冤罪を生み出す構造(6) 「嘘の自白」と「取り調べの可視化」 藤沢 顕卯 掲載日:2007年5月10日 |
世の中にどれほど冤罪を訴えて長年に渡り運動を行っている事件・団体が多いか、またどんなに警察・検察の捜査・取調べが杜撰で酷いものであるか、また刑事裁判がどんなに真実を見抜く能力に欠けたいい加減なものであるか、ということについてはほとんど一般には知られていない。 日本の捜査機関や刑事裁判は「自白偏重主義」と呼ばれ、国連規約人権委員会からも勧告を受けているほどであるが、自白について定めた憲法第38条 (何人も、自己に不利益な供述を強要されない。2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。) が、実際の取調べや刑事裁判では全く守られていないということは、刑事裁判に関わる弁護士や、実際に警察や検察の不当な取調べを受けたことがある人たち、またそれらの支援運動に関わる人たちの間では広く知られている周知の事実である。 一般には自己に不利益な自白、自分がやってもいない犯行を認める「嘘の自白」などそもそも有り得るのか、とか、それは稀なケースで本人の責任ではないか、といった考え方が多いと思われる。しかしこれらの「嘘の自白」は、最近、鹿児島県志布志市で起きた警察のでっち上げによる公職選挙法違反冤罪事件で、6人もの大の大人がそろって自白を強要されていた事実や、富山県内の男性が強姦と強姦未遂で逮捕され約2年1カ月の服役後に真犯人が現れ冤罪とわかった事件、その他マスコミで報道されない多くの冤罪事件の例を見ればわかるように、決して稀なケースでも無ければ、本人の責任などと割り切ることもできない。 (因みに最近出版された浜松の幼児虐待死冤罪事件をとり上げた「自白の理由」(里見繁=大阪毎日放送報道局著、インパクト出版会、2006)には、序章で、1986年に大阪で起きた公職選挙法違反冤罪事件で、なんと関係者147人!が「嘘の自白」をさせられ、11人が泣き寝入り、135人が裁判で争い、4年半の裁判を経て全員無罪が言い渡された事例が紹介されている。) そもそも捜査機関やマスコミによって「自白」と呼ばれるものは、取調べを受けた被疑者が容疑をすらすらと述べたものでは必ずしもない。一般にそれは「調書」という形で現れ、これは一言で言えば捜査機関(警察や検察)が作る作文である。事件のストーリーを場合によってはあらかじめ作成して被疑者に押印を求めたり、度重なる誘導で都合の良い単語や言葉を引き出すことにより、あとはときに言葉を勝手に補ったり直したりして、もっともらしく前後関係のつながるストーリーとして捜査機関が作り上げるものだ。 「嘘の自白」を真正面からとり上げた数少ない著書として「自白の心理学」(浜田寿美男=花園大学教授(現・奈良女子大学教授)著、岩波新書、2001)があり、この問題を心理学の観点から詳しく解説しているが、この本では「嘘の自白」の背景について次のように述べている。 「取調べの場には被疑者を有罪方向に引き寄せる強い力が働いている。その力にさらされた被疑者がその内面において感じている辛苦は、第三者にはなかなか見えない。いや取調べに立ち会っている取調官自身にも、目の前にいる被疑者の辛さが十分わかってはいない。だからこそ遠慮なく責め立てることもできるのである。 取調べの場は徹底的に非日常の場である。日常生活を安穏に過ごしている私たちは、その場にさらされることの厳しさを安易に見過ごしてしまう。 一つは、身柄を押さえられて日常生活から遮断されただけで、人は心理的な安定を失うという事実である。私たちはふだん、日常を自分一人の力で生きているかのように思っているが、実際には自分を囲む関係のネットワークに支えられてはじめて心理的平衡を保っている。そのことは関係のネットワークから一人引き抜かれて、孤立無援の状況に追いやられればすぐにわかるのだが、人がそうした体験を味わう機会はまれで、それゆえ多くの人はその深刻さになかなか気づかない。 また、一般に取調べは短時日で終わらない。そしてその取調べを受ける期間、警察の留置場に身柄が置かれる。そこでは、食事、排泄、睡眠といった基本的生活のすべてが他者の管理下にあって、自分の自由にはならない。これもまた人がほとんど体験したことのないことで、そのつらさは想像を越えている。 さらに被疑者は取調べの場で、自白を迫る取調官によってその罪を非難され、ときに人非人として罵倒される。・・・・・私たちも日常生活の中で、ときに他者と衝突し、相手から強く非難されたり、あるいは罵倒されたりすることがまれにはある。