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連載 佐藤清文コラム 第十四回

ジョン・コットンと
ロジャー・ウィリアムズ


佐藤清文
Seibun Satow

2006年7月10日



 「かくしてアメリカは未来の地である。いつの日か、南北アメリカが戦い、そのことで何らかの世界史的意義を見出されるかもしれないが、予言をするのは哲学者の仕事ではない」。
           (G・W・F・ヘーゲル『歴史哲学』)


 ジョージ・W・ブッシュ大統領が登場して以来、政治と宗教あるいは理性と信仰といった問題が浮き彫りになっています。

 彼の重要な支持者である宗教右派の主張する中絶禁止や創造論教育、同性婚の禁止など大統領は肯定的に考えていますが、それに対する抗議の声も大きく、しばしば暴力的な衝突を生んでいます。

 連邦最高裁の判事の選出も、この問題におけるイニシアチブが絡み、一時紛糾しました。

 近代は神の死を前提にしていますから、国によってその線引きは若干異なるものの政教分離が大勢の原則です。合衆国もそれを踏まえていますが、欧州諸国と比べて、いささか前時代的に、宗教の政治への干渉がよく見られます。

 なるほど、同性婚を認めている国は世界的にまだ少数です。また、映画『ダ・ヴィンチ・コード』の公開に際し、反キリスト教的と唱える抗議運動はアメリカ以上にフィリピンの方が激しいものでした。

 けれども、アメリカの場合、神の存在を信じていないと公言して、上下院議員ならびに大統領に当選できる政治家が今ではありえないように、宗教が政治問題化しやすいのです。

 長年アメリカの諸州で続き、再燃している進化論の学校現場からの追放は、現在のヨーロッパにおいて問われることさえありません。

 フランス映画『TAXI』で、バイク便からタクシーに鞍替えする運転手に向かい、進化論に逆行する行為と同僚たちがからかうシーンがありますが、これをリメークしたアメリカ版ではこの部分は変更されていました。

 こうした事態はアメリカがアイデンティティを理性と信仰の二面性に求めてきたという歴史にその一つの原因があると思われます。

 アメリカにはピルグリム・ファーザーズの神話があります。ヨーロッパで迫害された清教徒が信仰の自由を求めて、メイフラワー号に乗り、新大陸へ渡ってきたという伝説です。それはアメリカ人がアイデンティティの基盤として必要としたものだと言っていいでしょう。

 清教徒、すなわちピューリタン(Puritan)は、16世紀後半、イングランド国教会の改革政策を不徹底とし、一層の純化運動を目指したグループです。清教徒は広い概念で、その礼儀は曖昧です。

 宗教改革は権力闘争が複雑に入り組んでおり、その歴史を書くには、論理的に筋立てるアカデミックな研究者以上に、どろどろした人間関係を整理する政治記者のセンスが必要でしょう。

 16世紀前半、ヘンリー8世は自らの離婚問題をきっかけとして、ローマ・カトリックから独立したイングランド国教会を設立します。けれども、同世紀半ばの宗教戦争の頃、メアリ1世はカトリックに復帰し、その迫害を避けるため大陸に逃れた国教会の信者はかの地で急進的な改革運動の影響を受けます。

 1658年、エリザベス1世が即位すると、彼らは帰国するのですが、女王は穏健な宗教改革の方針を採り、大陸のプロテスタントとカトリックの中道に向かいます。

 この中道路線に不満を抱く改革派の信者と国教会から分離した分離派の一部が、17世紀に入って、ロバート・ブラウンをリーダーとする会衆派(組合派)を結成します。ブラウンは教会の自立、自給自足、国家からの独立を訴え、激しい弾圧に直面し、オランダへ避難します。

 彼らの一部がアメリカ大陸を目指し、ヴァージニア植民地の北のはずれを目的地に選びます。営利事業を名目としてヴァージニア会社に移住を申請し、特許状を手にした40家族102人は180トンの哀れな帆船メイフラワー号に乗りこんだのです。

 実際には、メイフラワー号に乗船していたのはピューリタンだけではなく、商売人やその使用人、一山当ててやろうとする者もいたのです。彼らは全員ヴァージニア会社の特許を得て渡航したのですが、予定のコースを外れ、イギリスの管轄外だったプリマスに上陸することになってしまいました。

 そこで、清教徒のリーダーのウィリアム・ブラッドフォードは、利害を異にする移住者が安定した社会を築くために、その特許状に代わる新たな誓約が必要だと考えました。この新たな契約書は船上で結ばれます。それは1620年のことです。

 このメイフラワー誓約は、封建制が根強いヨーロッパと違い、身分に関係のない最初の「社会契約」です。けれども、近代的であると同時に、宗教規則を根本にし、船上の仲間だけで、すなわち先住民族を排除して結ばれたという点で後のアメリカを予感させます。この神話の中にすでに政治と宗教の拮抗が見られるのです。

