連載 佐藤清文コラム 第二十回 アンドリュー・ジャクソン とその時代 佐藤清文 Seibun Satow 2006年9月27日 |
ソフォクレス『アンティゴネー』 2006年9月26日で、小泉純一郎政権が幕を閉じ、安倍晋三政権がスタートしました。小泉前首相は自民党の派閥(faction)を解体させ、派閥主義(factionalism)を終焉させましたが、その代わり、多くのグループ(clique)が乱立してはいるものの、無批判的な政党に変容させてしまいました。安倍新総理はそうした雰囲気を背景に誕生したのです。 振り返って見ると、小泉手法は1829年から37年まで在任した合衆国第7代大統領アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)によく似ていました。 ジャクソンの政治は「ジャクソニアン・デモクラシー(Jacksonian Democracy)」として知られ、後継者のマーティン・ヴァン・ビューレン(Martin Van Buren)と合わせてその治世は「ジャクソンの時代(Jacksonian Era)」と呼ばれています。1812年戦争の英雄であり、初の西部出身の大統領である彼の粗野さと無教養は、今日では、伝説となっています。”OK”の語源が”All Correct”の略として彼が用いたエピソードに由来していることはその一端がうかがわれます。 今でこそ、二大政党制の国と言われていますが、アメリカにも一党優位制の時代がありました。1820年から1828年の間は、共和派の候補者同士が大統領選挙を争っていたのです。派閥抗争は激しいもので、政治が滞ることもしばしばでした。 二大政党回帰へと動いたのは1828年の大統領選挙です。共和派が候補者をめぐって分裂し、現職のジョン・Q・アダムスを領袖とするアダムス派が「国民共和党(National Republican Party)」、ジャクソンを領袖とするジャクソン派が「民主共和党(Democratic Republican Party)」をそれぞれ結成したのです。現在のアメリカの民主党はジャクソンの派閥が結成した党に起源を持っています。選挙はジャクソンの圧勝でした。 家柄や財産ではなく、自分の力で成功した彼のような人物が大統領となったことにより、確かに、アメリカの政治は一大転機を迎えます。と言うのも、ジャクソンは職業としての政治家だったからです。ワシントンは、それまで、富裕な南部の大農園主に独占されていました。けれども、ジャクソンは政治で生計を立てる職業的政治家だったのです。 ジャクソンは、政権が交代した際に、政治官職を全面的に入れ替える猟官制(spoils system)を採用しています。従来、ワシントンは、大統領が代わっても、大幅な人事異動がなく、癒着から汚職や不正が蔓延していたため、それ改善するというのが名目でした。しかし、党派的忠誠度によって人事を決める現在まで続くこのシステムは、汚職追放を理由に何度か改正されたものの、無批判的だったり、功名心旺盛だったりする人物が政権内に入ってしまうだけでなく、場当たり的な政策が横行する原因にもなっています。 実際、ジャクソンの配置した人材の多くは無能で、しかも私服を肥やすことにことのほか熱心だったのです。 また、ジャクソンは、元新聞記者等を集め、民衆が何を求めるかを知ると同時に、民衆に自分の政策をいかに周知させ、支持させるかを考えさせました。このメディア戦略担当のアドバイザリー・スタッフは「台所内閣(The Kitchen Cabinet)」と呼ばれています。彼はメディアの重要性とその積極的利用を思い立った初めての大統領と言っていいでしょう。 「オールド・ヒッコリー(Old Hickory)」というあだ名の彼の政治スタイルは極めてシンプルです。彼はかつての戦争の英雄であり、「庶民(common man)」出身の民衆の味方というイメージに則って、敵と戦っている姿を有権者にアピールするのです。戦闘方法は、世論の支持を背景に、敵を絞りこみ、一点突破を図るというものである。 