文部科学省の歴史教科書検定をめぐり、朝日新聞と産経新聞が読者そっちのけで見苦しい泥仕合を展開している。
一件もっともらしい論戦のように見えるが、よく見ると何のことはない、未だイデオロギー対イデオロギーの価値判断が先行する、公衆の面前でのどうでもよい大ケンカとなっている。
事実認識を棚に上げ、価値判断だけが先行、優先しているのである。これではディベートなど出来ようもない。
朝日、産経ともこれが果たして新聞メディアといえるのであろうか?
この際、どこまでが両者の共通認識であり合意ができ、どこから先がどう両者の認識が違うのかを公衆の面前で議論すべきである。双方、自分にとって都合のよいところを主張しているのでは、まるで子供のケンカである。
顕示された事実が真実であるか否かと言った歴史的史実の検証などの本質的議論はなく、お互い組織対組織の泥仕合の様相を帯びている。お互いプライドだけが異常に高いメディアだけに、始末が悪い。収集がつかないのだ。
朝日、産経ともに反省のないところに、メディアの行く先はないと思える。こんな新聞メディアが支配する日本に諸外国は到底、国連安保常任理事国など任せられないと思うだろう。
こんなことをしているからジャーナリズム、メディアの素人、ホリエモンにバカにされるのだ。
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日刊ゲンダイ Dailymail Digest 2005年 4月13日号
中国全土で広がる反日デモの原因のひとつは歴史認識の違いだ。そんな中、今月5日、新しい教科書の検定が終わり、これを巡って朝日と産経新聞が紙面で大ゲンカを展開しているのをご存じか。
最初に「こんな教科書でいいのか」(6日付社説)と噛み付いたのは朝日新聞。「新しい歴史教科書をつくる会」が主導した歴史と公民の教科書(扶桑社)を取り上げ、「光と影のある近現代史を日本に都合よく見ようとする歴史観が貫かれている」とし、「教室で使うにはふさわしくない」と書いた。
これに対し、産経は「驚かされた朝日新聞社説」(7日社説)と反論。「特定の教科書排除は言論封殺」「一社を狙い撃ちにするような社説は偏狭」とやり返した。 朝日は翌日(8日社説)の紙面で「こちらこそ驚いた」と再反論。産経も負けじと翌々日(9日社説)の紙面で「本質をそらしてはいけない」と再々反論。さらに朝日が「『封殺』の意味をご存じか」(10日社説)と噛み付くと、産経は「朝日こそ日本の家庭で読むにふさわしくない」(つくる会・八木秀次会長)なんて過激発言を紹介し、常軌を逸した展開になっている。
左の朝日、右の産経の“ドンパチ”は今に始まったことじゃないが、今度のバトルは「見出し」だけ並べてみても分かるように売り言葉に買い言葉。驚いているのは読者の方だ。
◆ どっちもどっちの意地の張り合いにはアキれる ◆
クールな識者は両者のバトルをどう見ているか。
「朝日新聞のように戦争責任を広くとらえようとする歴史観は自虐史観などといわれますが、だったら産経の主張は自慢史観。どっちもよくないが、より始末が悪いのは自慢史観でしょうね。今、求められるのは冷静に過去を振り返る自省史観ともいうべきもので、新聞社同士がケンカしててもしようがありませんよ」(評論家・佐高信氏) 近現代史に詳しい作家の三好徹氏の意見はこうだ。
「チャーチルは第2次世界大戦を振り返った著書の中で『歴史を学ぶということは未来を学ぶということ』と書いていますが、朝日、産経のバトルを見ていると、それがすっぽり抜け落ちている。プライドとメンツだけで張り合っているように見える。歴史から何を学ぶかという視点に立てば、揚げ足取りのような論戦にはならないはずです」
▽ 他に論じるべきテーマは山ほどある ▽
朝日の主張を煎じ詰めると「つくる会の教科書はバランスを欠いている」というもので、産経側は「教科書は一冊ではない。いろいろな教科書があってもいいだろう」という主張になる。これだけなら一回ずつの社説で終わるのに、ノーガードの罵り合いになったのは朝日が「産経が『つくる会』の教科書を後押しするのは発行元の扶桑社が同じフジサンケイグループに属しているからだ」とし、「自らの教科書を自社の紙面で宣伝してきた」ことや「扶桑社の営業担当が申請本を各地の教員らに渡していたこと」にも言及。
産経が「(新聞社は)教科書の編集には一切関わっていない」といきり立つと、朝日は「産経新聞や同社の雑誌『正論』が朝日を集中的に批判している」とか言い出し、話がどんどん脱線していったからだ。
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