連載 佐藤清文コラム 第十一回 官僚制と方法の世紀 佐藤清文 Seibun Satow 2006年5月3日 |
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非不悪寒也。 以為侵官之害甚於寒。 『韓非子』二柄篇七 私たちはすでに官僚制(Bureaucracy)の長所も短所も熟知しています。ビューロクラシーやテクノクラシーに関する一般的考察は多岐に亘っているのです。 専門家は官僚制に関する詳細な定義・分類・分析を提出し、近代官僚制の形成過程や日本を含む各国の官僚制の固有の特徴を描いています。日本の場合ならば、裁量行政や行政の無謬性神話、所属組織への無批判的忠誠心、天下りなどが特有の問題点として挙げられます。 マックス・ウェーバーの『新秩序のドイツの議会と政府』(1918)における「生命ある機械」の肯定的評価から、ロバート・K・マートンが『社会理論と社会構造』(1949)の中でソースタイン・ヴェブレンを援用した「訓練された無能力」という否定的評価まで幅広いものです。 とは言うものの、「官僚制とは何か」に始まり、その歴史を経て、現状と今後の展望に至る官僚主義的な作品も少なくありません。それはシリル・ノースコート・パーキンソンの官僚制をめぐる二つの法則、すなわち(官僚組織の肥大化していく)成長の法則と(無駄な仕事も増えていく)凡俗の法則が適用できるでしょう。 官僚制の議論はG・W・F・ヘーゲルによる官僚制擁護とカール・マルクスによるその批判のヴァリエーションです。その意味で、官僚制論はヘーゲル対マルクスの闘争の言説にほかなりません。 ヘーゲルは、『法の哲学』(1821)において、「官庁組織」を次のように説明しています。 統治権において問題になる主要な点は、職務の分割である。つまり統治権は、普遍的なものから特殊的なものや個別的なものへの移行にとりくむのであって、その職務は種々の部門に従って分割されなければならない。 だがむずかしい点は、これらの部門が上部に向かっても下部に向かってもふたたび一点に集まるようにすることである。というのは、たとえば福祉行政権と司法権とは分岐するが、何かある仕事においては、やはりふたたび合致するものであるからである。 ヘーゲルはたんなる縦割りのハイアラーキーとして官僚制度を考えていませんが、その組織が「一点に集まる」階層に基づいていることを前提にしている。「国家」を最高の「人倫」と捉えるヘーゲルにとって、官僚制は中央集権的にそれを維持・機能させる機関にほかなりません。 ヘーゲルのネットワーク的な「市民社会」から体系的な「国家」への「包摂」において、具体的機能は行政権に属しています。国家行政が官庁の分業組織を不可避的とすることから、「中間身分」である「官吏」による政治、すなわち官僚制をヘーゲルは説くのです。 ヘーゲルの官僚制擁護に対して、産業革命が発想の前提だったマルクスは、初期から、否定的です。ヘーゲルは、マルクスの『ヘーゲル国法論批判』(1843)によると、「官吏の属する中間身分には、国家の意識および最も卓越した教養が存在している。 したがってこの中間身分は、また合法性と知性とについて国家の基柱をなしている」と官僚を美化し、「国家」と「市民社会」とを媒介する重要な役割を官僚制に求めています。 マルクスは、『ヘーゲル国法論批判』において、官僚制を次のように痛烈に批判しています。 官僚制の普遍的精神は、それ自身の内部では位階秩序によって、外へ向っては閉鎖的な職業団体という性格をもつことによって、保護されている秘密であり神秘である。 それゆえ公開的な国家精神も国家心情も、官僚制にとっては、その神秘に対する裏切りのように思われる。 したがって権威がその知識の原理であり、権威の神格化がその心情なのである。しかし、彼ら自身の内部では、精神主義は極端な物質主義、受動的な服従の物質主義、権威信仰の物質主義、固定した形式的行為と固定した原則や直観や伝統のメカニズムの物質主義となっている。 個々の官吏についていえば、国家目的は彼の私的目的、より高い地位への狂奔、立身出世に転化している。 まだ30歳にも満たないジャーナリストのマルクスは官僚制の本質を完璧に理解しています。ヘーゲルの官僚制擁護は抽象的・観念的な規定にすぎません。 官僚制の特徴はトマス・アクィナス流の「位階秩序」と「閉鎖的な職業団体」であり、これこそがその権力の源泉であると共に、弊害の原因です。