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連載 佐藤清文コラム 第十二回

志賀重昂と国粋主義

佐藤清文
Seibun Satow

2006年5月29日



「知識人の役割は、決して素朴なものではなく、またロマンチックな理想論として簡単に片付けられるものではない。私が言う知識人とは、その根底において、決してコーディナーターでもなければ、コンセンサスを形成する人でもなく、批判的センスにすべてを賭ける人である。つまり、安易な公式見解やステロタイプ的な意見を拒否する人間であり、とりわけ、権力の側にある者や伝統の側にある者が口にしたり、行ったりすることを、無反省に追認することに対して、どこまでも批判を投げかける人間である」

エドワード・W・サイード『知識人とは何か』

 1912年、『日本風景論』の著者志賀重昂(しがしげたか)はハワイの日本人学校関係者に招待され、当地での移民教育について講演をしました。彼は地理学者として知られていましたが、最も早くから移民教育に関して積極的な発言をしてきた一人です。

 池田行司同志社大学教授の「移民教育と異文化理解(1)」(辻本雅史編『教育の社会文化史』所収)によると、志賀は講演の中で次のように語っています。

 彼は「本国の教育方針と妥協の要なし」として、移民は独自の教育を持つべきだと提案しています。彼は「忠孝教育」、すなわち教育勅語に基づく道徳教育について、「日本人は自己を愛するを知り、自己の父母に孝なるべきを知り、自己の君主に忠なるべきを知れリ。

 然れども人類の一として、自己関係以外の者を愛し、自己関係以外のものを孝し、自己関係以外の者に忠なるを弁えず」と批判し、日本人が人類の一員であるためには、西洋人の美徳である「社会に対する同情心」と「公徳心」を学ぶ必要性があると説きます。

 また、「狭隘で、固陋で、島国的で、鎖国的であって、海外に対して、また外国に対しての事を教えない」従来の日本の教育が「海外発展に不適応な人種」を生み出してきたと糾弾し、ハワイの日本人児童には「人類は生国の相違と人種の異同とに係わらず、皆同一同等なり、その待遇を異にすべきものに非ず」という原則を教えなければならないと主張しています。彼は、その上で、教育の目的を東西の文明を融合した新たな文明を創造することにあると提唱したのです。

 こうした教育論を展開しているとしても、志賀は西洋派ではありません。彼は、三宅雪嶺らと共に、1888(明治21)、政教社を結成し、機関誌『日本人』を創刊して、「国粋保存旨義」を提唱しています。志賀は国粋主義の創始者なのです。

 志賀の教育観は国粋主義に基づいています。どの国にも特有の「国粋」、すなわち他国が模倣できない「特有の元気」があり、これに従い、子供たちが生活する土地や環境に適応する教育を行うことは人類の進化に適っていると志賀は考えているのです。

 「国粋」は「ナショナリティ
(nationality)」の訳語です。現在、この英単語には「国籍」や「国民性」という訳があてられます。志賀にとって、移民は日本人の島国根性を打破する新たな日本人です。移民は日本の教育の認識に対し批判的契機を与え、新しい時代にふさわしい教育の再構築を促します。これからの時代は国家という枠組みを超えた国際化が避けられず、異文化と接触する機会も増します。

 各地の「国粋」を理解し、それと共生していかなければなりません。国際化という環境の変化は「国粋」の進化をもたらし、それに即して、国家に囚われることなく、来るべき文明を創造する人類としての教育が必要なのです。

 第一次世界大戦後、日本でも、いわゆる「国際化」の風潮が高まります。けれども、数少ない賛同者はいたものの、志賀の教育論が日本の教育界から肯定的に受けとめられることはありませんでした。教育勅語に根拠を置く道徳教育がより一層強化されていったのです。

 志賀は『日本風景論』の中で「日本は『松国』なるべし、『桜花国』と相待たざるべからず」と書きましたが、戦前の日本は「桜花国」へと邁進していきました。むしろ、戦後の教育基本法の理念に志賀の教育観と類似したものが見られます。もしこの国粋主義者が現在進行している教育基本法論議を目にしたら、驚き、呆れ、怒り狂うことでしょう。

