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連載 佐藤清文コラム 第二回


石橋湛山と小日本主義

佐藤清文
 
掲載日2005.12月15日

 戦前、全体主義化・軍国主義化していく日本の潮流に対して、『東洋経済新報』の石橋湛山は。それを「大日本主義の幻想」と厳しく批判し、「小日本主義」を唱え、植民地や軍備の放棄を訴えています。残念ながら、「大日本帝国」の政府も軍部も、メディアも、世論も彼の提言に耳を傾けることなく、戦争を続行・拡大し、破滅へと向かっていくのです。

 湛山にとって、「大日本主義」は政治的・軍事的ヘゲモニーを偏重し、領土・資源などハード・パワーが国力だという発想です。一方、彼の「小日本主義」は経済的・文化的ヘゲモニーがより重要であり、技術や人材といったソフト・パワーをいかに活用できるかがが国の実力であるという思想です。湛山にとって、「大」はハード、「小」はソフトを意味します。つまり、「小日本主義」はソフト・パワーとしての日本ということなのです。

 湛山の「小日本主義」は素朴なヒューマニズムでも、信仰告白でもありません。経済から国内外の情勢を見た提言なのです。グローバルな観点から日本ならびに世界経済を捉え、経済活動を産業連関に基づく波及効果から認識すると、保護主義的なブロック経済を志向し、資源を確保するために、膨大な軍事費を使い、領土を拡大するようなハード・パワーに依拠するよりも、自由貿易とソフト・パワーに立脚するほうがはるかに有意義だと湛山は主張するのです。

 経済が国際問題化したのは第二次世界大戦後のことです。戦前、世界各国は金本位制のネットワークによって結ばれていましたから、経済が破綻しそうになったら、その国がそこから離脱すれば済みました。そのため、経済が国内問題として捉えられ、国際的な連携に乏しかったのです。しかし、それがファシズムを招いたという反省から、戦後、経済は国際社会において最重要課題となり、世界規模の連携が不可欠となっています。

 しかも、東西冷戦構造解体以後、グローバリゼーションの進展と共に、酷寒間の相互依存は経済のみならず、広範囲に及んでいます。イギリス学派のへドリー・ブルは、一九七七年、古典的名著『国際社会論─アナーキカル・ソサイエティ』を発表し、国際秩序の不安定さの理由として世界政府の不在を挙げる学説に対し、確かに、国際社会には国家のような中央政府が存在しない「アナーキカル・ソサイエティ」であるけれども、強まる相互依存性によって秩序が形成されると主張しています。まさに今日の世界は「アナーキカル・ソサイエティ」であり、いかなる問題もドメスティックではいられません。

 驚異的にも、湛山が本格的に小日本主義を論じた最初期の批評『大日本主義の幻想』を発表したのは大正一〇年(一九二一年)です。一九二〇年代はローリング・トゥエンティーズにあたり、世界的な規模で同時代的に大衆社会が出現しています。花開いた大衆文化の勢いは経済や文化の力が政治以上に社会を動かすという潜在性を顕在化し、それ以降の二〇世紀を予感させてます(実際、湛山は、『百年戦争の予想』の中で、二〇世紀は一九〇一年に始まるのではなく、この時期から続く「百年戦争」の時代だと書いています)。けれども、この時期に、世界的に見ても、嵐山のような理論を語っていたのはイタリアの思想家アントニオ・グラムシなど極めて少数です。ソフト・パワー論の提唱者ジョゼフ・ナイはグラムシの文化的ヘゲモニー論の影響を受けています。湛山は、この意味で、二〇世紀の日本を代表する思想家の一人です。

 湛山は官僚主義の糾弾者として知られていますが、それは大日本主義が官僚主義に基づいているためです。日本の官僚機構が本格的に指導するのは一九二〇年代に入ってからです。それ以前、政府の施行する政策は単発的で、場当たり的でしかありません。けれども、第一次世界大戦後、急速に都市化=産業化が進み、生活用水や農業用水に加えて、産業用水、電力用水など計画的・総合的な水の利用が不可欠になったのです。そこで、第一次世界大戦を通じて、戦争遂行のためにヨーロッパ諸国で形成された国家総動員体制を日本の官僚機構も導入します。大日本主義はこの官僚機構によって実行されていきます。そのため、彼の大日本主義批判はつねに反官僚主義を帯びているのです。

