が県道をつくろうとしたわけです。これは太郎杉の価値を過度に低く評価し、県道をつくることの利益を過度に高く評価したと、裁量の過程に違法があったということで珍しく収用委員会敗訴でした。高裁で敗訴して、上告しないまま確定しましたので、最高裁の判決があるとおもしろかったのですけれども、残念ながら下級審の高裁判決どまりだったわけです。その後、中部地方建設局に河川訴訟の担当である水政課長として出向しました。当時話題だった長良川水害訴訟の国の代理人で、これも安八と墨俣の両事件が名古屋高裁にかかっていて、ちょうど私のときに最終準備書面を書く段階でした。長良川河口堰訴訟で堰の差し止めを求めている事件の被告をやったり、ダムの水利使用許可の取り消し訴訟など訴訟の全盛期のときでした。役人としての経験では、その2回が直接国の代理人なりをやって被告側の防御をした経験です。
第三者的立場で考えると、後からそのときに考えもしなかったことを持ち出して、こういう理屈でなら今度は正当化できるとエンドレスに主張できていいんだろうか。ほんとにその理屈だけだったら、最初から処分をしたり事業をしていただろうかという見通しのほうがむしろ重要だと個人的には感じます。後からとにかく正当化というのは、もちろんやってやれないことはない。しかし、ほんとうにそれで公金の適性使用やむだ遣い、違法な処分を防ぐという目的が達成できるのかどうか、疑問が残ってしまいす。
行政法の解釈論は知的パズルとしておもしろいんですが、立法政策からみて今の行政訴訟制度のような形で、ほんとうに適切な行政運営に貢献できるんだろうかと、多少懸念を持っていました。 国民の利害という観点から見ると、行政法学が栄えて行政訴訟が滅びるのでは元も子もないわけです。行政法学なんかなくなってもいい、民事訴訟だけでも別に救われればいいのだとすれば、どういう使い勝手の悪さをどう直せばいいのかと考えていくほうが有意義です。
幸い日弁連や改革派の国会議員の多くも今の行政運営のあり方は、底流としてこれでいいのかという問題意識を強くお持ちであり、いろいろ論点を聞いてみると地味だけど大事なテーマだということ、それから行政庁主導だったり行政法学者主導だったりする議論ではまずいということを、最近多くの心ある方が考えていただきつつあるようです。もちろん行政書士会の先生方もそういう問題意識には一定程度共鳴いただているから、こういうお話の場をいただいたと思っています。まだまだ予断を許しませんので、具体的な論点については国民ニーズの観点からいろいろご意見をお願いしたいと思います。
まず、行政訴訟制度の目的は何かという論点です。そもそも行政訴訟の目的には国民の権利を守ることと、行政の適法を確保することの2つがあるわけです。これらは一見似ていますが、必ずしも重なりません。なぜかといいますと、権利救済のための訴訟、すなわち主観訴訟の場合、取り消し訴訟を中心とする訴訟類型では、たまたま訴えの利益があって、しかも裁量などでけ飛ばされないで実質論に乗っかることができて、しかもそれを強い行政庁相手に奇特にも最後までやり抜くという、いわば変わり者で強い意思を持った原告が、たまたま権利を侵害されたときにだけ、その処分についての適法性だけが確保されるということです。適法性確保とか偉そうに行政法学者が言いますけれども、それは大きな大河の一滴のような、大きな違法行政があるかもしれない領域の中の、ほんの一部分だけを是正しているに過ぎなのです。権利救済自体が必ずしも簡単には得られない状況のもとで、ますます適法性の確保などは、現実問題機能しないことになる。
ここで考えるべきは、一体どっちなのかということです。両方目的とするといってどっちつかずのままでいるよりは、権利救済は権利救済としてちゃんとできるようにして、権利救済に寄与するかどうかかかわりなく、こういう領域では行政はちゃんとしていてほしいという領域では、具体的に権利侵害された奇特な人がいない領域だって、適法性を確保するための裁判制度があってもいいじゃないか、という問題意識が出てきているわけです。後者のほうは、権利侵害がないなら法律上の争訟ではないという向きがあります。法律上の争訟じゃないと日本国憲法で言う「裁判を受ける権利」の概念には当たらない。司法の概念に当たらないから適法性確保のためだけの裁判は司法権の役割ではない。よって裁判所はそういうことをやるべきではない。こういう三段論法を行使する向きがあります。これは一見もっともですが、何で司法権の概念に当てはまらなければ裁判所が出てきてはいけないのか、理解に苦しみます。
