「資源持ち去り」裁判を考える 2007年12月12日 無断転載禁 |
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山口県下関市に次いで東京世田谷の「資源持ち去り」も有罪の判決が下された。 山口市の場合には、下関簡易裁判所での一審判決で有罪、山口高裁でも有罪となった。一方、世田谷の条例違反では、一審の東京簡裁で7人が無罪、5人が有罪となり、判断が分かれていたが、東京高裁では、4人が逆転有罪となり、再び判断が分かれた。被告の業者の中には、最高裁まで争う構えを見せているものもいるという。いったい、このような裁判をどう考えればいいのだろうか。争点を整理してみたい。 <古紙回収業者(被告)側の主張> ・法の下の平等の公平性の逸脱 他の地域では取り締まりの対象とならない行為が、条例を制定した自治体では処罰されるのは法の下の平等・公平性を欠く。 ・官による民業圧迫であり、生業を奪われ生活が成り立たなくなっている。 <自治体(原告)側の主張> ・所有物の収奪:集積所に出された古紙の所有権は自治体にあり、それを無断で持ち去るのは窃盗に等しい。また、自治体の管理権を侵害している住民が集積所に古紙を出すのは、リサイクルすることを自治体に委託しているのと同義であり、それを自治体以外の業者が持ち去ることは違法である。 ・業者(被告)は市から家庭用一般廃棄物の収集、運搬の委託を受けておらず、勝手に持ち去ったことは違法。 ・「市のリサイクルに協力しているのに別の業者が持っていった」「早朝からうるさい」など住民からの苦情が相次いだ。(下関市) ・何回も注意、警告をしたのに持ち去りを止めなかった。 <裁判官の判断> ・条例では犯罪構成要件である持ち去りを禁じる「所定の場所」が明確ではなく、無罪。(東京簡裁) ・持ち去りを禁じた集積所は看板などで明らであり、区民の出す資源を持ち去る行為は『横取り』というべきで、区の管理権や所有権を侵害する。(東京高裁) ・条例は、「古紙回収業者の営業の自由を全面的に制約するものではなく、生命権や生存権を奪うものではない」また、自治体の裁量権を逸脱していない。 (下関簡裁) ・業者による横取りを放置した場合、資源の分別収集について、住民の協力を得ることができなくなる恐れがある。罰則規定は市の目的達成の手段として必要。 (山口高裁) ざっと以上のような主張となるが、率直に言ってこの種の裁判は、どこか本質を見失っている気がしてならない。 住民の立場に立ってみると、読み終わった古新聞などは、はっきり言って、資源化してもらえるのであれば、税金を使わないで処理してもらう方が有りがたい。「行政は住民から委託されている」というが、「委託」しているのではなく、ルールだから出しているに過ぎない。 昔からそれぞれの街には古紙回収業者がいて、定期的に巡回し、資源循環を担う役割を果たしていたのである。それが「循環型社会の構築」という政策の下、これまで町で機能していた業者の役割を取り上げて、「民」ができる仕事をわざわざ「官」が担うようにして「民業圧迫」しているのである。そもそも、「古紙の回収」や「空き缶・瓶の回収」をなぜ行政が税金で担わなければならないのか。 それぞれの町の事情、その町にある資源(人材、企業、技術、コミュニティなどなど)を活かしたルールと仕組みを作ることこそ行政の仕事であり、税金を使って廃品回収に固執するのは極めて不合理であり、非効率である。ましてや、古紙を数束持ち去るところを監視し、裁判に訴えれば、それだけ行政コストが増大するわけである。 行政の役割は、景気に左右されずに、安定的にしかも効率的に資源の回収が行われるようにこうした零細業者の組織化や地域での業務の安定化のための支援を行うべきである。 都会では、大規模集合住宅などで、新聞販売店が日を決めて古新聞の回収を行っているが、そうした自主回収行為はとりたてて問題とせず、零細な業者に目くじらを立てる、というのも問題である。 そもそも資源の回収などは、税金を使わずに、生産者責任、使用者責任で行えるような仕組みの構築が最優先されるべきである。 カナダやオーストラリア、米国カリフォルニア州などのゼロ・ウェイストを推進する自治体では、できるだけ税金を使わずに資源を回収する仕組みを構築し制度化している。ゼロ・ウェイストという考え方は、資源の無駄を無くすだけでなく、こうした行政の無駄、税金の無駄を無くすことも重要なテーマとなっている。 古紙の束を持ち去ることが有罪か無罪かを争う姿は、滑稽であり、日本社会の未 成熟を見せつけられる思いで恥ずかしさすら覚える。 以下、世田谷と下関の判決についての新聞記事を紹介する。
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