日韓<近代>歴史探訪 〜西大門刑務所歴史館〜 青山貞一 2006年3月29日、4月2日拡充 |
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※本文中の写真は一部を除き筆者自身が撮影したものです。 昨年(2005年)2月、政策学校「一新塾」主催の韓国公共政策・政経使節団の団長としてソウルに出かけた。訪問の主目的は、韓国の国会,地方議会の政治家と会い、今後の公共政策分野で草の根レベルにおける日韓政治経済交流を促進しようと言うものだった。日本からの団員は約20名。 韓国国会(ソウル特別市)での歓迎・交流会 <参考> 青山貞一:韓国公共政策視察 落選運動で世界的に有名な<参与連帯>の事務所にて <参考> 青山貞一:落選運動を主導する韓国の政治NPO「参与連帯」 1 青山貞一:落選運動を主導する韓国の政治NPO「参与連帯」 2 国会で韓国議会議員やハンナラ党本部で幹事長ら幹部、職員と議論し、さらに参与連帯などのNPOを議論した後、私たちは日本が戦前、戦中に独立運動を行う韓国人を逮捕、投獄、拷問、処刑したとされる「西大門刑務所歴史館」を視察した。 当日は好天だったが、おりしも極寒の二月、外気温はマイナス五度以下。相当な防寒着のいでたちだったが何しろ寒い。 使節団を乗せた大型バスを降りると直前に歴史館の入り口があった。 西大門刑務所歴史館入り口 (展示写真を撮影) 以下は西大門刑務所歴史館の敷地内からみた建造物の外観である。 西大門刑務所外観 西大門刑務所外観 刑務所歴史館は、以下の案内図のようにかなり広い。先の入り口は、@に対応する。入ってすぐ左に以下の総合案内掲示板がある。さらにまっすぐ進むと歴史展示館があり、写真展示やビデオプロジェクターによる動画と音声による説明があった。 案内板出典:http://nagoyajiren.at.infoseek.co.jp/prison.html 日本統治下の実際の西大門刑務所は、上記案内板に示される敷地、施設よりもはるかに規模は大きいそうだ。 以下は日本統治下の西大門刑務所の全容。獄舎として残っているのは、C、D、Eであり、全体のごく一部。 歴史館では、地下を含めすべて展示物の閲覧が可能である。
刑務所跡には2002年に小泉首相や日本の日韓議員団数十名が訪問したとハンナラ党本部で伺ったが、それにしても@、A....と進むにつれ、なぜかとめどもなく涙がこぼれ落ちてきた。小泉首相や議員団は、これらの展示物をどういう気持ちで見たのであろうか? 当日は、ソウル大学の学生らボランティアが私たちの通訳をかね何人か参加してくれた。そのうちのひとりの女子学生が私のところに寄ってきて、日本語でいろいろ話し掛けてきた。いわく「あなたのようにここで涙を流す日本人は少ない」と。 それがきっかけとなり、その女子学生が個人的な通訳となってくれ、歴史館のハングル文字表記の展示物を中心に日本語で通訳し説明をしてくれた。 獄舎はもともとあった多くの棟の一部だけを保存していると言うが、その獄舎には独房タイプ、数畳の小さな部屋に多くの人々が収容されたタイプなど、さまざまなものがある。 いずれも日本による韓国の統治、韓国併合、創氏改名などに反抗し独立運動を行ったひとびとが投獄されたという。この種の刑務所は、ソウルだけでなく、朝鮮半島の各地につくられた。歴史館には全国各地にあった刑務所の位置も掲示されていた。 そまつでろくに暖房もなく狭い獄舎に押し込められた多くの韓国人が、冬のソウルの極寒はそれだけで耐えられない拷問と言える。 西大門刑務所牢獄跡 西大門刑務所牢獄跡
