暮れからお正月に掛けて日本列島を襲った大寒波と豪雪、ここ数年異常気象による災害のニュースが後を絶たない。
少子高齢化が進む中、一人暮らしのお年寄りが吹雪の中雪下ろしをされる姿をテレビで見ると、東京で寒い寒いと大騒ぎするのも気が引けるほどである。高齢化社会にとって夏も冬も異常気象はとても厳しいものとなるのは必然。改めて地球規模の環境の維持がヒトにとって如何に大切なものかを思い知らされるこの冬である。
さて、我が家の正月の年中行事として初釜は欠かせないものである。茶道では毎年、1月中旬に稽古始めとして釜をかけ、社中に懐石とお茶をさしあげ新年を寿ぐ茶事が行われる。稽古仲間が一同に会して賑やかに新年を祝うとともに、心を新たにしてまた一年茶道の稽古に励むことを確認し合うという意味合いもある。
私が茶道を始めたのは9歳のときなので、もうかれこれ半世紀になろうとしていることもあり、茶道はほとんど私の生活の一部となっている。慌ただしく緊張の続く「動」の仕事と、ゆったりした時の流れの中で季節季節の変化を味わい四百年余り受け継がれた歴史と伝統に触れる「靜」の時間が私の心身のバランスを維持していると言っても過言ではない。
環境に係わる仕事をするようになってから四半世紀、益々茶道は、環境を基本とした共生・循環を重視した伝統文化であると感じるようになった。
初釜(右が筆者)
この機会につれずれに考えていることをすこしご紹介したい。
茶道の神髄は、招いた客にいかにして美味しいお茶を一服召し上がって頂くか、という亭主側の「もてなしの心」「心遣い」にある。そこでまず重要なことが「空間」である。同じお茶でもどんな場所で頂くかによってその味わいは大きく異なるからである。
ミクロには、門からからお茶を差し上げる茶室に至るまで、ほどよく水を打った露地、庭、待合いや腰掛けに用意された座布団、たばこ盆、手あぶり火鉢など茶室に入るまでの空間での、亭主の細々とした心遣い、もてなしの心を感じるところから始まる。
もう少し視野を広げれば、家々の佇まいや街並みなども本来、通る人、見る人の気持ちを考えたものであることがもてなしの心に通じるものである。現代のように自己主張ばかりの建物や街並みにはもてなしの心や心遣いはみじんも感じられない。
「水」はおいしい茶を点てる上でかかせないもののひとつである。うちでは井戸水を使用している。ペットボトルの水の売り上げが伸び、浄水器が売れる時代になかなかおいしいお茶を点てるのは難しい。
「花」、茶室の床の間には花を飾るが、決して大輪のバラや蘭ではない。名もない季節の野の花一輪、新芽の芽吹き、あでやかな照葉の一枝でもあればよい。自然を亭主のもてなしの心で切り取った飾りができればよいのである。
青竹の花入れに紅白の椿の蕾としだれ柳の芽吹きはそれだけで十分にあでやかな初釜の床にふさわしい。炉に香を焚くので、花に香は不要である。茶室に入って初めて花と香りを客に味わってもらうため、茶室の庭には花の咲く木や、香りのある花をつける木もあまり使わないのが良しとされる。小さな草花や緑、季節ごとの植物を大切にするのが茶道である。
はごいた干菓子
「光と風」、茶室の天井につけられた突き上げ窓、障子、襖、雨戸などは茶室に差し込む光を実にほどよく調節できるように工夫されている。また、簾や葦戸などで光を遮りながら風を通す工夫も行き届いている。そうした工夫が現代の密集した都会では全くと言ってよいほど機能しない。
「衣」、茶道に着物は欠かせない。若い頃に作った着物を染め返し、縫い返しいつまでも着る。また、母が残した着物や叔母たちのお下がりももそのまま着られる年頃になってきた。
いよいよ派手になれば、若手の社中に着てもらう。まさにリユース、リサイクルそのものである。よほど体型が変わらない限り、着物はいつまでも着られる。流行に左右されず、ものを大切にすることが基本である。
床かざり
その他、茶道には日本文化のほとんどのものが道具として使われており、受け継がれているので、地方地方の特色ある伝統工芸や美術を学び楽しむこともできる。
建築・庭、書画、袱紗などの織物・染め物、竹細工、陶磁器、漆器、釜などの鉄製品、鋳物、唐金・銀細工などの金属工芸、そして料理。飾って拝見するのではなく、直接手に触れ、道具として使いながらそれらを身につけるのが茶道の醍醐味でもある。そして、すべてが日本のすばらしい環境が生み出す芸術であり文化である。総合芸術である茶道の意味を日本の環境との関係から見直すことで、新たな発見も多いはずである。
なによりもそれを伝え嗜むひとが環境を大切にする心を失わないようにと改めて思うこのごろである。明日は日曜日の初釜に向けて懐石の準備である。 |