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震災から3ヶ月、タイム誌で世界の100人の一人に選ばれた南相馬市長 櫻井勝延氏は今や世界的に有名な市長となった。この日は午前中に国会や関係省庁を訪ね、要望を伝えるなど精力的な活動を続けている。 別途、記者会見の全容をE-wave Tokyoに掲載するが、いち早くその会見及び海外メディアの記者との質疑応答の模様を速報する。櫻井市長にはお元気で益々のご活躍を期待したい。 2011年6月9日 日本外国特派員協会 講演会・会見(池田撮影) Katsunobu Sakurai, Mayor of Minami Soma - City http://www.fccj.or.jp/node/6662 櫻井市長講演及び質疑応答の概要 今、日本はまさに、世界史的な災害に直面していると思っている。そして、その中で南相馬市が今一番複雑な状況に見舞われている。そこで我々政治を預かる者として、住民の命を如何に守るか、この国難にどう立ち向かうかを示すときでもある。 震災から3ヶ月余りとなるが、人口7万人のうち、現在は4万人が市内に戻って生活を始めている。3万人余りが全国に散らばって避難生活を余儀なくされている。アメリカに避難している方も含め、北海道から沖縄まで避難先は全国に散らばっている。 市面積400kuのうちの10%に相当する41kuを津波で喪失した。良好な水田、農地だったところが今は、湾のようにになっている。 津波は海岸から3kmに位置していた小学校を襲った。市内の東北電力の火力発電所も震災後停止している。南相馬市は避難指示から避難までの時間がなかったためにほんとうに苦労した。現在は、原発から30km圏内はゴーストタウンと化している。 20km圏内には約4000世帯が含まれ、一時帰宅では8000人が対象となるにもかかわらず、一回に300人(一日160人ずつ二日間のみ)しか一時帰宅できないので、全員が一時帰宅するだけで半年かかることになる。 私自身、これまでに20km圏内に6回入っているが、戻ってからのスクリーニングで除染が必要だったことは一度もない。住民については、これまで25000人がスクリーニングを受けているが50人程度が除染の対象となった程度である。 現在の被害状況
となっている。地震と津波に加えて、原発事故があったため、当初は、5万人が市外に避難しそのエリアは46都道府県に及んだ。市町村間の連携で早い時点でバスで迎えに来てもらったりして助かった。 国の方針として原発から10km圏内については、防災計画を作ってはいけないということになっていたため、避難にあたっては非常に混乱した。安全安全といいながら、国策で進めてきた原発政策によって、地域住民はこうした災害時に無防備のまま取り残されることとなったことは極めて遺憾なことである。 原発が安全でクリーンで安価なエネルギーと言われているが、この事故によって、どれだけコストのかかるエネルギー政策であるかは一目瞭然となっている。 3月12日に原発事故が発生し、その後3月17日に国の担当者が南相馬に来、3月22日に初めて東電の関係者が謝罪に来た。当初は、通信手段がすべて切断され、唯一、福島県との防災電話がつながるだけだった。東電に対しては、謝罪ではなく、しっかりとした情報を伝えてほしいと求めた。 国は同心円状に避難区域を指定したが、そのために、30km圏内、20km圏内の被害者の捜索や瓦礫の処理がまったくできない状態となり非常に困った。そもそも同心円状に区域指定をしたのは非科学的であり大きな問題だ。 こうした災害に際しては、指導者、政治家の強いメッセージが不可欠であるが、 未だに国、政府からはそれがない。県からもないのが実態である。3月15日夜にNHKが初めて取材に来た際に、実情を訴えその翌日もNHKの取材には応じてきたが、その後、早い段階で新潟県の泉田知事が南相馬市民全員を新潟県で引き受ける、といって下さったことは大変有り難く、その言葉によって私自身市民を避難させるという決意ができたと思っている。 残念ながら菅さんや福島県知事からは何のメッセージもない。 被災現場としては自己判断で何でもやっていかなければならない。苦難に直面している住民を前に市長はひるんむことはできない。住民に対して安心感を与えるメッセージが必要。 世界史的な災害に直面している日本は、今こそ、世界に国力を示すときだが、世界に発信するメッセージが出されていない。これでは、日本の国力を世界に向けて示すことができない。ふるさとに戻れない市民へのメッセージもない。 しかし、ここ20km圏内には多くの生き物もいれば、生活者もいた。全く失われてしまったことに対して政府は何のメッセージも出していない。 警戒区域内に4100世帯、14000人が住んでいたが、どこに逃げればいいのかも示されなかった。