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真夏の箱根
@箱根八里(箱根旧街道)

池田こみち

September 2010
独立系メディア「今日のコラム」
無断転載金


 2010年9月3日(金)、朝10時過ぎにホテルを出てひさびさ箱根にでかけましたた。今回は90歳過ぎの叔父と80歳の叔母を連れての旅行です。

 湯本の手前の三枚橋を左折し県道732号(旧東海道、下図参照)で箱根を登りました。



 下はグーグルマップの地形図です。旧東海道と箱根旧街道は、二子山と屏風山の間の谷沿いにあることがわかります。箱根旧街道の標高はおおよそ700mです。


箱根の地形図
出典:グーグルマップ

 通常は湯本駅前を通る国道1号か、箱根新道、あるいはもっと南側の山越えとなるターンパイクを利用しますが、今回は敢えて旧東海道を通りました。

 狭い道沿いには古い旅館が並んでいます。奥湯本という温泉街があります。さらに登ると、畑宿を過ぎて少し言ったところに箱根旧街道の資料館(上の地図の赤色目玉マーク)があります。


箱根旧街道資料館
資料写真

 そこからさらに芦ノ湖方面を行くと、お玉ケ池の手前に一部復元された箱根旧街道が残っています。下の地図の右側にある旧街道石畳とあるのがそれです。




旧東海道(真ん中の道)と箱根旧街道(下側の細い道)
出典:グーグルアース

 下の写真2枚は、箱根旧街道入り口で撮影したものです。


撮影:山形美智子 Nikon CoolPix S10 2010.9.3


撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10 2010.9.3

 この箱根旧街道は、神奈川県足柄下郡箱根町、静岡県三島市および田方郡函南町にある国指定の史跡となっています。またこの箱根旧街道は、小学唱歌で箱根八里として歌われた場所でもあります。

■箱根八里(はこねはちり)

 旧東海道で小田原宿から箱根宿までの四里と箱根宿から三島宿までの四里をあわせたもの。東海道では、大井川とともに難所として知られていた。箱根馬子唄の別名。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とうたわれることから。鳥居忱(とりいまこと)作詞、滝廉太郎作曲の歌曲。

出典:Wikipedia

 詳しくは小田原箱根口から芦ノ湖畔までの上り四里、三島までの下り四里をあわせ「箱根八里」といい、東海道の中でも箱根越は苦難の道でした。旧東海道に残る古道の石畳は、現在畑宿から湖畔まで往時の石畳が保存整備され、多くの人々が当時の面影をしのびながら散策しています。

 以下に箱根八里の歌詞を示します。

箱根八里

1.
箱根の山は、天下の嶮
函谷關(かんこくかん)も ものならず
萬丈の山、千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)へ、後方(しりへ)にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
羊腸の小徑は苔滑らか
一夫關に当たるや、萬夫も開くなし
天下に旅する剛氣の武士(もののふ)
大刀腰に足駄がけ
八里の根(いはね)踏みならす、
かくこそありしか、往時の武士

2.
箱根の山は天下の岨
蜀の桟道數ならず
萬丈の山、千仞の谷
前に聳へ、後方にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
羊腸の小徑は、苔滑らか
一夫關にあたるや、萬夫も開くなし
山野に狩りする剛毅のますらを
猟銃肩に草鞋(わらぢ)がけ
八里の?根踏み破る
かくこそあるなれ、当時のますらを

 さらに、この箱根旧街道を含む箱根の山々と芦ノ湖などその周辺については、安藤広重や葛飾北斎も著名な版画を残しています。

 下は広重の有名な東海道五十三次 箱根です。広重の版画はどれも高さがディフォルメされているのが大きな特徴ですが、箱根山も断崖絶壁として描かれています。


安藤広重 東海道五十三次 箱根

 下の版画は、葛飾北斎の冨嶽三十六景 相州箱根湖水です。箱根湖水は、今の芦ノ湖です。


葛飾北斎  冨嶽三十六景 相州箱根湖水

 また、芦ノ湖畔の旧東海道にある杉並木は、江戸時代のはじめ元和4年(1618年)箱根宿を設けたときに植えられたと伝えられています。現在でも409本の大木が残っています(国指定史跡)。


杉並木 
資料写真


史跡箱根旧街道の石碑
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10 2010.9.3


撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10 2010.9.3

 以下は、この箱根旧街道の解説です。出典は末尾にあります文化庁の解説板です。

箱根旧街道

 江戸幕府は元和四年(1618年)、十六夜日記でも知られる旧来の湯本から湯坂山−浅間山−芦ノ湖を経て元箱根に至る湯坂道(現、ハイキングコース)を廃し、湯本の三枚橋から須雲川に沿い畑宿を通り、双子山の南を経て元箱根に至る古い山道を広げ世に言う箱根八里超で伝えられる街道をつくった。

 この街道は寛永12年(1635年)参勤交代の制度ができ、一層交通が盛んとなり、そのありさまは、詩歌、物語等にも歌われた。延宝八年(1680年)、幕府の手によりはじめてこの街道に石が敷かれたが、この石畳の道は、現在も所々に存し、国の史跡に指定されている。


箱根旧街道の石畳の道
資料写真


箱根旧街道の石畳の道
資料写真

 現在は、残っている石畳は、文久三年(1863年)2月、光明天皇の弟、和宮内親王が十四代将軍徳川家茂のもとに降嫁されるにあたり幕府が時の代官に命じ文久二年(1862年)に改修工事を完成させたものだと言われている。平均約3.6mの道幅の中央に約1.8mに石が敷きつめられていたという。

 この地点から元箱根に至る約1kmに石が現存している。



つづく