今たまたま裁判所という公正だとみなされている中立的かつ権力のある組織があって、そこが、厳密に言えば司法権の概念ではなく、これは立法機能ではないですから、その他国家の二権に属しない権能ということで行政に入ることになるはずですが、行政権能に属するかもしれないけれども、適法性確保のための裁判という、領域を担って何が悪いのか。例えば土地利用計画、区画整理や都市計画などの計画を統制する領域です。かつて最高裁判決があって土地区画整理事業計画は処分じゃないから争えないというんです。計画である以上後で権利変換や収用が強制されることは運命づけられているのに、具体的な都市計画事業認可が起きるまでただじっと待っているしかない。計画であらかじめ運命が決められている領域だったら、その段階で争えるようにしてもいいじゃないか。権利侵害がなくても争える類型を認めてしまってもいいじゃないか、ということです。
適法性なのか権利救済なのかは、はっきり分けて議論したほうが混乱が少ない。目的の整理をちゃんとしたほうがいいということです。さらに、今の権利利益の救済は十分ではない、しかも私人は行政と対等でない。行政は圧倒的に強いので、強さに甘んじて多少後ろめたいことがあっても、勝ててしまっている側面もあると思います。原告の側に対等性を確保してあげないといけない。対等性確保というのは例えば情報を隠さず出す、資料・証拠が原告側で入手できる、専門的知識を補ってあげる、行政庁が非協力的な姿勢になっているのを改めさせるなどの実体上・手続上の義務を課すことが考えられます。
第二は、取り消し訴訟中心主義を見直す必要はないかという論点です。技術的な領域では一番大事な論点の1つです。現在の行政訴訟ではご承知のように、行政行為の公定力という非常に強くて排他的な概念があるとされます。これは美濃部達吉氏以来、プロイセンのドイツ行政法をそのまま日本語に翻訳し、明治時代に輸入して以来全く変わることなく、脈々と行政法学会の中でも行政法実務の中でも根づいている考え方です。公定力というのは、定義上「権限ある機関によって取り消されない限り、その行政行為は何人も有効なものとして扱わねばならない」というものです。もっと端的に言えば、取り消し訴訟で争ってこなければ、だれも処分の効力を争うことは許さずということです。別の言い方では、取り消し訴訟の排他的管轄といって人を煙に巻く議論が行政法学会で話されています。要するに行政行為の争いは取り消し訴訟が排他的に管轄する部分だとします。根拠は、行政事件訴訟法の中に、行政行為の効力を争う場合には取り消し訴訟による旨と書いてあることです。ほかのやり方がだめだとは書いてないのですが、行政法の公定力を墨守する立場からの読み方は、取り消し訴訟が使えると書いてあるということは、民事訴訟やあるいは別の手段による取り消しを許容していないのだと考えるわけです。取り消し訴訟を行政事件訴訟法の中に書いてある以上、それ以外は使ってはいけないと行政事件訴訟法自体が裏表で認めている。したがって、取り消し訴訟以外のルートで争うことは禁止されると解釈する行政行為の公定力の実定法的根拠を、行政事件訴訟法の取り消し訴訟制度の規定に求める。こういう解釈が一応通説になっています。
あるのだということを正当化するとしたら、この理屈しかないというのはわかりますが、本当ににそこまで考えて、行政事件訴訟法の立法当時の例えば国会議員がつくったのかはかなり疑問です。実際問題、戦後の一時期は民事訴訟法しかありませんでした。出訴期間の特例だけがあり、その後行政訴訟固有の制度ができたわけですが、民事訴訟法と出訴期間だけでやっていた時代に、その部分で何か重大な混乱が起こったかと言うと、別に起こっていない。アメリカ合衆国の行政事件訴訟は全部民事訴訟です。取り消し訴訟という特殊な類型もなく、とにかく行政庁のやった行為を争うときは、全部民事訴訟で差しとめや義務づけを求めることができる。出訴期間はありますが、訴訟手続で取り消し訴訟という特殊な概念を持ってきて、それを使わなければアウトだという考え方は、少なくともアメリカには一切ない。それで何の支障も起きていない。日本がドイツ・プロイセンから輸入して、100年ぐらい後生大事に抱え込んできたものは、今必ずしも世界のスタンダードにはなっていない。これが、比較法的な出発点ではないかと思います。