 ちなみに、創価学会の設立者牧口常三郎も志賀から影響を受けた一人です。牧口は、1901年、北海道師範学校の助教諭を辞職した後、妻子を連れて上京し、志賀の下で学び、1903年に『人生地理学』を出版しています。これは、自然環境や風土が人間形成に強く影響を及ぼしているという観点に立ち、地理に始まり、動物、植物、人類、社会、産業、文明などの問題を扱った書物です。

 志賀の国粋主義は。政府の欧化主義に対抗して、日本固有の文化的伝統の保存と発揚を主張したわけですが、今日と違い、国家と結びついていませんし、排外的でもありません。保護主義でも、反近代主義でもないのです。それは下からのナショナリズムです。

 明治政府は条約改正交渉に見られる急激な上からの欧化主義を推進していました。国粋主義はその藩閥と特権的な資本本位の近代化路線を批判し、地方と中間層を基盤とした在来文化や産業の自立と育成によるもう一つの近代化を目指す思想です。虐げられた人々の救済の立場から、1888年、『日本人』誌は、長崎県の高島炭鉱の坑夫虐待問題を告発し、真っ先に労働問題への関心を示し、さらに「民種の特色を発揚」することが「人類の化育」の貢献に通ずると訴えるなど開かれたナショナリズムを唱えています。

 こうした志賀の国粋主義の源流は、その頃、世界的に浸透しつつあったダーウィニズムです。必ずしも東洋思想から派生したのではないのです。国粋主義自身は、別に、日本の伝統的哲学ではなく、あくまでも近代主義の一種にほかなりません。

 志賀重昂は、1863年(文久3年)、三河国岡崎藩士の子として生まれました。札幌農学校を卒業後、長野県で中学校教師を務めた後、1885(明治18)、チャールズ・ダーウィンがビーグル号に乗って世界各地の島々を歴訪したことに憧れ、軍艦に便乗する機会を手にし、オーストラリアやニュージーランド、南洋諸島、ハワイを回ります。

 当時、研究のために海外に渡る場合、欧米に行くのが常識だったのに対し、志賀が南太平洋を選んだ点は重要です。彼は、そこで、列強の植民地支配の状況を目の当たりにします。志賀は、このフィールドワークを通じて、支配する側ではなく、支配される側の現状を認識し、帝国主義よりも、植民地主義の検討へ向かっています。

 帰国後、その成果をまとめた『南洋時事』
(1887)を出版し、列強による植民地化の惨状を警告すると同時に、海外への殖民の必要性を説いています。

 札幌農学校で学んだ滋賀がダーウィニズムに惹かれたということは少々アイロニカルな話です。と言うのも、札幌農学校の外国人教師には、ウィリアム・S・クラーク博士を始め、創造論の信奉者が含まれていたからです。彼らは合衆国で進化論とのアカデミックな論争に敗れ、日本に活動の地を求めた人たちです。

 1859年末、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』が発表されると、生物学のみならず、他の分野にも大きなインパクトを与えました。イギリスの哲学者ハーバート・スペンサーはダーウィニズムを応用し、社会進化論を提唱します。合衆国はその社会ダーウィニズムを最も受容した国です。

 アメリカは、遺伝と環境の拮抗において、環境の優位を根拠付ける理論を歓迎します。それは行動主義心理学が生まれ、その応用としてマーケッティング理論が発達した経緯からも明らかでしょう。アメリカ人はスペンサーの「適者生存」を弱肉強食と理解し、自分たちの自由放任な資本主義を正当化しました。

 もっとも、合衆国では、ダーウィニズム自身は、いまだに一般からは拒絶されがちです。1925年、テネシー州デイトンの教師ジョン・スコープスが訴えられた「サル裁判」の結果、学校でダーウィニズムを教えることが1960年代まで禁止され、その後も、各地でしばしば進化論の学校現場からの追放運動が起きています。

 志賀は、社会進化論的と言うよりも、ダーウィニズムの環境に適応できたものが生き残る点を強調します。この場合、「環境に適応できたから生き残った」に代わり、「環境に適応できないと生き残れない」という論理になります。