 メイフラワー誓約やプリマス植民地に関する神話のほとんどは後世につくりあげられたものです。「ピルグリム」の命名者で、総督のブラッドフォードが残した記録『プリマス植民地について』には、その理念がいかに早く崩れ、性犯罪や土地所有をめぐる争い、人々の反目などがつづられています。

 2年目の秋に収穫を祝った集会が感謝祭の起源とされるとしても、プリマスの理念が広がって、合衆国建国につながったわけではありません。

 1640年に、イギリス本国で清教徒革命が勃発し、各植民地からその成功によって帰国した信者も多かったのです。また、1681年、二進も三進も行かなくなったプリマス植民地はマサチューセッツ湾植民地に吸収されてしまうのです。

 宗教的迫害を逃れて、新大陸に移住するという考えは清教徒自身からも非難の声が上がっていました。キリスト教徒たるもの、迫害には、パウロのように、殉教をもって応えるべきではないのかというわけです。これはキリスト教原理主義者として当然の見解でしょう。

 しかし、強まる弾圧に対し、1630年、ジョン・ウィンスロップが率いグループも新大陸移住に踏み切ります。彼らはマサチューセッツ湾植民地のセイラム(現ダンヴァーズ)に到着し、新大陸に「丘の上の町」を建設しようと試みます。国内にとどまる信者は彼らを臆病者と罵り、渡航を逃亡と軽蔑しました。清教徒自身の中の分裂も激しくなっていきました。

 そのとき、移住を擁護したのがジョン・コットン(John Cotton)です。彼は当時有数の神学者であり、教会の制度改革にも着手していた人物です。その神学は人間の抗い難い原罪と教条的な終末論に彩られています。

 コットンは、説教「殖民地へ向けて主の約したまえること」において、新大陸をイスラエルになぞらえ、移住を出エジプトに譬えました。植民地への渡航は卑しむべき逃亡などではなく、聖なる使命なのだと説いたのです。

 32年には、彼もマサチューセッツ植民地のセイラムへ移住し、ニューイングランド最高の牧師と見なされるようになります。その後、イギリスでもその名声は衰えることはありませんでした。

 清教徒革命の時期、オリバー・クロムウェルも彼の元へ手紙を送っています。コットンの終末論に影響を受けた勢力が革命の主導権を握ったのです。

 現実の出来事を聖書の記述との対応で捉える思考方法を予型論と呼びますが、以後、ピューリタンはこの論法によって植民を正当化していきます。

 セイラムには、前年から就任した牧師がいました。彼は真っ当な宗教なら政治と関わるべきではなく、マサチューセッツ湾植民地の教会は国教会と縁を切るべきであり、また、新大陸は先住民のものであって、イギリスはそれをマサチューセッツ湾植民地に所有させる権利など持ってはいないと説教していました。

 けれども、彼はジョン・コットンにそれを糾弾され、職を追われただけでなく、植民地自身から追放されてしまいます。四人の信者と共に、彼はナラガンセット湾の北部沿岸の土地をネイティヴ・アメリカンから購入して、集落をつくり、バプテスト開拓者のための宗教的自由の地と宣言し、「プロヴィデンス」と命名しました。そこは現在のロードアイランド州に含まれます。

 この人物こそロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)です。彼は、以後、コットンとの間で、政治と宗教をめぐる激しい論戦を繰り返していくのです。

 ウィリアムズが処刑ではなく、追放という処分になったのは政治的理由からです。マサチューセッツ湾植民地は先住民族との抗争が絶えませんでした。そこで、ウィンスロップは敵との間の緩衝地帯の役割を果たさせるため、彼をその地に追放したのです。

 ウィリアムズは、『信仰の大儀を掲げて迫害を説く血塗れの教義』(1644)や『コットン氏が神の子羊の血で洗い清めようとしたため一層血塗れになった協議』(1652)などにおいて、コットンの予型論に基づく神学を厳しく批判します。

 彼によれば、イエスの誕生により、旧約聖書の役目は終わったのであり、それに依拠して現実の出来事を根拠付けることはとんでもない間違いだということになります。その上で、ウィリアムズは、儀式や制度に拘束されることなく、信者は個人の救済を追及できるようになったと主張します。これは心の内と外の分離を意味します。

 この内面の自由は近代的な政教分離や信仰の自由につながっていくのです。ウィリアムズは83年に亡くなるまでこれを熱心に説き続けます。

 彼のような人を先駆者であるという見方を示すことには慎重にならなければなりません。と言うのも、その人物に焦点が当たりすぎることで、彼の時代の本質を見失わせたり、根本的には違うものを安易に連ねて進歩主義的に歴史を整理したりしてしまいかねないからです。