官僚はその「権威」の源を守るためには、転倒した詭弁を用い、それが不可能とわかると、相手が国会だろうが、納税者だろうが、物量にものを言わせて、徹底的に抵抗します。 官僚制をめぐる幻想は諸々の「物質主義」や「私的目的」を見ないことから生じます。マルクスは、その上で、「社会化された人間」に基づく「民主制」をヘーゲルの君主制に対置するのです。 「ヘーゲルは国家から出発して人間を主体化された国家たらしめるが、民主制は人間から出発して国家を客体化された人間たらしめる。 宗教が人間を創るのではなく、人間が宗教を創るのであったように、体制が国民を創るのではなく、国民が体制を創るのである。 (略)民主制はあらゆる国家体制の本質であり、社会化された人間が一つの特殊な国家体制としてあるあり方であり、それと他の国家体制の間柄は、類とそれのもろもろの種との間柄のようなものである。ただしかし、民主制においては類がそれ自身、実存するものとして現われる」(『ヘーゲル国法論批判』)。 官僚主義の克服には、そうした組織に対し、批評をいかに機能させるかに尽きるのです。官僚制に関する認識は、ヘーゲルやマルクスの時代から根本的に変わっていません。 マルクスの最も有名なテーゼから引用するなら、官僚制を「解釈すること」ではなく、「変えること」が重要になります。
この変更は容易ではありません。日本の場合、法的根拠が脆弱な裁量行政が主流ですし、それに非難が集まってくると、膨大な量の法案を国会に提出して自分たちに都合のいい法律を忍びこませておくのです。わかっていてもなかなか変えられないのが実情です。 そこで、官僚主義からの脱却としてさまざまな方策が考案されています。「政治任用(Political Appointee)」や民間活力の導入はそうした一例です。しかし、官僚制は公務員組織に限定されはしません。 ジョン・ケネス・ガルブレイスは、『満足の文化』(1992)において、「官僚」について次のように述べています。 これまで見てきたように、公的と私的とを問わず、現代の大組織の住人は満足の文化に強く条件づけられている。しかしその実態は複雑である。大組織に属する者全員が「官僚」である。しかしこの用語は、彼らの私的な満足とは相容れない公的分野で働く人々に対してしか使われていない。 大組織の住人にとって好ましい役割を担う人々は、国民の下僕としての公務員であり、時には国家の英雄なのである。そして、私的な大組織の側では、「官僚」という呼称を嫌う傾向が強い。 官僚とは異なるものであることを示すために、企業が市場に従属していることや、英雄としての企業家像が強調され、因習的な経済学の教義が引用される。 あえて繰り返せば、満足の文化が目先の快適さを受動的に受け入れて、現代の大組織と巨大官僚制を支配しているという問題が、真剣に問われてはいないのである。 現代社会は至るところに官僚主義がはびこっているというわけです。「官から民へ」などという素朴なスローガンは官僚主義の打破どころか、官僚主義を隠蔽してしまうことになりかねません。 むしろ、民営化してしまったために、公的なチェックが働かず、公的機関であった時以上に不正と腐敗に塗れしまうことも少なくありません。 「位階秩序」と「閉鎖的な職業団体」という形態の組織は官僚主義化する危険性をつねにはらんでいるのです。 時代の精神にふさわしい組織体の形成が問題なのです。森毅京都大学名誉教授は、『数学の歴史』において、17世紀を「原理の世紀」、18世紀を「事実の世紀」、19世紀を「体系の世紀」、20世紀を「方法の世紀」と呼んでいます。 近代的官僚組織はこの体系の世紀に発達し、第一次世界大戦を契機とした国家総動員体制で完成するのです。 しかし、19世紀は対照的な国家間戦争でしたが、20世紀、特にその後半、非対称的なゲリラ戦が主流となっています。常備軍という体系的な軍隊に対し、ゲリラは方法の部隊です。 膨大な物量に支えられたはずのアメリカ軍はベトナムで貧弱な武力しかもっていないゲリラにしてやられます。 ベトナムのゲリラはホーチミン・ルートというネットワークを共有し、自由にアクセスして、戦闘していたのです。巨大な閉じられたシステムに対する小さな諸要素の開かれたネットワークの勝利と言ってもいいでしょう。 ゲリラ的組織は対抗勢力に限定されません。ベトナム戦争の終結後の1970年代、既存の領域がジレンマに直面し、学際的研究が本格化します。 