取り消し訴訟制度の中でこの公定力があることを前提にしますと、一番象徴的な問題は大阪空港判決に現れています。大阪空港の夜間飛行の差しとめを求めて民事訴訟の訴えを提起したら、何年も何年もたってから、最高裁で民事訴訟は不適法だから訴えは却下だと言われたわけです。これの理屈が振るっており、航空行政権が国にはあり、そうである以上、その航空行政権にはいわば公定力があるのであって、それを民事訴訟で争うことはまかりならん。平たく言うとこういう判決だったわけです。航空行政権はあるものかもしれませんが、当時の大阪空港判決を幾らひっくり返しても、航空行政権を争うための取り消し訴訟は何かはわかりません。民事の夜間飛行差しとめ請求訴訟が不適法だったら、例えば運輸大臣の何らかの許可に例えれば運行路線の認可など、夜間飛行を認める根拠となる直接的な行政処分を争わなければいけないと再構成しないと、航空行政権は争えない。ところが、航空行政権を争うためには、何法のどの処分をだれ相手に訴えればいいのかを、当時の最高裁は一切示さなかったものですから、判決はできの悪いなぞなぞのようなものです。
とにかく民事ではだめだという結論を正当化するために、航空行政権という概念を持ち出したけれども、航空行政権を争うためにはどうすればいいのかは、深く考えないまま判決に至ったというのがどうも真相のようでありまして、国民を愚弄した判決です。こっちでだめと言いながら、あっちならいいという具体的な争い方を教えてもらわないと、行政法学者や弁護士だってわからないような争い方ができるわけがない。公定力の議論は過度に応用拡張されると、こういう非常識なところまで行き着きます。
大阪空港判決の理屈は、単に飛んでいる飛行機をとめてくれと言うと、そこには運輸大臣の航空行政権という神聖不可侵の領域があって、飛ぶことが認められている以上、そっちを攻撃しないで脇から民訴でいくなどというのは不届き千万である。こういうことなんですが、この理屈をこういう事件ではどう考えるのか。建築確認とか建築物紛争もよくあります。例えば大きい建物が建つと、北側の人が日当たりが悪くなるとして民事の差しとめ訴訟ができます。一方、建築物を建てるときには常に建築基準法による建築確認処分を受けないといけないわけです。隣人はそれを取り消し訴訟で争うこともできます。大阪空港の理屈でいくと、建築確認処分という建物利用管理権という国家の権能があるから、そっちを争わないで民事で差しとめを求めるなど、もってのほかと言わないとつじつまが合わないはずなんですが、なぜかそうは言わない。建築確認取り消し訴訟と日照権ないし環境権に基づく差しとめ訴訟は並存してもいいと言う。全くつじつまが合わない。飛行機のような大きな事件、国家的な大きな事件だとだめだと言って、そこら辺の細かい私人間の紛争だったら勝手にやれというのか、そこの価値判断がよくわからないのですが、首尾一貫しない判決が積み重なってます。
行政法学もひどい側面があるわけで、最高裁判決が幾ら矛盾していても、つじつまを合わすためにはこんなへ理屈もあるというのを考えるのが、学界の大きな使命になっています。そんなことをやっても別に使える行政法にならない。要は次に似たような事件があったときに国民が、あるいは弁護士、行政書士が、これはこうやって争うんですと、困っている人に救いの手を差し伸べる、そういうところで役に立たない行政法では仕方がないと思います。