典型的なのが、ジョン・C・カルフーンとサウスカロライナ州への強硬措置も捨てがたいのですが、1832年に勃発した第二合衆国銀行頭取ニコラス・ビドルとの政争でしょう。 詳細は避けますが、この中央銀行は、当時、旧来の特権的商人と連邦政府を結び付けている癒着の象徴と見られていました。ビドルはジャクソンの最大の政敵で国民共和党の有力者ヘンリー・クレイから支持を受けていました。クレイは上下院をほぼ掌握しており、その影響の下、合衆国銀行の特許更新法案を通過させたのですけれども、ジャクソンは拒否権を発動します。 売られた喧嘩は買わねばなりません。クレイは大統領選挙の争点をこの銀行問題に設定します。けれども、ジャクソンは両面作戦は採らず、ビドルにのみ敵を縛り、攻撃を加えることにします。 しかし、34年、復讐に燃えるクレイは上院を先導し、大統領の横暴な行為を理由に、合衆国史上初の大統領譴責決議案を可決させます。以降、ジャクソンは政敵を容赦なく打ち負かすことだけにとりつかれてしまいます。 ジャクソンは、37年、大統領職から離れた後、ナッシュビル郊外の豪壮な邸宅ハーミティッジに45年に亡くなるまで隠遁生活を送ったのです。 ジャクソニアン・デモクラシーとは一つの伝説にすぎません。民衆の味方と自称しながら、それを政策にはほとんど反映させていないのです。また、連邦最高裁判所長官ジョン・マーシャルが、1832年、ジャクソンが定めたインディアン強制移住法を違憲であると判決を下したにもかかわらず、それを嘲笑って、ネイティヴ・アメリカンの強制移住を強行し、かの有名な「涙の旅路(Tail of Tears)」の悲劇を引き起こしています。 ジャクソンは、大統領こそ人民の意思を代表しているという確信に従い、拒否権を何度も行使し、連邦議会の権力を弱め、たんなる儀礼的場にしようとしたのです。それは大統領制と言うよりも、皇帝制と言っていいでしょう。第二帝政のナポレオン3世の手法にも共通点が見られます。ジャクソンの時代はアメリカの帝政期と捉えるべきなのです。 その意味で、強いリーダーシップを発揮する首相を「大統領型」と日本でしばしば呼びますが、それは誤謬です。「皇帝型」ないし「帝王型」と言い改めなければなりません。 後継の第8代大統領マーティン・ヴァン・ビューレンの時代は、暗いものでした。就任直後に、合衆国史上初の経済不況に見舞われます。それは4年間も続きました。 もっとも、ヴァン・ビューレンは彼の政権の生みの親であるジャクソンのツケを払わされたとも言えるのです。フロリダの一件もそうですが、この経済恐慌にはジャクソンの経済政策の失敗に原因の一端があるのです。 有権者はビドルに戦いを挑むジャクソンに拍手喝采しましたが、その代償はあまりにも高くついたのです。「王者が逆上した時、償うのは民衆」(クィントゥス・ホラティウス・フラックス)。 こうしてジャクソンとその時代を辿り、照らし合わせて見ると、小泉純一郎内閣総理大臣はまさにジャクソンの政治を日本で再現した皇帝だったという印象が強く残ります。彼の政治を要約するならば、「主観性の政治」となるでしょう。 故竹下登元首相は、御厨貴東京大学教授の『参議院と衆議院が逆転するとき』によると、小渕恵三以降総理候補はおらず、若手を育てなければならないと言っていたそうです。安倍政権が誕生しましたが、その予測は当たっています。戦後政治は衰退しているのであり、来るべき政治を明確に言語化できる人物が求められているのですが、安倍首相はその能力に見るものはありません。 安倍内閣の顔ぶれを見ると、彼の政治がヴァン・ビューレンの時代以上に暗いものになるのはほぼ確実なようです。何しろ、トップの顔が課長程度で、ほかは親のコネで企業に押しこんでもらったおべっかつかいという有様です。堕ちるところまで堕ちたと感じずに入られません。 イタリアに、「難破船には、どんな風も逆風になる」という諺がありますが、船出したばかりですが、安倍内閣はこうした難破船と言って過言ではないでしょう。 〈了〉 |