連載 佐藤清文コラム 第二十二回 競争と協同 佐藤清文 Seibun Satow 2006年9月27日 |
「私は、お金よりも競争こそが諸悪の根源だと信じている人間なのです」。 グレン・グールド
安倍晋三内閣総理大臣は今度の国会を「教育国会」と名付けようとしています。彼は、官房長時代から、教育基本法の変更を望み、「教育再生」を唱え、自著の中では、サッチャリズムの教育改革を賞賛しています。自説を実行すれば、教育問題は解決するというわけです。 しかし、現在、日本教育が直面している最大の課題は「学力向上」と「格差の是正」です。明治維新以来、後発の産業国だった日本は、欧米に追いつき、追い越すため、マニュアル通りに作業ができる均質な労働者を育成する教育を必要としてきました。 与えられた問題を解くことができる生徒ではなく、その意味を理解し、発展させていく生徒を育む教育が望まれているのであり、その方法の制度化が必要なのです。 にもかかわらず、教育をめぐって有識者会議が設置されていますが、その顔ぶれを見ると、教育学を専門的に研究している人物が見当たりません。彼らが教育について考えてきたことは確かかもしれません。けれども、教育学を体系的且つ本質的に研究してこなかったこともまた事実です。 近代日本の最大の教育問題は、率直に言って、政治的課題が教育へとすりかえられてきたことでした。「教育」対「教学」論争や井上毅と教育勅語形成の歴史を振り返るだけでも、それは一目瞭然です。今回の「教育再生」も同じ匂いがします。 安倍首相が教育学に関して無知であり、思いつきと思いこみのみで教育を語っていることは明らかです。主観的な信念で凝り固まっているという印象さえ受けます。 不可思議なのは、文部科学省の役人がおとなしくしていることです。安倍首相の掲げる教育改革がまったく効果をあげないだろうことは彼らにはわかっているはずです。と言うのも、世界各地の専門家がこの問題に対する研究成果を発表していますが、それと安倍首相の主張はほとんどかみ合っていないからです。 「学力向上」と「格差の是正」は教育における「質」と「平等」をいかに確保し、両立されるかという問題に言い換えられます。一般的に、この調停は困難であると見なされています。政治家にしても、メディアにしても、そうです。 けれども、佐藤学東京大学教授の『教育の方法』によると、実は、研究者たちは両者の両立は可能であり、その方法論もほとんど共通した結論を導き出しているのです。それは、一言で要約すると、主題を探求し、表現する「協同学習(collaborative learning)」です。 各種の調査研究の結果、競争も、個別指導も、能力別編成も、格差の是正だけでなく、学力向上にさえも、プロジェクト型のグループ学習と比べて、効果が薄いというのが専門家の共通した意見なのです。 これを劇的に照明したのが、2000年に実施されたOECDのPISA(Programme for International Student Assessment)調査の結果でしょう。 フィンランドがトップであり、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、アイルランドと続き、日本はイギリスについで8位だったのです。 最高位のフィンランドは競争原理を教育行政ならびに学校現場に導入してはいません。また、PISAのトップになるために、教育制度を整備したわけでもありません。それはよい教育を目指した結果です。 フィンランドは能力別編成も、個別指導も、エリート教育も行っていません。与えられたテーマにプロジェクト・チームで取り組む協同学習を採用しています。そのおかげで、フィンランドは平均点、優秀な学力の生徒の比率、学力格差、学校間格差といずれもトップだったのです。質も平等も両立しているのです。 このランキングに最もショックを受けたのがドイツです。21位で、OECDの平均以下だったのです。ドイツは、小学校4年生の段階で、子供をエリート教育とそれ以外とに選別します。 しかも、フィンランドやカナダ、ニュージーランドなどランク上位の国は複式学級を採用しています。これは、1学年1クラスではなく、2学年1クラスという編成の学級で、グループ学習に適しています。 けれども、これは依然として日本の教育が量のドグマに囚われている証です。