 この信念に従い、ウィリアムズは、バプテストだけに限らず、信教の自由を認め、クエーカー教徒やカトリック教徒、ユダヤ教徒などマサチューセッツ湾植民地などで門前払いされる人たちも受け入れ、完全な信仰の自由を保障しました。

 それを認めていたのは、当時、この植民地だけだったのです。ユダヤ教徒にも門戸を開いたため、この小さな植民地は商業が非常に発展しました。1652年には、北米大陸で最初に奴隷を禁止する法律を制定しました。

 ウィリアムズの攻勢にもかかわらず、コットンの権威は揺るぎませんでした。しかし、コットンにも政治的にその立場を危うくする時期がありました。それは反律法主義論争です。

 マサチューセッツ湾植民地のピューリタンは神に選ばれた者でのみ教会を組織しようとしました。ウィンスロップら指導者たちは厳しい審査を実施し、それに合格した人だけを受け入れています。彼らの社会に住むには、信仰に目覚めた回心体験を会衆の前で告白して、確かに神の恩寵を受けた選民の一人であると認めてもらわなければなりませんでした。

 しかし、それが真実であるかどうかは神のみぞ知るですから、それを善行によって判断する傾向が強まります。実際、共同体秩序の維持にはその方が好都合でした。けれども、救済には、信仰ではなく、善行の方が重要であると転倒した考えに対し、異論を唱える者が現われ、反律法主義論争が始まったのです。

 律法の遵守ではなく、信仰のみが救済を保障するというのが反律法主義ですが、その急先鋒がアン・ハチンソンです。彼女はジョン・コットンの説教を聞いて、ピューリタンの信仰に目覚め、34年、コットンの後を追って、一家で移住してきたのです。

 彼女はコットンの教えを急進化し、彼以外の指導者をことごとく批判します。しかし、コットンは最終的に彼女の側に立たず、政治的に振舞います。2年間に及ぶ論争の末、38年、アンの一家は追放され、事態は収拾されます。

 これを凌いだコットンは。1653年に亡くなるまで、ピューリタンの間で絶大な影響力を振るうことになるのです。

 アンの一家と数人の信奉者はプロヴィデンスへ向かいましたが、彼女の信仰は受け入れられず、ロードアイランドへ渡り、現在のポーツマス町を開きました。その後、ニューヨークに移り住み、43年、先住民の襲撃に遭い、命を落としています。

 セイラムは、その後、アメリカの歴史に残る宗教禍に見舞われます。悪名高きセイラムの魔女狩りです。それは1692年3月に始まり、その秋頃に沈静化するまで、200名近い村人が魔女として告発され、19名が処刑され、1名が拷問中に圧死、5名が獄死するという凄惨な状況をもたらしました。お互いに疑心難儀に陥った村人は保身から隣人を告発し合い、その果てに、個人的な怨恨を晴らす手段と化しました。

 この魔女裁判を正当化した一人がコットン・マザーです。彼はジョン・コットンの孫に当たり、魔術問題の権威でした。彼は、赤狩りのジョセフ・マッカーシーよろしく、魔女狩りに反対する者を容赦なく叩いています。

 反律法主義論争とセイラムの魔女裁判をモチーフにしたのがナサニエル・ホーソーンの『緋文字』です。ヒロインのへスター・プリンのモデルがアン・ハチンソンだと言われ、魔女裁判の審理に当たった判事はホーソーンの先祖です。

 こうしたアメリカ建国前の歴史を辿って見ると、移住自体に二面性が認められることがわかります。過去から断絶し、信仰の場を求めた未来へ向かう楽観的姿勢でありながら、その一方で、人間の本性は悪であるというピューリタンの悲観的認識が同時にそこにあるのです。

 ピューリタンはアイデンティティを欧州の伝統、すなわち郷土や身分、言語などではなく、信仰と(キリスト教全般ではなく)その共同体に求めることになります。そのため、政治と宗教の関係が近いのです。

 とは言うものの、彼らは神政政治を実施することはありません。政治を担うのは聖職者ではなく、総督などの世俗の執政官です。聖職者は聖書に根拠を求めた道徳や法を体系立てたり、説教を通じてあるべき政治を説いたりします。頭は手足に命令をするものであって、手足の役割を果たす必要はないのです。

 景気がよくなり、世俗的な関心が世の中で強まり、宗教的厳格さが緩和されると、信仰の危機だとしてリバイバル運動が何度も起きています。日本では不況になると右傾化するのに対し、アメリカが好況期に保守化するのは、そのためです。けれども、その復古運動は概して、流行病のように、急激に沸き起こったかと思うと、急速に廃れていきます。

