映画「男たちの大和」を観て 阿部 賢一 2006年2月15日 |
2月7日映画「男たちの大和.YAMATO」を立川のシネマ2で鑑賞した。この映画を観ての感想は、スマートな反戦を提起していることである。 『週刊金曜日』(2006年1月6日号)の「対談 佐藤純彌(「男たちの大和.YAMATO」の監督)×森達也『男たちの大和/YAMATO』は反戦映画化!?」(以下対談という)の記事を読んで観にいった。 この映画の勇ましそうなタイトルと製作・配給が東映ということで、戦意高揚映画だと勝手に思い込んでいたのだが、まったく違った。原作が辺見じゅんであることも忘れていた。映画鑑賞中、筆者は何回となく涙をこらえ切れなかったが、この映画のキャッチコピーである戦争の「悲惨さ」と「愛」を表す?『もう会えない君を、守る。』のためではない。(若い人たちには『さらば宇宙戦艦ヤマト』の「君は愛する人のために死ねるか」を想い出すに違いない。) 「戦争」と「愛」を結びつけるのはあまりにも容易い「愛国」だが、この映画は深く考えさせられるスマートな「反戦」映画であった。この対談と映画鑑賞を交差させながら、少し長文になったがまとめてみた。 [2] 特攻」の起点 なぜ航空兵力を持たない裸同然の戦艦大和を含む第二艦隊が、片道燃料で「水上特攻」として出撃していかざるを得なかったのかを考えると、明治以来の『富国強兵』政策を主導した我が国エリート(政治家と軍部官僚たち)、それに振り回され、舞い上がり、熱狂させられ、苦しみ、挫折した国民の「我が国近代史」を考えざるを得なかった。 明治時代、「坂の上の雲」日露戦争のはじまりから、昭和二十年、世界を相手に無謀な戦いを拡げ、完膚なきまでに叩きのめされた我が国の敗戦を「終戦」という言葉に結末をつけてすでにそれから六十年。何も変わっていない我が国の現実に慄然とせざるを得なかった「苦渋の涙」であった。 対談のなかで、森達也が、「『海軍の船は何隻残っているんだ』と天皇から尋ねられた(海軍)軍令部が、『海軍は何をやってるんだ』と叱責されたと解釈して、「この巨大な兵器が無傷のまま負けては陛下に申し訳ない」と、死ぬこと自体が目的となってしまったというエピソードを紹介している。 佐藤監督は、「ほぼ正しいですね。それともう一つ事実かどうか確認できないが、ある人たちの間では、「終戦のきっかけを作ろうとしたのだ」という話が伝わっています。いずれにせよ、僕は大和というのは、日本の近代史とすごくだぶっている気がするんですよね。明治以降の国策、つまり富国強兵と。」と応じている。 明治時代からの我が国近代史にまで考えを深めることに筆者は同感である。 昭和初期の軍部台頭は、徳川幕府を倒した明治元勲たちが「世界の中でどのような国家をつくって生き抜くか」というコンセプトをまとめたときからその火種がすでに蒔かれていた、と考えたい。 [3] 戦艦大和の竣工と沈没 海軍幹部たちのシーンはこの映画では極めて少ない。無表情な軍人ロボット群像としか感じられない。 昭和20年3月29日、海軍軍令部及川古志郎大将が天皇に南西諸島方面における戦局を奏上した際に「海軍にはもう艦がないのか?海上部隊はもうないのか?」という天皇の言葉を、「水上部隊(海軍)は一体何をしているのか!?」という意味で解釈し、御前を退出、連合艦隊司令官豊田副武に伝えた。豊田は「畏れ多き言葉を拝し、恐縮に堪えず。臣副武以下全将兵殊死奮戦、誓って聖慮を安じ奉り、あくまで天一号作戦を完遂を期すべし。」という緊急電文を天一号作戦部隊に発したという*。 海軍リーダーたちが、「天皇」と「海軍官僚」の呪縛に掛かって硬直してしまった。 *大和特攻について 経緯編 http://toyama.cool.ne.jp/sinpu2649/newpage12.htm 映画のシーンでは、伊藤・第二艦隊司令長官以下幹部たちに大和出撃命令を伝える草鹿・連合艦隊参謀長に対し、「なぜ豊田連合艦隊長官自ら乗船出撃されないのか」と上級士官のひとりが発言すると無言の緊張が高まるシーンがあった。 伊藤・第二艦隊司令長官は「航空機の援護がない以上、沖縄突入の成功の公算は極めて低い」と作戦に強く反対したが、草鹿・連合艦隊参謀長の「これは、一億特攻のさきがけである、どうか了承願いたい」との懇請した。伊藤長官は、作戦遂行無理の場合にはすみやかに中止の命令を自分が出す事を条件に、本作戦を承諾したという。 