30km圏外にしか仮設住宅や学校は作れないことになっている。 今、市内に戻っている小中学生は全体で6000人超のうち、2000人ほどである。こういう状態の中で復興というのはなかなか難しいが、この世界史的な災害にひるむことは出来ない。そうした状況の中で私はYou-Tubeで情報を発信した。 今、南相馬市は世界史的な復興を遂げることを強く申し上げたい。我々にはノウハウはないが、不幸にして背負ってしまった放射性汚染、津波、地震の被害がこれだけ増えてしまった。ノウハウはないが気概はあるので、世界中から知恵や技術をお借りして、世界にない復興を遂げなければならないと思っている。 警戒区域内にはまだまだ家畜たちが元気に生き残っている。その家畜たちを我々は生き延びさせなければならない。命を無駄にすることは出来ない。放射性汚染をおそれて、戻れない母や子供がたくさんいるが、我々はどうすれば戻れるかを示さなければならない。これらのことすべてが我々に課せられた課題で、まだまだたくさんあるが考え方としては、これから世界中の知恵を復興に生かしていくことになると思う。 本来であれば原発事故を終息させることに、国力を上げて取り上げ回復させることをメッセージとして国から伝えて欲しいという思いもあるが、私の方からしっかりと一緒にやっていこうではないかと言うことを国にも申し上げたいし、東電はその責任を十分にとることを世界に声明して欲しいと思う。 復興を遂げるために全力で取り組むが、世界中の知恵を改めて求めていきたいと思うし、国力を上げ、日本の国力を結集してこの災難に立ち向かうと言うことあげて国に対してもお願いをしていきたいと思う。皆さんのお力添えを改めてお願い申し上げたい。 質疑応答 1)千葉県の御宿町からの避難受け入れを断ったのは? →御宿の石田町長からオファーがあったが、残念ながらそこまで遠いというのが一番の理由。市民を送り届けることはしなかった。 2)小高区内に4歳の子供を戻せるかどうかについて科学的根拠はどうか? →線量的には低いレベルだと思っているが、国は30km圏内には原発の終息がはっきりしないので子供を戻してはいけないと言っている。それは国や東電が原発事故の終息について自信がないことの表れだと思う。 3)職員や住民の健康を守るための国に対してモニタリングを要請するか? →政府や県がやっていないわけではないが、私たちの方がモニタリングポイントを多く詳細におこなっている。 4)市内に20mSv/年を超えるようなホットスポットがあったことについては? →南相馬市もそれを超える地点がることが明らかになった。その地域の住民からは何度も不安が寄せられていたので、午前中にも政府とも話をし、見直しをせざるを得ないと思う。地域の周辺の人々とはしっかり話して数軒は避難させなければならないと思っている。それを発見したのは国の調査である。 5)今後のエネルギー需給について、現在1/5が原発ことについてどうか? また、浜岡を止めたことをどう思うか? →津波によって41kuが失われ水田がどう復旧できるかも目処が立たない。考えようによってはいっきに太陽光パネルを張れるチャンスでもある。しかし、政府が買い取りの義務づけるということを法制度化をしなければ直ちには難しいだろう。日本は自然エネルギーが豊かな国に於いて、可能なことをすべてやりきるという方針を政府が出さなければ、難しい。それがあれば容易に転換できるのではないかと思う。 浜岡は今までも事故を起こしているので、東南海地震が予想されるということからの英断だったと思う。政治家にとってメッセージをだすことが重要。それに対して明確な政策づけをしていく、そのために官僚を使っていくことが政策を実現する上で重要となる。浜岡も含めてエネルギー転換を進めていくチャンスだと思う。 6)国による避難区域の設定についてはどうか? →考え方としては同じだが、SPEEDIのように明確に汚染された区域についてスムースな情報開示が必要だったと思う。水素爆発が連続したので政府も慌てたのだと思うが、屋内待避の期間が長く続いたことを思うと、20-30kmという同心円の避難区域設定は疑問に思っている。 7)市内の動物、家畜が取り残されているが? →情報公開することによって民主主義が進むと思う。見ないところで判断することほど危険なことはない。申し入れに対して立ち入りを許可したが、必ず国や県とバッティングする。その際には覚悟が必要だ。自分たちの地域を自分たちでどうするかとういうしっかりした信念に基づいた覚悟が必要となる。 取材に対しては、できるだけ公平に多くのメディアに許可を出したい。その際に、極端に偏った報道をして欲しくない。事実を事実として報道して欲しいと思う。判断して行動すれば必ず非難と支持が両方ある。こういう事態の中でまずはしっかりと判断して行動していくことが大切なのだと感じる。 