 神の死の近代において、アイデンティティあるいは帰属意識を信仰に基づいた同質的な共同体に求めるとしたら、それはつねに不安定にならざるを得ません。

 アイデンティティの危機に恒常的に悩まされている精神状態となり、被害者意識から敵をみつくりださずにいられないのです。また、閉鎖性によりその同質性を維持しようとしても、社会的・時代的変化によって、アイデンティティ危機が生じると、それは純化せずにはいられなくなり、必然的に、分派していきます。

 結果、その後、アメリカには膨大な数のキリスト教宗派が生まれ、さらに、同じ宗派でありながらも、地域や人種によって事実上分離しているという状態になるのです。

 多様であるように見えても、アイデンティティの基盤として各宗派が棲み分けている以上、南米のような人種統合もあまり進みません。

 ロードアイランドにしても、13州の独立には参加したものの、中央集権化に反対し、1787年の合衆国憲法制定会議への参加を見合わせています。合衆国成立後も憲法の批准に応じませんでしたが、他州との交易品に外国並みの関税が課せられることを危惧し、1790年5月29日に批准しました。

 言うまでもなく、ジョン・コットン流の狭量な原理主義に対し、寛容さや政教分離を訴えるロジャー・ウィリアムズのような動きがつねに生まれてきたこともまた確かです。独立に尽力したベンジャミン・フランクリンやトマス・ペイン、トマス・ジェファソンらは信仰以上に理性を重んじていました。

 アメリカの文芸批評家マルカム・カウリー(Malcolm Cowley)はアメリカの文学者に二つの伝統の流れがあると指摘しました。それは無限の進歩を信じ、明るく開放的なベンジャミン・フランクリンのような作家と厭世的で、人間の本性を暗く捉え、内向的なジョナサン・エドワーズに連なる文学者です。

 この二つの流れは、文学に限らず、政治・経済・文化などの領域でアメリカ全般に見られる傾向でしょう。合衆国の外交政策にしても、孤立主義を守りつつも、自由と民主主義を掲げて各地に干渉するイデオロギー外交の二面性があります。

 そこにはジョン・コットンとロジャー・ウィリアムズの姿が見えるのです。この二人の同時代人の鬩ぎ合いがアメリカ社会を彩っています。どちらかが前にせり出し、もう一つは後に退きます。しかし、両者のいずれか一方が完全に消えることはないのです。彼らの相反する閉鎖性と開放性のどちらもアメリカのアイデンティティの源泉です。

 1520年代、経済的には未曾有の豊かな社会を謳歌しつつも、政治的にはマッカーシズムの嵐が吹き荒れました。アーサー・ミラーはセイラムの魔女狩りを題材に戯曲『るつぼ』を発表し、赤狩りを批判しました。それは、確かに、ジョン・コットンのアメリカです。

 けれども、その勅語にロジャー・ウィリアムズのアメリカが現れます。1960年代、公民権運動や反戦運動、女性解放運動が本格化します。ウィリアムズがコットンと論争したように、全米中でその是非をめぐる議論が沸騰します。

 その60年代後半、ポール・サイモンは、『アメリカ』の中で、「僕はアメリカを探しに来たんだ(I’ve come to look for America)」と歌います。しかし、フランス人が「僕はフランスを探しに来たんだ」と歌わないに違いありませんし、中国人にしても、ブラジル人にしても、ニュージーランド人にしても同様でしょう。

 おそらくアメリカ人は、閉鎖性と開放性の相克の中で、アメリカのアイデンティティを探さずにはいられないのです。そのため、政治と宗教あるいは理性と信仰は、依然として、アメリカにおいて最も重要な問題としてあり続けています。

 閉鎖性と開放性の調停は、これまでも、ある領域の中で時代に応じて揺れ動いてきました。両者の境界がさらに曖昧となり、決定不能に陥ったことで、それを明確化しようという反動的な動きが先鋭的になったのです。

 しかし、アイデンティティはその揺れ動き自体に求められるべきものであって、それがアメリカにほかなりません。ジョン・コットン対ロジャー・ウィリアムズのディベートはまだまだ続いていくのです。

 連邦議会は、宗教の護持にかかわる法律、宗教の自由な活動を禁じる法律、言論または出版の自由を制約する法律、国民が平穏に集会する権利を制約する法律、国民が苦痛の救済を政府に請願する権利を制約する法律の、いずれも作ってはならない。
(合衆国憲法修正第1条)


 Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech, or of the press; or the right of the people peaceably to assemble, and to petition the government for a redress of grievances.
(The United States Constitution Amendment I)
〈了〉

註 合衆国憲法の邦訳に関しては、飛田茂雄著『アメリカ合衆国憲法を英文で読む』を参照しました。