戦艦大和を含む第二艦隊10隻は、昭和20年4月7日、九州南西海面にて米空母艦載機延べ386機と交戦。戦艦大和を含む6隻が沈没、戦死者は3,721名、帰還したのは駆逐艦4隻、生存者276名。この結果、明治以来の世界第三の海軍力を誇ったという連合艦隊は壊滅した。 この戦闘での米国海軍側の被害は撃墜10機であった。 豊田・連合艦隊司令長官が、帰還した第二艦隊に与えた言葉「第二艦隊の犠牲的勇戦奮闘によりわが菊水特攻作戦*の戦果大いに挙がれり」はまったくむなしい。 *菊水作戦:昭和20年(1945年)4月6日〜6月22日、連合軍の沖縄攻撃に際して、海軍陸軍が行なった特攻作戦。 戦艦大和出撃命令を発した豊田・連合艦隊司令長官、草鹿参謀長は、連合艦隊司令部の神奈川県日吉に在って全作戦を指揮した。なぜ自ら先頭に立って出撃しなかったのだろう。海軍は「水上特攻」の後はないほどすでにほとんどの艦艇を消耗していたのだ。豊田長官は終戦時、海軍軍令総長、11月に予備役編入、12月にA級戦犯として逮捕されるも無罪の判決を得て、昭和32年(1957年)9月没。草鹿参謀長はその後第五航空艦隊司令長官に就任、終戦時は予備役、戦後「連合艦隊参謀長の回想録」を出版、昭和46年(1971年)11月に没している。「臣副武以下全将兵殊死奮戦」「一億総特攻のさきがけになり、立派に死んでもらいたい」と命令した海軍エリート官僚の戦後に唖然とする。国民を主導する立場にあった者の「誇り」と「責任」を彼らはどう認識していたのだろうか。 [4] 海軍エリートたちの対米戦争認識 戦艦大和は明治海軍が生み出した「富国強兵」策における「強兵」昭和海軍の象徴的存在であった。 太平洋戦争勃発となった世紀の愚行、真珠湾攻撃が行われたのが、昭和16年12月8日。その8日後の12月16日、戦艦大和は竣工。全長263m、最大幅約39m、最大速力27ノット(時速50km)船底から最上部までの高さ約50m、建造費1億5千万円、当時の国家予算の2%を使った。呉鎮守府に編入、連合艦隊に編入された。昭和17年2月、連合艦隊旗艦となる。その後ミッドウエイ海戦参加、ソロモン作戦支援を経て、昭和18年2月、連合艦隊旗艦を「武蔵」に移譲、昭和19年10月、比島沖海戦参加、昭和20年4月7日、九州南西海面にて米空母艦載機群と交戦二時間、戦艦大和は沈没。 対談で佐藤監督は「これは本当に、日本の近代そのものを象徴しているという気がしたんです」と述べている。 いかに世界最大最強の戦艦であれ、国の指導者たちが、時代を見通せず、進歩を怠り、その流れに遅れれば、瞬時にして、国家は、転落・衰亡への急坂を下る。日本の昭和初期はそうゆう時代になっていたのだ。 日本陸軍は「満洲・中国への侵略」の悪玉であり、国際情勢に対する認識も豊富で、戦争回避派の存在を誇らしげに語る戦後の日本海軍出身者及びその応援団の善玉ムードづくりが成功しているように見える。 たしかに、海相・米内光政、海軍次官・山本五十六、軍務局長・井上成美のトリオは日独伊三国同盟に反対した。米内海相に対し「日独伊の海軍が英米仏ソの海軍と戦って、我に勝算があるか」と石渡蔵相が問うたのに対し、『口べたの米内が、この時、語尾を濁さぬ非常に明確な答をした。「勝てる見込みはありません。大体、日本の海軍は、米英を向こうにまわして戦争するように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」(阿川弘之著「米内光政」)』といった。山本は昭和15年9月、近衛首相との面談で日米戦が起こった場合の海軍の見通しについて尋ねられ、「それは、是非やれと言われれば、初め半年や1年は、ずいぶん暴れて御覧に入れます。しかし2年、3年となっては、全く確信は持てません。三国同盟ができたのは致し方がないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力御努力を願いたいと思います」と、米国との戦争に到底勝てないことを自覚していた。彼は。米国に二回も長期駐在し、米国の実力を十分に認識していた。だが、その彼がルーズベルトの活路を開く、絶対にやってはならない世紀の愚行、真珠湾攻撃を決行した。