また、裁判官は判決を書きたがりません。和解をさせたがる。民事の貸し金や離婚なら和解も結構でしょうが、いやしくも行政庁の処分が違法か適法か争われている裁判で和解はおかしい。少なくとも行政事件訴訟法の立法者は、適法か違法についてネゴの余地はないという思想のもとに、行政事件訴訟法の中に訴訟法上の和解というのは置いていない。ところが、土地収用では、新東京国際空港公団や東京電力などの事業者がいて、事業者が土地の取得者になります。
処分庁は建設大臣や収用委員会などの行政庁です。そうすると、被告は収容委員会や建設大臣ですが、行訴法23条の訴訟参加という形などで事業者が関わっていますので、裁判官は被告に対して何とか事業者に頼んで裏でお金を払い、裁判を取り下げさせるようにうまく指導できないかという指導を公然とする裁判官もいます。金を握らせて取り下げさせることは、要するにお金でもって適法を言うのと同じことですから、脱法行為です。法の趣旨を逸脱しているわけですが、こういうふうに誘導する裁判官は多い。気持ちはわかります。書かないといけない判決をいっぱい抱えていて大変ですから、和解も1件、判決も1件で処理件数至上主義で勤務査定がなされる裁判官としては、楽なほうに流れます。本来、査定の基準がおかしいからです。
さらに、行政訴訟の場合は田舎などでは裁判官に力の無い人がいます。行政法などは教科書も判例も開いたこともない。今まで民事と刑事のオーソドックスな事件しか扱ったことがなく、行政事件を担当させられて、「私は困っている」と言って嘆く方がいるわけです。行政法の教科書は、今、学生諸君はどういうのを読んでいるのかね、などと聞かれたりする。そういう人は被告の準備書面のとおりの判決を、立派に書いてくれる「いい」裁判官だということになります。裁判官がわかっていないと、どうしても行政庁に依存する傾向が出ます。
教科書ぐらいならまだいいのですが、収用法の事件で、収容法の解説書―コメンタールはどれを読むのか一番いいのかと被告に聞いてくる人もいる。通常被告にとって一番都合のいいことが書いてあるコメンタールを勧めることになります。これでは原告は浮かばれない。理論だけではなく、現場にも課題が多い。
公定力に戻りますと、建築確認と日照紛争と同じ形でいいと思います。なぜ飛行機などに限って、何とか行政権なるものを持ち出して、ほかの争い方はだめと言わないといけないのか。裁判官が楽できる、行政法学者が限界領域でいっぱい論文を書けるという以外に、メリットをあまり思いつかない。こういう専門家の利益にはなっても国民の利益にならない制度は、やめたほうがいいというのが私の正直な感覚です。少なくとも適用領域を広くするべきではないのであって、だれが見てもはっきりしていて、この処分を争う以外には紛争解決がないという根源的な部分にだけ排他性を認めて、それ以外のところは行政訴訟でも民事訴訟でも好きなように争いなさい、訴えの趣旨を裁判所が善意に解釈していかようにでも判決を下しますという、アメリカ式の司法の審査のあり方でなぜ悪いのかという問題意識です。
また、出訴期間が取り消し訴訟の排他性とセットになって、もっと性質が悪い働きをしています。現在、行訴法に出訴期間3カ月が原則と書いてありまして、3カ月を過ぎると重大かつ明白な違法、すなわち無効事由がある場合でないと未来永劫争えなくなる。単なる違法事由で争えるのは3カ月以内ということになります。ところが、3カ月以内に勝てそうかどうかについてアセスメントをして、いけそうだという確信を持って訴状を書いて、ある程度今後の展望も持てるようにするのは原告にとって至難のわざです。原告にとっては処分を受けるなどということはめったにない話ですし、また、弁護士も裁判官同様普通にその辺の弁護士に相談に行くとわからない人も多い。司法試験でも学校の講義でも行政法を聞いたことがないという弁護士だと、やっぱり教科書から読み始めることになるので大変効率が悪い。3カ月はあっという間に過ぎますから、アウトになることはよく起きます。少なくとももうちょっと長くないといけないんじゃないかという問題意識が出てきます。