・・・・・一時間あるいは二時間と持続して、相手から非難され、あるいは罵倒されつづけるという経験はまずないだろう。取調べの場ではそれが何日も続くことがある。そうした目にあえば、ただ言葉だけであっても、人は立ち直れないくらいに傷つく。それは肉体的な暴力に匹敵する。・・・・・ また事件に関連のない事柄まで取り沙汰されて、罪責感を募らせられることもある。長期にわたる取調べの場では問題の事件を越えて、しばしば被疑者の人生そのものが問われる。人は長く生きていれば、他者からとやかく言われたくない傷の一つや二つは抱えるもの。その傷が執拗にほじくりかえされれば、それだけで十分にめげる。 こうして被疑者は取調官のまえで、心理的にほとんど丸裸の状態にされてしまう。・・・・・いや逮捕され留置場に入れられるとき、彼女(1974年に起きた甲山事件という幼児死亡事件(又は事故)で、逮捕から25年を経て完全無罪を勝ち取った冤罪事件の被告人・藤沢注)は、文字通り物理的にも丸裸にされた。それは何か物を隠していないかを調べる身体検査のためなのだろうが、実際にはたった一人の生身の人間として、丸裸でその場にいるのだという事実を過酷に示す一つの象徴でもあった。こうした状況の総体が取調べの圧力となって被疑者に迫るとき、これにどれだけの人が耐えられるだろうか。」 また別の箇所では次のようにも述べている。 「警察が濃厚に抱いた疑惑は、まるで磁力を帯びた磁場のように周囲の供述証拠を引き寄せ、あるいは歪め、無実者のまわりを有罪証拠で取り囲む。そうして逃れようのないかたちで被疑者を取調べの場に引き込み、追求したとき、その同じ磁場がやがて被疑者本人の自白をも引き寄せてくるのである。 目撃供述とか自白とか、人のことばによって語られる供述は、本来、寡黙な物証のあいだをつなぎ、その空白を埋めて、真実の世界を浮かび上がらせるものと思われている。しかしそれは同時に、空白に忍びこむ疑惑に引き寄せられるようにして、虚偽の物語をいかにも真実らしく語り出しもする。そこに供述証拠の怖さがある。」 小さい頃からエリートとして育ち、難解な司法試験に受かり、任官後は一層、一般社会との交流を絶ち、限られた世界で生活すると言われる裁判官は、一般人から見れば不思議なほどにこれらの人の心の弱さや警察・検察組織が裏で行っている不当行為について理解できない、または信じられないということがあるらしい。 最近、鹿児島の冤罪事件の社会的反響が大きかったためか、取調べ過程における「嘘の自白」を認定して無罪判決が出るケースが相次いでいる。(大阪・アパート放火事件、大阪・損害保証金詐欺罪事件等) 有罪率99%以上にのぼり、「疑わしきは検察官の利益に」と揶揄されることもある刑事裁判の実態の中で、検察による多大なプレッシャーをはねのけて、しかも捜査当局の取調べを批判して無罪判決を出すことは基本的には勇気ある(本来の職務を果たしている)ことと評価されねばならない。しかしこれら少数の例の裏側には、「嘘の自白」が「任意性のある自白」と誤認定され、有罪に追い込まれた多くの冤罪事件があることも考えなければならない。 実際、死刑や無期の判決を受けている重大事件だけでも相当な数の事件が「嘘の自白」による冤罪を訴えて活動中、または無念のうちに断念したもの、または長年の闘争の末に無罪判決を得ているものもあり、新聞に載らないような中小事件も含めれば膨大な数になると推測される。 現状の刑事、司法制度の改善点としては、広く主張されているものだけを拾っても、以下のような多くの点が昔から主張されているにも関わらず、どれも未だに実現されていない。 ・ 代用監獄の廃止 ・ 保釈制度の実効化(人質司法の解消) ・ 取調べの可視化(録画・録音義務付け) ・ 取調べ時の弁護人立会い ・ 捜査機関手持ち証拠の全面開示 ・ 別件逮捕の禁止 ・ 令状乱発主義の見直し ・ 複数鑑定制度の採用 冤罪支援に関わっている人たちの間で、導入予定の裁判員制度に否定的な意見が多く聞かれるのは、これらの緊急度の高い改善項目が実現されないうちに裁判員制度だけを導入しても、市民が冤罪作り(のアリバイ作り)に加担させられるだけだ、という心配があるからである。 確かにこれらはどれ一つとっても、緊急に対処しなければならない課題であり、本来、憲法や刑事訴訟法の原則からも外れた異常な運用形態が続いていると考えられる。 これら重大課題を放置しておきながら、「裁判への市民参加」などという聞こえのいいキャッチフレーズの下に、外見上の司法制度改革ばかりが進行することには違和感を覚えざるを得ない。 