井上も「アメリカ、イギリスとの軍備の比率は低いほうがいい、戦いをすれば負けるから、なんとか外交でしのいでいかなきゃいかん、……軍人としてそれを自分に言いきかせるということは悲しい……そして、くやしい……くやしいけれど……そういう国なんだから。自分よりも技術が進み、富もあり、人口もたくさんある、土地も広い、という国がある、ということは仕方がない。もがいたって、これを脱けるわけにいかない。そういう世界の状況なれば、その中で、無理をしない範囲で立派な国になっていくほうがいいんではないか」と戦後回顧した(井上成美「海軍の思い出」『朝日ジャーナル』昭和51年(1976年)年1月16日号) 昭和16年7月31日、天皇は永野・海軍軍令部総長を召し、米国と戦争となった場合の見通しを問い、勝てるかどうかも覚束なく、戦争が長期となった場合は成算がたたない旨を答えた。この答えに天皇は、成算もないのに戦争を始めようとしていることを、大変危惧したという(木戸幸一日記)。開戦一ヶ月前、11月4日の大本営政府連絡会議でも、永野は、海軍は開戦後二年間は勝ち続ける確信はあるが、長期にわたる戦局については、予見することはできないと発言している(杉山メモ)。海軍は戦争を始めても、終結させるための見通し、構想を、何も持たなかったということである。 日米開戦を決断する御前会議で、海軍側は「米国とは戦争できない」「米国との戦争はしない」とは言えなかった。そういえば、自分たち、そして海軍という組織の全面否定であるから。(これは残念ながら現在の「地方分権化」と「国家公務員削減」に強力に反対する中央官僚にも通じる「官僚の悪弊」として引き継がれてしぶとく生き残っている。) そして太平洋戦争が始まった。国家戦略をめぐる政府と軍、陸軍と海軍、陸軍省と参謀本部、海軍省と軍令部、など、政府と軍は明治時代から果てしない内争、派閥争いに明け暮れ、ついに国家戦略についての合意を得られぬまま、昭和時代の戦争に突入・拡大、敗戦でやっと終わった。軍人を含む我が国指導層の「縄張り主義」が独走、本来「国を守る」べき軍人たちが「国を破る」結末となった。 太平洋戦争(この呼び方は戦後占領軍に強制された用語である)は、海軍がその戦端を開き、海軍が緒戦で航空戦力の威力を発揮させたが、それが逆転して米空母艦載機群による戦艦大和の沈没で壊滅。「国体」論議でもたもたする中、広島、長崎に原爆が投下され、我が国諸都市を廃墟にして敗戦に至らしめた。海軍の国際派・不戦派といわれるエリートたちも、組織に対して「毅然たる個人」を発揮できなかった。「阿南陸相は自決して、陸軍を鎮圧し、米内海相は生きて全海軍を収拾した」という朝日新聞「議会記者席」(昭和20年11月29日付)の論評もむなしい。 国際戦略をないがしろにし、目先の事態に対応する戦術にのみ「精神的・感情的な高まり」を求め、声高に叫ぶ者に引きずられ、追従し、肝心の「戦略」と「兵站」を忘れた日本の陸海軍人エリートたち、こんな連中は国を背負い、国民を主導する真のエリートたちではなかったのだ。視野の狭い硬直した志の低い質の悪いエリートたちであった。 [5] 映画の主役たち 映画の主役は海軍特別年少兵や下士官たちである。その下士官も、機銃射手の内田守二等兵曹機銃射手(中村獅童)や烹炊所班長(炊事担当)の森脇庄八二等兵曹(反町隆史)である。そしてもうひとり、第二艦隊出撃命令の出た夜、兵学校出身の士官と学徒出身士官たちの取っ組み合いの激論を静かにおさえたシーンで下記のせりふを語り、エンディングの字幕のバックでたたずむひとりの影、実在した哨戒長(副砲分隊長)、臼淵磐大尉(長嶋一茂)である。彼は海軍兵学校出のエリート士官で、ノートに詩を綴り、水泳が得意でハーモニカを奏する静かな男、その涼やかな横顔が印象深かったという。臼淵大尉は、後部副砲射撃指揮所に最初に命中した爆弾で、散華した。享年21歳7ヶ月。 その険悪な激論を鎮めた映画のシーンでは臼淵大尉が「死ニ方用意」と黒板に書いて-------- −進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイフコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダハツテ、本当ノ進歩ヲ忘レテヰタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ハレルカ 今目覚メズシテイツ救ハレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ヂヤナイカ− と静かに語った。 