質的に向上するのであれば、同じことを2度学んだ方が身につくというものです。 カリキュラムに対して授業時間が足りない、もしくは覚える知識が少ないから授業時間を増やすべきだという意見には、これからの教育のあり方をわかっていないと言わざるを得ません。こういう頭ではフィンランドの教育がなぜこのような成果を出せたのかまったく理解できないに違いありません。 どれだけ覚えているかという知識の量を教育の目安にするなら、競争も可能でしょう。けれども、知識の意味を理解し、それを使っていかなること探求し、表現するかを学ぶのが教育の意義とするなら、競争は不要です。 「1945年8月15日玉音放送があった」を暗記していても、それ自体にたいした価値はありません。調べれば、すぐに知れることです。大切なのはその意味を理解し、そこからさらに考えを発展させていけるかです。 一斉授業は、17世紀のヨハネス・アモス・コメニウスの『大教授学(Didactica Magna)』に由来しています。彼は、グーテンベルク革命による活版印刷機の意義を踏まえ、学校を「印刷機」、教科書を「活字」、教師の声を「インク」、生徒を「白紙」に譬えました。 グーテンベルク革命の歴史的意義は認めるとしても、今や、テレビやラジオ、インターネットが普及している時代です。一斉授業の光景は時代錯誤です。別のアナロジーを編み出すべきです。 考えてみると、実社会では、企業であれ、研究所であれ、官公庁であれ、個人でと言うよりも、プロジェクトを組みチーム・ワークで問題に対処するものです。 日本を代表する企業のホンダは、ホンダ共創フォーラムの吉田恵吾事務局長の『共創のマネジメント─ホンダ実践の現場から』(2001)によると、「共創」という企業文化を持っています。 協同学習はこの「共創」の発想と類似しています。こうした成功例がすでに国内にあるのに、それを参考にもせず、「教育の再生」を唱えるとしたら、あまりに独善的でしょう。 さらに、プロジェクト型の学習は、協同ですから、コミュニケーションの能力の向上にもつながります。ユルゲン・ハーバーマス博士は、『公共性の構造転換』において、公共性がコミュニケーションによって形成されると言っています。コミュニケーションのあり方が公共性なのです。コミュニケーションが不可欠な協同学習を通じて、公共性への意識も養われるのです。 安倍首相は、官房長官時代に、公共性の意識を持つ子供の育成のために、奉仕活動を義務化すべきだという主張しました。これは、ボランティアを義務とする点だけでなく、矛盾以外の何ものでもありません。 PISAの結果が公表された当時、その衝撃により、日本でも頻繁に報道されました。けれども、教育政策にそれが生かされた形跡はまったくと言っていいほどありません。また、メディアもランクをとり上げただけで、分析どころか、解説さえしませんでした。実際、フィンランドの教育現場がいかなるものかを見たことのある一般の人は少ないでしょう。 フィンランドが1位であることを知っていても、それ自体に何の意味もありません。その意味をわかることが重要なのです。しかし、政治家も、メディアも、依然として古い教育の呪縛に囚われているのです。 書店を見回すと、社会人向けの売れる本には「わかる」と銘打っていますが、「できる」はあまり見当たりません。実社会では、「できる」ではなく、「わかる」が必要とされていると人が実感しているからです。 現代社会は学校社会ではなく、学習社会です。生涯学習の時代であり、学校を卒業した後も、自分の必要性や興味に応じてさらに学んでいくものです。政治家も、メディアも、付け焼刃ではなく、教育の方法をこれから学び直すという真摯な態度が必要でしょう。 「教育の主要な役割は、学習意欲と学習能力を身につけさせることにある。学んだ人間ではなく、学びつづける人間を育てることにあるのだ。真に人間的な社会とは、学習する社会である。そこでは、祖父母も父母も、子供たちもみな学生である」(エリック・ホッファー『魂の錬金術』)。 (註) PISAは定期的に実施されています。内容や結果など詳細を知りたい場合は、PISAのサイトを参照してください。 http://www.pisa.oecd.org/pages/ フィンランドの授業風景はテレビ放送大学の「教育の方法」第2回で見ることができます。 |