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連載 佐藤清文コラム 第四回


士道と武士道

佐藤清文
 
掲載日2006.1月8日

 映画『ラスト・サムライ』の日本国内でのヒットもあり、ここ二、三年、新渡戸稲造の『武士道』がもてはやされ、雑誌や新聞、単行本において武士道が評価され、その復権さえ主張されています。『朝日新聞』200611日付の社説も、「武士道をどう生かす」です。武士道に言及して、小泉純一郎首相の政治姿勢を次のように戒めています。

 武士道で語られる「仁」とは、もともと孔子の教えだ。惻隠の情とは孟子の言葉である。だからこそ、子供のけんかをやめて、大国らしい仁や品格を競い合うぐらいの関係に持ち込むことは、アジア戦略を描くときに欠かせない視点である。秋に新たな首相が選ばれる今年こそ、大きな転換の年としたい。

 ことは外交にとどまらない。

 国民の二極分化が進む日本では、まだまだつらい改革が待っている。競争や自助努力が求められる厳しい時代だからこそ、一方で必要なのは弱者や敗者、立場の違う相手を思いやる精神ではないか。隣国との付き合い方は、日本社会の将来を考えることとも重なり合う。

 失われた武士道を思い起こし、新たな日本の旅立ちのため、学び直すべきだというわけです。

 しかし、武士道は江戸時代の正統的な道徳イデオロギーではありません。その位置にあったのは士道です。両者を比較するならば、失われたのは士道の方であり、武士道は日本的悪習として残っているのです。

 かつては「兵(つはもの)の道」や「武者の習い」、「弓矢とる身の習い」という兵士として守るべき徳が説かれていましたが、戦国期になると、武士は戦闘員であるだけでなく、領国や領地を治める為政者としての性格も持つようになっていきます。

 江戸時代に入ると、そうした二重性により武士道と士道が分離し、両者は対立しています。前者は昔ながらの伝統を重んじる狭義の徳であり、後者はそれまでの武士の道徳を儒教によって根拠づけられたものです。江戸期の武士道論は肥前国鍋島藩士である山本常朝の談話をまとめた『葉隠』、士道論は山鹿素行の『山鹿語類』士道篇が代表しています。特に、死に関する姿勢において、両者は対極にあるのです。

 『葉隠』は、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」と表現されている通り、死の美学を説いています。人間の一生は短いので、つねに「死身」の奉公を心がけ、生への執着を否定すべきであるけれども、その代わり、最善の忠節は出世して家老となり、藩主の傍で奉公することです。いさぎよい死は真の奉公であり、忠義にほかならないのです。主従関係は情に基づいているため、殉死も衆道(男色)も肯定されます。「戦後二十年の間に、日本の世相はあたかも『葉隠』が予見したかのような形に移り変わっていった。日本にもはや武士はなく、戦争もなく、経済は復興し、太平ムードはみなぎり、青年たちは退屈していた」や「われわれの生死の観点を、戦後二十年の太平のあとで、もう一度考えなおしてみる反省の機会を、『葉隠』は与えてくれるように思われるのである」(三島由紀夫『葉隠入門』)

 一方、士道は、武士道と比較にならないほど、理論的な色彩が強いものです。山鹿素行は林羅山の門下生です。朱子学者の林羅山は徳川家康以下四代に渡って仕えた幕府のブレーンであり、大坂冬の陣のきっかけになった方広寺大仏殿鐘銘事件を引き起こし、幕府法令や外交文書の起草、典礼などにも務めた幕府の最大の御用学者の一人です。明治以前の中心的な学問は中国古典を研究であり、朱子学は学問の中の学問にほかなりません。

 素行の士道論では、死はつねに心に置いておくべきですが、それは人間がいつ死ぬかわからないから、普段から一瞬一瞬を懸命に人倫を生きることの重要性が説かれています。武士が為政者でいられるのはその高い道徳性にあります。武士は人倫の指導者的立場にある以上、僅かなことにも礼儀を正し、他の身分の模範とならなければならないのです。武士の身分は道徳的優越性に基づいており、道徳的自覚のない侍はたんなる遊民にすぎません。武士が従うべきなのは道徳規範であって、主従関係において、諌言を聞き入れない主君の下にはとどまるべきではありません。殉死も衆道も結果として否定されるのです。「国鉄も一つぐらい大臣の言うことを聞いてくれたっていいじゃないか」(荒船清十郎)。この点は、主君が諌言を聞きいれないとしても、主君の味方となるのみならず、主君の身代わりになるべきだと主張する武士道論とは決定的に異なっています。酒巻英雄野村證券元社長は1997418日の衆議院大蔵委員会 総会屋利益供与事件証人喚問において「組織の一部がやったことであり、強いて言うなら個人ぐるみです」と答弁しましたが、それはまさに武士道に忠実な発言です。武士道の思想の中心は奉公であり、士道は為政者としての正統性を語っています。

 新渡戸が士道でなく、武士道をとりあげたのは、『武士道』の中で日清戦争の勝利を武士道精神の賜物としているように、中国の影響を払拭したいからでしょう。新渡戸は日本の中国からの影響関係を清算しようとしているのです。

 けれども、武士道ではなく、士道の復権を唱えるとしたら、それはあまりにも短絡的でしょう。と言うのも、士道はあくまでも為政者の道徳にすぎないからです。日本は、朝鮮半島と違い、身分間を貫く統一的な道徳が希薄です。武士以外の被支配層には別の道徳がありました。また、先住民族アイヌはそれと異なった道徳に沿って生活していました。

 実際、素行は儒学者ですが、大陸に対する日本の優越性を語ってもいるのです。素行は士道を展開する際に、朱子学の抽象性を批判したため、一時期、赤穂に流されています。古学に傾倒した素行は、古代儒教の学問を通じて日本人として自覚すべきであり、日本と中国を比較した場合、むしろ、日本こそが古代儒教で理想とされる中朝であるという中朝主義を主張しています。ただ、士道でも日本の中国に対する優越性は導き出されるとしても、あくまで中国文化の圏内にとどまっています。

 思い込みや思いつき、断片的な知識をいくらつみかさねても、本質的な議論になりません。歴史の流れを把握し、体系性を理解することが不可欠です。けれども、1990年代以降の巷の言説はそういった認識を無視して、自己充足に終始しています。プロファイリングやリサーチの不十分さで知られる村上春樹の小説がベストセラーになったのは一つの現われです。「失われた10年」の間、打ち砕かれた自尊心を回復するためだけに、認識を深めることを放棄し、自己憐憫に走ってしまいました。そうした主観性の絶対化の集大成が小泉政権と言っても過言ではありません。

 近代歴史学は支配者に有利な神話や物語などを批判的に検討する態度を持ちつつも、国民国家形成の正当化として誕生しました。結果を正当化するために、原因を見出す姿勢をフリードリヒ・ニーチェは「遠近法的倒錯」と厳しく批判しています。その後、歴史学は時代の変化に対応して多様化していきました。今日、歴史の省察は、現在において自明視されているものを相対化すると同時に、時代や社会を超えたその可能性を顕在させることしょう。それは物の見方を広げることだと言えます。先の『朝日新聞』の社説にもそうした傾向が見られます。既存の歴史観を批判した上で、歴史へのアプローチの多様性を考えること自体が最近の歴史学の課題なのです。

 それには、批判的視点を持ちながら、調べることへの意欲が欠かせません。今、日本の言説に必要なのはこうした能動的な意志なのです。

〈了〉

なお、新渡戸稲造の『武士道』に関する読解は次のページを参照していただければ幸いです。

http://hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/samurai.pdf