25年間 「怯まず、屈せず、逃げず」 の気概 田中康夫 掲載日2006.3.9 |
ジャン・ポール・サルトルとシモーヌ・ドゥ・ボーヴォワールは、社会的状況に自ら関わるも、自由な主体として今という歴史を生きるアンガージュマン(engagement)の生涯を貫きました。 即ち、真の表現者たる者は、書斎に籠もって安全地帯から述べる輩には非ず、との気概です。その足下にすら及ばずとも、田中康夫も又、25年以上に亘って観客民主主義に留まらず、物は豊なれど心は貧しき社会を変革すべくアンガージュマンとして発言し、行動し続けてきた些かの自負を有します。 湾岸戦争勃発時に於ける畏兄・中上健次氏等との声明に留まらず、小選挙区制導入反対、阪神・淡路大震災ヴォランティア、神戸“市営”空港住民投票。更には信州・長野県知事として「『脱ダム』宣言」「『脱・記者クラブ』宣言」に基づく「政官業学報」現状追認ペンタゴンの既得権益との闘い。 斯くなる軌跡は、「憂国呆談」と銘打って文藝春秋社の「CREA」創刊号でスタートし、爾来16年間、二弦社の「NAVI」、中央公論社の「GQ」、加えて突如として次号で連載を終えるダイヤモンド社の「週刊ダイヤモンド」と“流浪の民”の如くに渡り歩きながら、畏友・浅田彰氏と語り惚け、600頁2段組50万字超のウルトラ・ヴォリュームで年末に上梓の、第4冊目に当たる「ニッポン解散 続・憂国呆談」の中で記されています。 将又、「噂の眞相」休刊後も「週刊SPA!」最終頁で計12年間に亘って連載を続ける「東京ペログリ日記」に於いても。先週末に全5巻で上梓した「東京ペログリ日記大全集」には、「噂眞」元編集長・岡留安則氏との対談や、日記に登場するペログリ嬢座談会も収録されています。 その5巻目の後書きで僕は、「『イヤだなぁ、原稿書くの』と毎日のように呟きながらも、気が付いたら25年以上も経っていた。というのが、偽らざる実感」との書き出しで、「“時代の寵児”として『毀誉褒貶』に晒される人生」を述懐しています。 「日本興業銀行に就職する予定だった卒業直前の80年3月に停学を食ら」い、「5月の連休に大学の図書館で初めての小説『なんとなく、クリスタル』を書き上げ」、「同年10月に『文藝賞』を受賞」。「『10年後に期待する』と有り難くも芥川賞選考会で褒め殺し頂き、翌日に上梓された単行本は瞬く内にミリオンセラーを記録」。爾来25年、離婚やら自損事故やら、更には恋愛事情に至る迄、TVや新聞や雑誌が報じて下さった“醜聞”は数限りない」。 「然れど、当の本人は」「全てを包み隠さず行動し、発言する“フーリエ主義”を実践し」、「如何なる状況が到来しようとも、だから、痛くも痒くも辛くもない」のです。「怯まず・屈せず・逃げず」の気概です。 「葬式無用・戒名不要」の遺言でも知られ、宰相・吉田茂の下で参与を務めた白州次郎氏が看破した「子供達に懐かれる存在で在りたい。真っ当か否かの真贋を瞬時に見極める存在が、子供達だから。これぞ、巧妙に建前・本音を使い分ける凡百の大人とは対極な生き方への勲章だ」との矜持と共に、今後も「奇っ怪ニッポン」を喝破し続けます。
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