もう一つは、そもそも出訴期間の意味は何かという議論です。出訴期間はアメリカ、ドイツ、イギリス、フランス、どこの国でも行政庁の処分には何カ月以内とか何週間以内という制約がついています。ただ、ほんとに各国がやっているから出訴期間が要るのだと考えていいんだろうか、こういう問題意識を最近持ち始めています。なぜそもそも出訴期間が要るのかと聞くと、行政法学者も裁判官も法的な安定のためですと答えます。あまり長い間処分が安定しないと、後でひっくり返ると困る人も出てくるから、一定の期間で争う人がいなかったら、ほぼこの行為は信頼していいんだということを示してあげないと、いつまでもいつまでも争えるというのでは困るでしょう、と言うわけです。なるほどもっともで、確かにそういう側面はあります。ただ、常に行政処分についてそういう効力がほんとうに必要なんでしょうかと考えると、疑問の余地が出てきます。なぜかといいますと、現在の行政処分には「処分性」という概念があり、最高裁判例で、「国民の権利・義務に直接変動をもたらすような行政庁の権力的行為」を行政庁の処分と言うとしていますので、権力的契機、規制をする、許認可をする、権利を剥奪するなど、要するにその人の利益の侵害行為があるものは全部処分になる。処分だと自動的に出訴期間がくっついてきます。結局、およそ権力的契機があったら全部3カ月以内で確定させないといけないが、ほんとうにそれが論理必然なのかはかなり疑問です。
権力的な行政行為をするということは、3カ月以内に安定させたいという意図を持っていなくても行政庁にとってはいっぱいそういう必要がある。土地利用規制、営業の許認可、生活保護の受給決定など、いろんなものが行政庁の処分にかからしめられている。何らかの規制や許認可が必要だという判断と、それを3カ月以内に確定させないといけないかどうかという判断は、立法当事者にとっても必ずしも一致していないはずです。典型的にはこういう場合です。税務署の課税処分について取り消し訴訟を何カ月以内だと起こさせて、それを過ぎたら争わせないということがほんとうに必要でしょうか。課税処分の場合、税務署と課税される私人・企業との関係しかない。もし税務署が負けたらとった税金を本人に返すだけのことです。勝ったら勝ったで課税処分が有効だということで、要するに国庫に入ったままになるだけのことですから、仮に10年、20年たって取り消されても、お金のやりとりをすればよいだけで、税務署が倒産するということはありませんから、私人にとって取りっぱぐれることもないのです。
単に権利侵害だから3カ月というのが必然かというと、全然そうではない。こういう場合はどうか。新住宅市街地開発事業では、例えば分譲住宅のためでも収用ができます。分譲住宅でいったん都市公団が収用して、それをだれか私人に分譲しますと、後でもし収用裁決が取り消されると、平穏無事に住んでいた普通のマイホームの居住者が、出ていけと言われる。取り消したら無効ですから原状回復義務があることになる。3カ月の出訴期間内に取り消し訴訟が提起されて争われている案件であれば、危ないかもしれないとわかったうえで入ってこれますが、10年ぐらいたってから裁判が起きて、平穏に10年間住んでいたけれども出ていけと言われたら困る。このように第三者が関わっている領域だと、3カ月がよいかどうかはともかくとして、一定の短い期間で安定させることには、合理性があると思います。
本来出訴期間の必然性は、一定の第三者に関する権利義務に影響をもつような行為についてのみ存在する。それ以外のことについては早期安定といっても、唯一の意味は資料の散逸です。30年も50年もたってから裁判を起こされたら、文書の保管期間を過ぎて行政庁の倉庫にも残ってないということがあり得る。だったら、文書保管を通常行い、資料・証拠のあるうちに限ればよい。時効制度はそのためにあるわけです。文書が散逸して証拠がなくなってから争っても、かいがないということは時効の存在理由の最たるものです。第三者が出てこない相対の処分で、ほかの人に関わりもないものであれば、時効だけでよい。3カ月といった短い出訴期間を設ける必要があるのは、第三者に影響する場合だけでよい。一見突飛に見えますが、なぜ制度があるかと考えると、合理的な判断のはずです。