 外国からの文化防衛ではなく、時代に応じ、環境に即した文化の再構成が彼の国粋主義です。欧米の近代を上から押し付ける政策は日本という環境を無視しているのであり、そんな近代化は根付くことができません。志賀の国粋主義は、スペンサーの社会的ダーウィニズムを捩るなら、文化的ダーウィニズムと呼べるでしょう。

 国粋主義は国家主義ではなかったのですが、日清戦争を経て、近代国家体制が整備されると、高山樗牛や木村鷹太郎等の日本主義が登場し、国家主義に傾倒していきます。体制批判を含んだ下からのナショナリズムが消え、体制を擁護する上からのナショナリズムに変容したのです。第一次世界大戦後に大正デモクラシーが盛んになると、それに対抗して大日本国粋会が1919年に結成されるなど右翼的な国粋主義団体が多数生まれています。

 さらに、満州事変に始まる一五年戦争期には、反共産主義と共に、天皇中心の日本精神論や皇国史観が台頭し、極端な排外主義のイデオロギーへと陥っていくのです。現在では、国粋主義の起源が何であったのかさえ忘れられている状況です。今の国粋主義が江戸時代の幕藩体制を復活すべきだとは主張しないのは、近代的な認識を基盤にしているからです。国家主義的な右翼よりも、むしろ、北大路魯山人のような人物にこそ、本来の国粋主義が生きていたと言っていいでしょう。

 けれども、志賀の主張が国家主義や帝国主義の体制に利用される傾向は彼の初期の作品の受容からもすでに見られるのです。『南洋時事』は日本の「南進論」に根拠を与えています。社会進化論が列強による植民地支配を正当化したと同様に、志賀も植民地主義に決定的な批判を加えたことはありませんでした。また、彼の代表作『日本風景論』は、日清戦争開戦の1984年、国威高揚の真っ只中に発表されたため、愛国の書としてベストセラーとなっています。

 それは志賀のロマン主義に起因しています。志賀は、『日本風景論』において、日本三景に代表される名所ではない「風景」の重要さを唱えています。しかし、それはロマン主義的アイロニーにほかなりません。

 『日本風景論』で紹介している日本アルプスの情報は、主に、明治初期から在日外国人によって書かれてきた英文の『ハンドブック・フォー・トラベラーズ・イン・ジャパン』に依拠しています。志賀の「風景」は欧米のロマン主義者が見た日本の景色の発見に基づいているのです。

 アルピニストは、ジャン=ジャック・ルソーが『告白』で記したアルプスでの自己と風景との一体感を追経験する目的から誕生しています。それ以前のアルプスは恐るべき難所でしかありません。

 ロマン主義は歴史に覆われた名所旧跡に対し、貶められ、軽んじられ、忘れ去られた「風景」をとりあげます。そこには歴史に対する自意識の優位さがあります。自意識に基づく世界解釈は、容易に、排他性へとつながってしまうのです。さらに、差異の固定的な強調はそれを共有すると信じる者の間に同一化への意志を促し、政治的ナショナリズムが形成されていきます。

 志賀は、一貫して、そうした忌避されたり、軽視されたりするものに着目します。死の前年の1926年にも、世界各地での見聞をまとめた『知られざる国々』を刊行しています。志賀は文化主義的傾向を最後まで持ち続け、排他的な姿勢をとることはありませんでした。

 しかし、国粋主義の持つロマン主義が国粋主義自身の歴史に対する自意識の優位さを使い、その起源を忘れさせてしまったのです。志賀の「下から」という発想はロマン主義が可能にしたものです。ただし、それはアイロニーであって、そのレトリックを忘却し、そうした認識を能動的なものと思ってしまえば。いつでも「上から」へ転倒してしまいます。

 志賀の国粋主義が示している通り、「下からの(from below)」という思想は、つねに、「上からの(from above)」に変容する危険性があります。それはロマン主義が孕むものです。けれども、ロマン主義の「下から」という意義はこれからも必要でしょう。むしろ、ロマン主義に対し、そのレトリックを自覚し、批判していくことが望まれるのです。