森毅名誉教授は『アカデミズムの行方』において、アカデミズムが「ペーパー」から「シンポジウム」へと変わったと譬えています。 閉じられた専門領域の中で論文を生産する「ペーパー・アカデミズム」は、相互依存・相互浸透したネットワークの共有性とアクセス性に基づく「シンポジウム・アカデミズム」によって、乗り越えられつつあるのです。固体が液体化したとも言えるでしょう。 19世紀以来、諸学は閉じられた体系の構築を進めてきたのですが、コンピューターの普及と共に、非線形現象の解析が進み、行き詰まってしまったのです。 この体系は線形的認識に基づいています。ところが、線形は自然的・人工的・社会的現象のほんの一部にすぎません。 しかも、その大部分を占める非線形現象には蓄積されてきた線形的手法はお手上げなのです。天気予報が依然として宿題を忘れた小学生の言い訳と同様に信用されないのは、気象が典型的な非線形現象だからです。 非線形現象では加減や比例が必ずしも適用できませんから、最初に見られるほんのわずかな違いが大きく結果を左右します。その完全な予測は、事実上、不可能です。 パチンコ台でハンドルを固定しているにもかかわらず、弾かれた玉はそれぞれ異なった動きを見せます。それは一個一個に微妙な質的斑があるからです。これが非線形の世界です。 その存在は知られていたものの、封印してきた非線形をコンピューターによってヴィジュアル化できるようになり、体系から方法へと研究の主眼が完全にシフトしていくのです。 官僚主義的な組織ではこうした時代の精神に対応できません。それは官僚制の長所短所以前の問題です。 日本の官僚の立案した計画通りに社会が変動することは滅多にありません。それは線形ではなく、非線形として現象が起きているからです。 体系性への意志が強いにもかかわらず、農水省の米政策が示しているように、現象に関して断片的な理解にとどまってしまうのはそのためです。日本の官僚制は、今や、非線形性を無視した線形の王国にすぎません。 体系的認識が不要なわけではありません。線形か非線形かという二項対立は、小泉純一郎内閣総理大臣のレトリックのように、素朴な対立図式です。 断片的な知識や情報を寄せ集めたところで、ゲシュタルト心理学が明らかにした通り、全体像を形成することはできません。体系性を踏まえつつも、収まりきれない物事を把握するには方法への意志が欠かせないのです。 体系性だけでは現象の全体を把握できないのです。マルクス主義は、体系の哲学であるヘーゲル主義に対する方法の哲学として初めて効力を発揮します。 マルクス主義に基づく「国家」を建設するとしたら、ヘーゲル主義的な官僚制による支配に帰着するだけです。一九世紀的な体系から方法の組織へと構成を「変えること」が必要です。 開かれた組織はつねに外部からチェックを受けるのであり、平衡状態に達しませんから、非線形性であり続けます。 組織体を集中型の線形的な体系ではなく、分散型の非線形的なネットワークがふさわしいのです。 「たしかに、現代の人間は十九世紀によって形成されたものだから、その文化遺伝は避けられないものだが、せめて、その眼鏡をはずそうと試みてよいではないか」(森毅『十九世紀の眼鏡をはずす』)。 (註)方法の世紀に関するより詳細な考察は以下を参照していただければ幸いです。 http://hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/cw.pdf http://hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/cw_contents.html http://hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/postmodern.pdf http://hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/postmodern.html http://hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/guattari.pdf http://hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/guattari.html |