8)現在の避難区域の設定は厳しすぎると思うか? →最初は混乱していたのでこうした避難区域の設定もやむを得なかったと思うが、30km圏内の屋内待避を1ヶ月半もさせたことはまったく必要なかったと思う。情報をしっかり伝えて、避難すべきなのか、とどまるべきなのかを瞬時に伝えていかないと住民は判断ができないと思う。1ヶ月半もの屋内待避は、高齢者を疲弊させてしまう。 非難については明確なデータに基づいた支持がないと住民は全く混乱すると思う。 今朝、住民の要望を踏まえどういう行動を取るべきかをしっかりと政府にも話した。住民の避難にはより詳細な情報が今後は必要であることを伝えた。20km、30kmの見直しは必要である。発災当初から繰り返し申し上げたのは、政府の役人も官僚も現場に入れと、再三にわたって申し上げてたが、未だかつて現場に政府機関は作られていない。これが日本政府がメッセージ、政策を出せない最大の原因だと思う。適切な指導をするためには、 現場に政府機関を置くべきだと強く思う。 9)TEPCOの情報は的確と思うか? →22日に東電の役員がはjめて南相馬市に謝罪に来たときに、謝罪する前にしっかりした情報を持ってこいと言った。作業の工程や内容を説明されても住民や我々には分からない。残念ながら住民にとって一番大切な情報がない。方向性、目的をしっかりもった情報を伝えて欲しい。 10)放射線の汚染があると思われる地域に子供を戻すことについてどうか? →20-30kmの圏内については、今の納車能レベルでいえば通常に暮らせるところが多いと思うが、政府見解は20-30kmも原発プラントが落ち着かないということについて否定できないのでその線は崩さないという考え方である。この線を崩さないとすれば、いつになったら復興に手を付けられるのかと言わざるを得ない。 爆発をするならその可能性を明確にして貰わないと、情報として入れて貰わないと困る。我々の生活する権利をしっかり補償して貰わなければならないので。子供たちのことについては、まだまだ未知なので敢えてそこに戻そうとはしていない。いまいる子供たちには線量調査をしっかりしてフィルムバッチも配ってやっていくつもりである。内部被爆についても今後も調査していく予定である。 11)市長は産廃処分場との闘いをしていると聞いているが? →市長としてではなく個人としての考えを言う。2000年に産廃業者に軒の許可が下り、処分場の工事が始まった。26年間農業に携わり、東京や大阪に有機野菜などを販売していた立場から、そうしたものを汚染される処分場の建設は許せなかった。処分場を止めようという運動に参加し、組織して、裁判し、仮処分は勝ち工事は止まった。 裁判では一審では建設差し止め仮処分について勝訴したが、仙台高裁では敗訴した。まともな裁判官がいないのではないかと思った。一度も現場も みないで紙切れ一枚で判決を出されてしまったことは残念だ。政官業の癒着に加えて暴力団も関与していた。日本の権力構造を何とか変えなければいけないのではと思っている。 それが震災に遭ってしまい、運命を感じている。 12)政府の不信任投票のことをどう思うか。 →菅さんは、不信任案を提出されずに済む状況を作られたと思う。彼が強いメッセージを出していればそんなことにはならなかった。国民は彼にゆだねる訳なので、強いメッセージを出すべきだった。自分に着いてこい、責任は自分が取ると言うべき。 13)差別があることをどう思うか。(福島からの避難者に対して) →具体的な場所は言わないが、子供のお母さんから悲痛な訴えを受けたことがある。被災地に行ったときに、近寄らないでくれと子供が言われて泣いてきたと。私は、国に対してこういう事をするなと各都道府県、教育委員会に申し入れるようにお願いをした。被災者と同じ気持ちにたって受け入れない人がいるということだ。同じ事が別のことでも起こっている。 避難者は大変な生活を送っていることは分かるが、542名も亡くなった人は何も訴えることは出来ない。被災した人にとっては避難所の食事が悪いとか、戻れないのは市が悪いというクレームもあるが、生きていることが感謝すべきではないかと少し思ったりする。与えられた命をしっかりと燃やし続けることが今我々に求められているのではないかと思う。 14)南相馬市は放射能研究の中心になるのか。また、今後、国際的な政治家になる気はないのか? →今、我々が負っている幸を広島、長崎という問題ではなく、除染すること、健康をしっかり管理することが大切だと思っている。東大や長崎大の先生も来てくださっているので、世界的な支援を得ながら崩壊した地域医療を再生するということに努力したい。 中央政府には不満はいっぱいあるが、尊敬してきた宮沢賢治のように現場にいて人と一緒に居て人と考え、現場を歩き現場に学ぶという姿は今後も変わらないと思う。 (以上、E-wave Tokyo 池田こみちの取材メモと録音をもとに作成しました。) |