取り消し訴訟という行政法学の根幹にあるところが、いろいろな意味で問題になっています。公定力がある処分と言われているものの中でも、出訴期間が危ない。被告を間違える訴えの形式を間違えるなど、行政訴訟法にはいっぱい落とし穴がありますから、間違いはよく起きる。しかし、間違えても出訴期間がもし長ければ、あるいはなければ、後から修正して出し直せばそれでOKです。ところが、行政訴訟に限って単純なミスが命取りになる。例えば国相手に収用の事業認定の取り消し訴訟を起こすと、被告を行政主体とするのは不適法だから却下せよと被告は主張し、裁判所はちゃんと却下してくれます。建設大臣と書いてないから不適法却下だと言う。それをぎりぎり明日で出訴期間が切れるという頃に、出すと確実に勝てるわけです。二度と復活できない。出訴期間が終わった後、被告変更はできず、最初に大臣で出してないと途中の変更は新規と同じになります。ひどい話で、出訴期間がついているとささやかなミスでも命取りになって、未来永劫出訴できなくなるので重大です。あらゆる処分このような制約をつける必然性がどこにあるのかが、重要な論点です。
第三は訴えの利益の拡大です。処分性では、区画整理事業計画のように手前じゃだめだというのがありますが、民事の差しとめだったら後で侵害が発生するならかなり手前でも争えます。だったらもっと手前で争うことができてもいいじゃないか。要するに民事訴訟で当然できるようなことを行政訴訟で排除するのはおかしいのです。民法・民事訴訟との平仄を合わせることが、行政訴訟の制度設計では重要だと考えます。
原告適格という概念があります。原告適格もよく却下される理由になる部分です。例えば原発などでは発電所の周囲何キロ以内とか十何キロ以内にいないと原告適格なしとかいう判例があります。建築確認ですと実際に建物の日照被害や通風阻害などがある人でないとだめなど原告の範囲を画するわけです。行政法学界などではとにかく広げろという意見が多いのですが、それは適法性確保のためだという人が多いのです。しかし、適法性確保といっても原告適格を幾ら広げたって北海道の発電所を九州の人が争えることにはならないわけですから、適法性確保なら、何もじわじわとにじみ出して、札幌だけじゃなくて釧路でもいいよとしても五十歩百歩で意味がない。それだったらむしろ端的に、こういう重大で国民全員に影響の及ぶ施設はだれでも統制できるとしたほうが素直だと思います。今の最高裁判決では「法律上保護された利益説」という説があり、原告適格の判断では根拠法令の中でその人を保護すると読めるように条文を書いてあることが、原告適格を認める基準だとします。
一方、「法律上保護に値する利益説」という説もある。法律上保護に値する範囲はもう少し広いはずだとしますが、しょせんにじみ出してもたかが知れているということになります。それだったら、むしろ適法性統制訴訟を端的に認めたほうがいいという立場です。
では、権利救済訴訟なら法律上保護された利益説でいいかというと、これも実はおかしい。飛行場が典型的ですが、飛行機が飛んでうるさいかどうかということと、例えば航空法の中に飛行場から10キロ以内の家に住んでいる人の騒音の苦痛を保護すると読めるように書いてあるかどうかは、何の関係もない。現に飛んでうるさいかどうかということと、航空法の中にその人の利益を保護すると条文上書いてあるかどうかとは何の関係もないと思うのです。ほんとうにうるさければ、航空法の中に書いてなくてもうるさい人が争えない道理はない。逆に言えば、うるさくない人が権利侵害を受けたといって争う道理もない。要するに現実にうるさいかどうかというのが騒音を争うときの基準であるべきであって、条文の中にお前はうるさいはずだという類型を設けてあるかどうかと実際のうるささとは別次元です。現実に発生する苦痛こそ原告適格の基準たるべきと思います。最高裁の判決は間違っているといわざるをえない。
現実の苦痛や不利益に着目して、それが現実にある人は、民事なら当然に争えるわけですから、行政法の世界だって、条文に書いてある、書いてないにかかわらず、当然に争えるようになっていないとつじつまが合わないのではないでしょうか。