西大門刑務所歴史館でもっとも、私たちの目を引き付けたのは、いうまでもなく日本人が韓国、朝鮮人に行ったとされる各種の拷問の現場を再現したという模型の展示である。以下にそのうちのいくつかを例示するが、拷問現場の再現模型は直視に耐えないものが多い。 拷問再現模型 (展示模型を撮影) 棺型拘禁具による拷問模型 (展示物を撮影) 実物大の棺型拘禁具模型は、独立記念館にもあり、 見学者が実体験できるようになっている。 拷問再現模型 (展示模型を撮影) 義兵の見せしめ公開処刑 (展示写真を撮影) 私にはこれら歴史館にある各種の建造物やそこで行われた韓国のひとびとに行われたさまざまな拷問、残虐行為の「真贋」のほどは分からない。 しかし、今回(2006年3月)の旅で訪れた韓国独立記念館にある多くの展示物を歴史を追って見ると、日本が過去、朝鮮半島でしてきたことが、一部の人々が言うような韓国側のでっち上げであるとか、捏造であると言った批判では、かたずけられないものを強く感じた。 以下の写真は案内板Fハンセン氏病などの患者の隔離病棟と、その病棟で死んだ患者を運んだ地下通路の入り口である。 ハンセン氏隔離病棟と説明板 隔離病で死んだ者を運んだ地下通路入り口 さらに以下は、案内板Gの刑務所内にある死刑執行室(首吊り方式)とその執行を監視する監視場である。 監獄内死刑執行室跡 (展示物を撮影) 監獄内死刑執行監視室跡 (展示物を撮影) さらに下の写真は死刑執行後、地下から死体を引き出す出口である。 執行後死体引出し口 上の引出し口から引っ張り出された死体は、以下の地下通路でトンネルを通して運び出される。そして近くの山中に捨てられたという。地下通路は日本によって終戦直前埋められたが、戦後発掘されたと。 地下トンネル入り口 監獄敷地内慰霊碑 上の写真は小泉首相や日韓議員団もも参拝したと言う犠牲者慰霊碑である。彼らはどういう気持ちで、この西大門刑務所の施設を見回ったのであろうか? ところでこの西大門刑務所は、日本が韓国を占領統治していた1910年から1945年の時期に、韓国で独立運動にかかわったひとびとなどを逮捕、拘留するために使われものとされている。 刑務所は日本が武力で韓国を占領した1907年に第一次の刑務所が作られ、1908年10月21日に竣工、当初は京城(現、ソウル)監獄と日本側によってなづけられたと言う。 この刑務所は、その後、ソウル刑務所'、ソウル拘置所など、名称が変わり、1987年11月15日になって京畿道の儀旺市に移設。1988年にもともと監獄があった場所に、西大門独立公園を造成するなかで一部の建造物(第7棟の各監獄等)を西大門刑務所歴史館用に保存する事業に着手し、1992年8月15日(独立記念館のオープニングも8月15日)、第47回の光復節記念行事の開催にあたり歴史館を開設している。 韓国にある刑務所だが、当時日本側が設計、施工、使用しただけあり、構造や配置はどこか網走刑務所など日本の刑務所に似ている。 第7棟の第10、11、12号の各獄舎及び死刑場は、1988年2月20日に韓国の史跡、第324号に指定され、さらに第9号、第13号獄舎、本館、ハンセン病者収容棟、秘密棟、刑務所塀及び見張り台なども保存された。 この西大門刑務所は、韓国のひとびとにとって、いわば日本統治の近現代史における歴史的な痛みと悲しみを想起させる、敢えて言えば石に刻む場としてなっているのだと思われた。日本の為政者の多くがその逆、すなわち水に流すことに努力(?)してきたのと対照的である。 ......... ソウル大学の女子学生が、別れ際に、「もし、先生が日本と韓国の近代,現代史に関心があるなら、ぜひ一度、韓国独立記念館に行ったらどうか」とすすめてくれた。「もし、行くなら通訳をしたい」と申し出てもくれた。 実は私自身、朝鮮半島と日本との歴史にとりわけ詳しいわけでもない。 ただ、19世紀末から20世紀初頭に日本が征韓論の名のもとに兵を送り韓国統監府を置き、さらにはいわゆる日帝が朝鮮半島を統治する日本統治時代における日韓併合、創氏改名、日本への強制連行そして従軍慰安婦 など一連の事象について、日本人の視座ではなく、韓国人の視座から一度、史実を見てみたいと言う思いがあった。 もちろん、韓国人でない私が韓国人の視座と言っても、現実には生活も教育もすべて日本で受けている。そんな私がそのような視座を持つこと自体ありえない。 だが、最低限、韓国のひとびと、とりわけ戦争を経験していない人の多くが見ると言う場所に足を運び,時間をかけて史実に接することを体験したいと常々思っている。 西大門刑務所歴史博物館は、その第一歩であったわけだ。 そして今回(2006年3月)、韓国独立記念館まで足を伸ばすこととなった。 ソウルを訪問される方は、ぜひ、この歴史館を訪問して欲しい。以下に行き方を示す。入館料は大人が日本円で200円程度。
つづく |