これは戦艦大和沈没を生き抜ぬいた吉田少尉、そして戦後日本銀行に就職し作家活動を行った吉田満の著書「戦艦大和ノ最期」)に書かれている文章だ。「水上特攻」に対する絶望、怒りを受け止めて戦後日本の「進歩」(発展)に期待して「特攻で死ぬ意義」を彼は静かに受け入れたのである。 著者主計科短期現役の吉田少尉は、大和乗艦初日欠礼した少年兵を諭した。その直後、それを見ていた海兵出身臼淵大尉から、鉄拳を受ける。軍人の真価は、戦場でしか分からないことを、臼淵大尉から教えられたというエピソードである。佐藤監督は、臼淵大尉のセリフとエンディングロールで、戦艦大和の甲板に立つ彼の影のシーンにこの映画の思いをこめたのに違いない。 佐藤監督は対談で「初号試写のとき岡田茂さん(東映相談役)が、「これは立派な反戦映画じゃないか」といってくれましてね。「『きけ わだつみの声』以来、こんなに感動した映画はない」って」さらに「『映画っていうのはこういうものだよなあ。まだまだ東映にはこうゆう映画を作る実力があるんだよなあ』と、力強くおっしゃって」と、大正13年生まれ広島出身の元東映社長・会長の識見を紹介している。 映画のシーンでは、戦艦大和の西哲也特別年少兵*(内野謙太)が漁村の郵便局から故郷の母親に送金するシーンがある。そして、親しかった地元の神尾克己特別年少兵*(松山ケンイチ)が、大和沈没から奇跡的に生還し、亡くなった西少年兵の故郷を訪ねる。黙々と段々田圃の小さな一枚でまだ若い稲の手入れをする母親に会う。その日、母親は息子の死を受け入れなかったが、翌日近くに小屋で寝起きしたその年少兵が黙々と田圃の草取りをしているのを観て、声を掛け、おにぎりとお茶を勧め、息子の送金でこの田圃を買ったことを話して、泣いて抱き合うシーン、ここで観客の多くは涙をこらえられなかったはずだ。 *特別年少兵:昭和16年7月、海軍特別年少兵制度を創設、「官機密第5921 号」により、 従来16歳以上とされていた志願兵年齢を特例として、15歳以上16歳未満と定めた。 教育期間を1年6ヶ月以内と定める。(名称:「練習兵」) 出典:http://www.geocities.jp/bane2161/kaiguntokunenhei.html 子ども達を戦場に引っ張り出したのである。戦争をいつまで続け「何時如何に終結させるか」が軍人の責任である。最後「特攻」に走った陸海軍エリートたちの責任を忘れてはならない。 このシーンを観ながら、この一月に調べていた昭和45年(1970)から日本戦没学生記念会(わだつみ会)事務局長を務めた渡辺清と重なった。渡辺は大正14年(1925)静岡県上野村(富士山麓の貧しい農家に生まれ、1941年高等小学校卒業後海軍に志願、ということは特別年少兵である。1942年、戦艦武蔵に乗り組む。16歳から19歳の間の戦争体験を記録した『砕かれた神』を出版。マリアナ,レイテ沖海戦に参加、昭和19年10月、乗艦の戦艦武蔵が沈没したが、奇跡的に生還した。『海の城』『戦艦武蔵の最期』『私の天皇観』などを発表した。 最後に死の床で書かれたという『私の天皇観』の「あとがき」で、 『戦後三十六年を経たが(1981年)、この国には本当に戦後といって誇れるだけの 戦後はなかったように私は思う。戦争も結局われわれ国民自身の手で収拾する ことが出来ず、天皇をはじめ戦争を仕組んだ側が、最後、苦しまぎれにあの手 この手で収拾する様をただ手をこまねいて見ていたに過ぎない。 ……それが結局戦争責任の所在を曖昧にし、戦争から戦後に持ち越されたさま ざまな問題をほとんど手つかずのままなしくずしにしてしまった。』 と想いを絞り出している。佐藤監督は渡辺と同じ想いを戦後60年のこの映画で示したのではなかったか。 戦艦武蔵で生き残った内田守二等兵曹機銃射手(中村獅童)の遺骨を抱いた養女内田真貴子(鈴木京香)を戦艦大和沈没の現場海上へ案内する老漁師(仲代達也)(彼も戦艦大和の生き残りという設定のフィクションの人物)のセリフ「60年前、……確かに命を賭けて戦った。……だが、家族も仲間も誰一人守れなかった。いや、何一つ守れなかった」に集約されていると思う、と対談で森達也はちらりと映画の種明かしをしている。 