第四は行政裁量の統制です。裁量があるものについては具体的な基準を実体法の中に書く。ただ、すべての行政法規がそうですが、一般に行政庁が法令を立案しますが、行政庁は行政訴訟の被告予備軍です。後で必ず訴えられて被告になるに決まっている人が、法を立案するわけです。行政庁職員は後で裁判になって自分が法廷に立ったときに、いとも簡単に負けやすくなるような基準を書きたいとはやっぱり思わない。できるだけ不確定概念、裁量に逃げ込みたくなりますので、できるだけ幅があって、後から裁判官が勇気を奮って違法にするには、躊躇するだろうと思うような裁量の広い要件を書くのがノウハウでもあります。泥棒が刑法をつくったら多分そうなるでしょう。
行政事件訴訟法は法務省の所管法律です。今は検討を内閣府の司法改革推進本部でやっていますが、本来法案の提出権は法務省にあります。法務省は被告行政庁を指揮する権限がある。「国の利害に関係ある法律に関する法務大臣の指揮権限等に関する法律」により国のすべての事件は法務大臣が指揮することになっていて、いわば被告の元締めです。法務大臣に行政事件訴訟法の法案提出権があるということは、やはり泥棒に刑事訴訟法の法案提出権があるのと同じことになってしまう。行政庁が行政実体法をつくる、法務省が行政訴訟法をつくるというのは、奇妙な構図といわざるをえない。行政庁に対し、行政庁に不利になるかもしれない判決をもたらすような条文をつくれと言っても無理だし、法務省に法務省が訴訟行為で不利になるかもしれない行政訴訟法をつくれと言っても無理なわけで、利害関係のない第三者が、このほうが国民利益が増進するという観点から責任をもつべきです。
第五に、裁判所の改革も重要です。ある程度行政専門部などをブロックごとに設けて、しかも国民の権利を救済しない方向で、あるいは判決を書かない方向で才能を発揮する裁判官よりは、実質的に紛争を迅速公平に解決しようという情熱があり、能力も高い裁判官を集める必要がある。
さらに、ADRや行政審判など、訴訟だけがすべてではありませんので、事前の段階で行政が適法な権限行使ができるように、行政手続法・情報公開法とも関連しますし、特に行政書士の先生方の役割が大きいと思いますが、事前の段階での徹底的な規律がやはり根幹だと思います。起こってから事後的に明け暮れるというよりは、違法な行政が起こらないようにするために一体何ができるのか。こちらのほうの改革も非常に重要な課題だと考えています。
また、今はキャリア裁判官制度であり、実質的には司法研修所を終えたら70までずっと裁判官暮らしということですが、裁判官は政治的に大変小心になっています。これは、時々任官拒否がかつて出たりして、何か与党が進めている政策や現存秩序に大きく異を唱えるような判決は書きにくい雰囲気が、裁判官と個人的に議論すると蔓延しています。できるだけ政治的なところに手は突っ込みたくない。だけど、彼らはやっぱり権力におもねていると見られるのが嫌な人種ですので、傍論では行政の悪口を言っても、最後は行政を勝たしてくれるというパターンが多いのです。本来裁判官は評論家ではなくて紛争の裁き手ですから、傍論で格好いいこと言っても仕方がないわけでありまして、法に即して勝つべき訴訟は勝たせてほしいし、負かすべき訴訟は負かせてほしい。法に照らして適法か違法かという基準だけで裁いてほしいわけです。裁判官サイドでは与党に今人事介入はされていないので、このうるわしい関係、裁判所だけで好き勝手な人事ができるという憲法の想定しないうるわしい慣行を未来永劫維持し続けたいために、与党を刺激するような判決を書く人物は飛ばす、こういうキャリア人事の運用をやっているといわれます。
いろいろな前例が実際にそういうメッセージを放っています。裁判官も人の子です。やはり地方のどさ回りは嫌で、できれば東京・大阪に早く戻ってきたい、子ども教育もあると、非常に小心きゅうきゅうとしたサラリーマン裁判官が多いので、行政を勝たすななどという勇気を振るうのはハードルが高い。やはり法に則って粛々と判決が書けるような環境にしてあげることも大事です。行政訴訟でそういうほんとうの構造改革の芽が出ると、裁判官の世界ももうちょっと風通しがよくなって変わっていくのではないかと期待しています。
(拍手)
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