 全体主義は、湛山によれば、官僚主義の一種です。官僚機構が機能しなければ、民衆を画一的に統率などできないからです。彼は、後の作品の中で、ファシズムも、ナチズムも、スターリニズムも、官僚主義だと切り捨てています。全体主義のハード・パワー偏重は官僚主義の反映です。

 湛山は、『大日本主義の幻想』以降、「小日本主義」に基づいて、理論を展開し、さらに発展させていきます。外交にしても、産業振興にしても、地方自治にしても、教育にしても、この原理から具体的な提言を行っています。

 地方自治の問題において、湛山はラディカルな地方分権論者です。府県を廃止して、市町村だけにした上で、地方に権限を委譲すべきだと主張します。規模が小さいほうが広い公共性に立てるし、産業連関が見え、また需要に応じた供給を実行できるので、経済的非効率が減り、さらに、中央への依存心がなくなって、地方に自主開拓の精神が生まれるというのです。彼の理想は全国一律ではなく、独自のソフト・パワー発信としての自治体です。国の役割は地方自治体の補完なのです。

 教育も、立身出世や滅私奉公、国体観念の涵養ではなく、ソフト・パワーを創出できる人材の育成が主眼となります。それには「真の個人主義」、すなわち「自己開拓精神の培養」が教育の目標とならなければなりません。人的資本が日本の最大の財産ですから、小日本主義は、当然、素朴な自由放任とは異なるのです。

 こうした提言はことごとく無視されてきましたが、湛山はそれにめげるような人物ではありません。それどころか、彼は、終戦直後の一九四五年八月二五日に論説『更正日本の進路―前途は実に洋々たり」において、科学立国で再建を目指せば日本の前途は洋々だと訴えています。実際、戦後日本は、対外的に技術立国として認知されていきます。

 その後、政界に転身し、大蔵大臣や通産大臣を経た後、一九五六年、退陣した鳩山一郎首相の後任として、湛山は内閣総理大臣に選出されます。プラトンならば、彼を「哲人宰相(Philosopher-Prime Minister)」と呼んだことでしょう。民衆からの期待も高く、ようやく湛山の時代がきたかと思われたのですが、遊説中に肺炎にかかり。それを理由に退陣してしまいます。在職期間はわずか六五日です。

 湛山に代わって岸信介が首相の座につき、多くの夢が頓挫しました。中華人民共和国との国交正常化もその一つです。岸内閣以降、湛山の政治理念とは逆に、永田町と霞ヶ関は、全般的に、新たな大日本主義を推進していきます。科学産業を重視したとしても、それを規模の経済によって認めるとすれば、それは小日本主義ではありません。事実、日本企業のほとんどが中小企業でありながら、それを系列というヒエラルキーに押しこめてきたのです。小日本主義はへドリー・ブルの言う意味でアナーキーであり、ヒエラルキーとは無縁です。

 けれども、もはやハード・パワーの時代ではありません。先に触れたグローバリゼーションの所以だけでなく、立命館大学の佐々木雅幸教授が一九九〇年代の東京都産業連関表を分析した結果、劇場の文化事業、すなわちソフト・パワーと建設事業、すなわちハード・パワーの経済効果に驚くべき傾向があったと報告しています。それぞれの事業の東京都地域の単位を1としますと、生産誘発効果の点では、ソフトが1.88単位なのに対し、ハードでは2.27単位なのですが、東京都内への誘発効果に限定すると、ソフトが1.51単位なのに、ハードは1.39単位となり、逆転してしまうのです。この理由は産業構造の高次化です。東京都はサービス業など第三次産業が主流ですから、波及効果の点では、建設事業はそれほど経済を活性化しないのです。

 石原慎太郎東京都知事は大日本主義の政治家として有名ですが、小日本主義的なソフト・パワーが東京都を活性化させるのです。これは東京都だけではないでしょう。一九六〇年、第三次産業従事者の割合は全産業の中で最大になり、八〇年代前半には、第一次産業従事者は
10%をきっています。ちなみに、イギリスは一八三〇年代にこの比率に達しています。建設事業への新規投資よりも芸術文化への投資のほうが雇用を拡大できる可能性が高いというわけです。都市の文化政策が、産業構造の変化に伴い、文化の創造・発信を促し、政治的・経済的言説の転換につながります。現実的に、日本はソフト・パワーをいかに活用していくかが政治的課題になっているのです。

 今まさに石橋湛山の小日本主義の理念が現実化されるときが到来していると言っていいでしょう。