佐藤監督は対談で「内田さんは実在の人物で、戦後「いかに生きるか」ということを探し続けて、それを生きた人です。実際には自殺を三度ぐらいこころみたそうですけど。」「戦争孤児を11人も育てた。すごい人です。鈴木京香さんが演じたお嬢さんひとりしか残らなかったのですけれど。辺見さんは、彼に会ってその話を聞いてはじめて「(本に)まとめられると思った」と言ってました。」と語っている。さらに、映画製作のスタッフの熱意に引っ張られたこと、大和のセットもなかなか東映本社の決済がおりず、現場が「もういいよ、つくっちゃえ」と見切り発車したこと、最後は雨の中、広島県の造船関係の人たち(戦艦大和をつくった人々の後裔意識を持つ人々だろう)が徹夜で色を塗ってくれたエピソードなどを紹介し、戦艦大和の持っている摩訶不思議な力を感じたという。内田さんの戦後「生きること」と格闘した人生と、豊田や草鹿の穏やかそうな人生には大きな違和感がある。 明治時代、日清・日露戦争ではじまる我が国の「富国強兵」で強兵を主導する軍が次第に強く前面に出て、本来国家を主導すべき政治が弱体化し、次第に日本という国家が統制不可能に陥った結果が昭和二十年の敗戦である。しかも、国の指導者も国民も、本気でその反省も総括もすることなく、うやむやのうちに六十年が過ぎた。そして、「靖国」問題、「皇室典範」、そして「防衛省昇格」問題で議論姦しい現在のわが国。 映画では音楽とともに艦首で金色に輝く大きな「菊花紋章」がとても印象に残った。戦艦大和が「天皇の軍隊」であることを示すのが「菊花紋章」である。戊辰戦争の際、幕府軍は「日の丸」を掲げ、明治政府軍は「天皇政府の軍隊」を主張するため「天皇旗=菊花紋章」を掲げて戦ったという。幕府軍の「日の丸」が国旗となり、天皇旗である「菊花紋章」はいまだにパスポートに使用されている。筆者は、それを何ら気にすることなく、昭和41年(1966年)以来現在に至るまで9冊のパスポートで使ってきた。 戦後40年目の1985年7月、この映画製作者の角川春樹が陣頭指揮を執った『海の墓標』委員会の調査で、戦艦大和は、九州沖の東シナ海水深350mの深海底に没しているのが確認された。確認の決め手となったのは、1.5mのチーク材、金箔の残る艦首の菊花紋章であった、と発見者の角川春樹が「まえがき」に書いている(戦艦大和発見―ハルキ文庫)。そして一部遺品などが引き揚げられた。戦艦大和とともにいまだ多くの人々が眠っている。 [6] 変化する世の中、しかし、何も変わっていない 昨年来、耐震強度偽装問題、ライブドア問題、米国産牛肉輸入問題、橋梁談合に続く防衛施設庁官製談合問題、福知山線転覆事故に続く羽越線脱線転覆事故、そして皇室典範問題と、次から次へと新たな問題が加わり、世の中慌しさが加速している。相変わらず内向きで蛸壺的、硬直的な我が国指導者層が、世の中が激変するなかで、目先の利益に翻弄されて右往左往している。戦後六十年を過ぎて、我が国の制度や仕組みの劣化・衰弱化がますます加速化して、国家衰亡の危機にある。 小泉首相圧勝の選挙結果は、筆者に「日比谷焼き討ち事件(1905年)」を思い出させた。日露戦争勝利の結末で、無賠償の講和に反対する民衆が暴徒化、交番や教会や電車を次々に襲った事件。民衆の無知で短慮な「熱狂」の始まりである。我が国指導者層による情報秘匿と、日露戦備の重税に喘いだ民衆の怒りが爆発、冷静に考えることを放棄して熱しやすい国民性の構図は、真珠湾攻撃成功に興奮した軍部と国民、最近に至る中央省庁をはじめとする行政側の情報非開示・情報破棄、秘密保護法への過敏さ、小泉首相のキャッチフレーズや「刺客候補」と郵政反対議員の排除などなど、日比谷焼き討ち事件から100年後の選挙で自民党圧勝というより小泉圧勝を盛り上げた国民の「興奮(熱狂)」の構図にまで続いているのではないだろうか。 戦前、国民の戦意を煽り昂揚させた我が国のジャーナリズム、戦後は一転して平和主義・人道主義そして「社会公器」と自惚れているが、最近、事実の確認を怠り、権力や大広告主に阿る姿勢が目立ち、毅然と立ち向かわない軟弱な姿勢が目立つ。 変化する世の中、しかし、戦後六十を経ても何も変わっていない我が国の実態をしっかり認識し、思索を深めたい。
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