上記課題のうち、「嘘の自白」対策に直結するものは、「取調べの可視化」と「取調べ時の弁護人立会い」であるが、「取調べの可視化」は取調べの過程の録画・録音を義務付けようという制度で、イギリスやアメリカのかなりの州のほか、オーストラリア、韓国、香港、台湾、モンゴルなどでも採用されており、日本政府に対する国連規約人権委員会の勧告でも触れられている。 日本では日弁連が「取調べの可視化実現本部」を設置して提案・活動しており、民主党が2004年から関連法案を提出し続け、今国会にも提出されている。自民党内の一部にも志布志市の事件をきっかけに賛成する意見が出ているようだが、政府は相変わらず反対または慎重な姿勢だ。 現在私が支援している北陵クリニック事件(詳細は「無実の守大助さんを支援する首都圏の会」のHP(http://homepage2.nifty.com/daisuke_support/)または「僕はやってない!−仙台筋弛緩剤点滴混入事件守大助勾留日記」(守大助・阿部泰雄共著、明石書店、2001)を参照)では、自白に至る警察の強引な取調べの様子を詳細に述べている被告人(守さん)の主張を、警察は全面的に否定し、一・二審では警察側の主張が正しいと認定されてしまっている。 他の多くの事件でも、自白は重要な犯人性の根拠とされ、裁判では「言った」「言わない」または「任意性がある」「任意性がない」の水掛け論が延々と続くことがあり、裁判長期化の一要因となっている。これらの非科学的でばかばかしい言い合いは、取調べ過程の録画・録音を義務付けることでほとんど解決することができるはずだ。裁判所が勘や印象で誤った認定をすることも無くなるだろう。 裁判員制度が実施されるまでには必ず実現させなければならない。 検察庁が去年から、自己の裁量によって、取調べの一部のみを録画・録音することを試行しているようだが、これは検察の都合の良い部分のみを選択して証拠として提出することを許すものであり、冤罪防止の観点からは全く逆効果で受け入れがたいものである。 一昨年再審開始が決定した「布川事件」(1967年に茨城県利根町布川で起きた殺人事件)では、一部の捜査側に都合の良い自白録音テープが証拠とされ、自白が最大の犯人性の根拠とされてきたが、38年間検察が隠し続けてきた自白の任意性を否定する録音テープが開示されたことが、再審開始決定の大きな要因となった(「崩れた自白−無罪へ」布川事件弁護団編、現代人文社、2007を参照)。取調べの一部のみの録画・録音はこのような結果を招く恐れがあるので、取調べ全過程の録画・録音義務付けが必要である。 日弁連の関連ページ http://www.nichibenren.or.jp/ja/special_theme/investigation.html http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/2003_31.html http://www.nichibenren.or.jp/ja/special_theme/data/torishirabe_kashika.pdf 民主党の提出法案関連ページ http://www.dpj.or.jp/seisaku/kan0312/houmu/BOX_HOM0067.html http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/keika/1DA0F6E.htm http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/g16401013.htm 国連規約人権委員会から日本政府に対する勧告 (自白偏重主義、代用監獄制度を批判し、取調べ可視化に関わる勧告を含む) http://www.kashika-suishin.com/?page_id=56 関連ブログ(取調べ可視化 最前線) http://blog.kashika-suishin.com/ 関連図書 http://www.kashika-suishin.com/?page_id=54 関連新聞社説 http://www.kyoto-np.co.jp/info/syasetsu/20070228.html http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20060510.html ふらっと 人権情報ネットワークのメルマガから 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