連載 佐藤清文コラム 第23回 ソフトパワーとコモンウェルス 〜拡散の時代〜 その4 佐藤清文 Seibun Satow 2006年10月16日 |
ソフト・パワーは、すでに言及した通り、拡散を促進させる情報である。これを考慮するなら、ハード・パワーやソフト・パワーという概念よりも、前者を「エネルギー」、後者を「エントロピー」とそれぞれ言い換える方が理解が深まるであろう。 しかも、EUはベネルクス3国によるエネルギーの共同管理から始まったコモンウェルスである。エネルギーを共同で管理すれば、その間で戦争が起こる可能性は低い。軍事力を行使するには、電力や石油、労働力といったエネルギーが不可欠である。ハード・パワーの源泉は なべにはっただし汁に大さじ一杯の醤油を入れると、拡散していき、元の澄んだ液体に戻すことはできない。また、ライム・グリーンのカワサキZRX1200Rにまたがり、エンジン・キーを回すと、マフラーから排気ガスが吹き出るが、その煙をエンジンをかける前の状態に戻すことは不可能だ。これらはエントロピーについての簡単な例である。 19世紀、ドイツの数理物理学者ルドルフ・クラウジウスは、変化を意味するギリシア語から「エントロピー(Entropy)」という熱力学的変数を考案し、マクロなシステムが平衡状態、すなわち完全な内部的無秩序といかに近いかを説明している。 なお、「開かれた(Open)」=「閉じられた(Closed)」は、本来、熱力学の用語であり、この拡散と共に、情報理論でも使われるようになり、今では、極東に位置する島国の内閣総理大臣が自らの政治的立場を表明する際の曖昧な修飾語と化してもいる。「知らないことには口を出さないのが、私の習慣だ」(ソポクレス『オイディプス王』)。 森毅教授は、『お金は物か』において、エントロピー的認識への転換の必要性を次のように述べている。 ニセ献金のリストで、下位にランクされた政治家はくやしい思いをしたのではなかろうか。それは、金がもらえないというより、大物と認められなかったからである。タレγトが高額のギャラをもらうのだって、それがスターである証明になるからだ。してみると、お金というのは、世のなかから大事にされているという、情報の記号なのではなかろうか。 経済学では、お金を物として、とらえすぎているような気がする。物を数量化することは、十七世紀のデカルトやニュートンによって普遍化した。面積や体積のような空間的測度の上に、物質や電気のような量がのっているという構図は、今ではなじみ深い。そして、運動を変化させるものとしてニュートンは力をとらえた。 ところで、力学はニュートンのライバルのライブニッツの系統で、エネルギー中心に発展した。エネルギーというのは、力の源である。金の力と言うが、金が力を生むと考えればエネルギーのほうがふさわしい。十九世紀には、エネルゲティクと言って、ものごとを物よりエネルギー中心に考えようとした考えがあったし、今ではエネルギーは日用語となっている。そして、物をエネルギーに包摂したのがアインシュタイン。 エネルギーは、熱が伝わっていく現象から確定していった。形を変えながらも保たれているものとしてのエネルギー。エネルギー概念は、変容して流通していくなかで保たれているイメージで、こちらのほうがたしかに、お金にとってふさわしい。物よりも、むしろエネルギー。 しかしながら、情報を数量化するなら、エントロピーである。こちらは日用語にほど速いし、その扱いのイメージがまだ確定していない。エントロピーが最初に登場した熱力学では、エントロピーに対するエネルギーの変化が温度になる。逆に言えば、温度が一定の世界では、エネルギーとエントロヒーを混同してもさしつかえない。ところで情報化社会というのは、温度がいろいろ変わる社会のようなものだ。毎月決まった給料をもらう会社社会では、温度が一定に保たれているようだが、情報化社会が予想される二十一世紀で、お金を情報として扱うのに、今までのイメージですむだろうか。 もっとも、これは比鳴にすぎない。物だって、エネルギーだって、比倫だとは思うけれど。それにぼく自身、数学のいろんな分野でエントロピー概念に出合ったものの、いまだにそのイメージを確定しかねている。経済学でエントロピー概念を使えばいいものでもなくて、どうもそこでは、エントロピーまで物のように扱いたがる癖がある。 まあこれは、二十世紀の人間にとってはホラでしかない。でも、お金を物のように考えるのは、ぽつぽつやめてよいのではないか。 エネルギーは力の源あるいは物であり、エントロピーが情報であるとすれば、まさに、前者はハード・パワー、後者がソフト・パワーに相当する。また、人々は対象を物として扱うことになれているため、エネルギーが一般に定着しているのに対し、エントロピーはイメージしにくいが、それこそソフト・パワーが誤解を招く点を反映している。 東西冷戦構造の時代には、両陣営の間で平衡状態に達していたため、温度は一定であり、エネルギーとエントロピーが混同されてもかまわない。しかし、1990年以後、平衡状態が崩れ、グローバリゼーションというエントロピーが増大していく。こういった時代背景では、エネルギー的認識ではなく、エントロピー的認識への転換は不可避である。けれども、エントロピーはとらえどころがなく、従来のものの見方に囚われてしまう。 ブッシュ政権は拡散=エントロピー的認識をわからないまま、政策を決定し、運営している。テロリズムや大量破壊兵器の拡散だけでなく、拡散をめぐる政治課題に対してほとんど無策の状態を非難されても返す言葉がない有様である。 〈帝国〉をコモンウェルスに、ソフト・パワーをエントロピーと言い換えること自体にたいした意味があるわけではない。むしろ、それは現代の本質が拡散だということを意識化させるために、行われるべき換言である。 拡散自体が問題を引き起こすと認知されるようになったのは、比較的、最近である。従来の公害問題は有毒物質、ないし汚染物質が拡散しないで、ある領域に高濃度で滞ることによって被害が発生している。他方、新しい環境問題である地球温暖化は(それ自体では必ずしも有毒ではない)温暖化効果ガスが地球規模で拡散することで生じる。地球の持つ浄化作用でどうにかなるというものではない。このように拡散は問題解決ではなく、問題そのものになっている。 拡散現象の過程を把握することは難しい。拡散は現代社会の隠れた地図に従っているからである。拡散は放送・通信を含めた交通空間に沿って起こる。逆に、拡散はそうした交通空間を顕在化させているとも言える。Invisibleな地図を認識しない限り、拡散に対処することはできない。 SARSの伝播は現代の交通空間の様相を端的に示している。2002年11月16日、広東省仏山市で最初の患者が発症したと推測されているが、それが香港に伝わったのは2003年2月21日である。90日以上かかっている。一方、その香港からトロントにSARSが到達するのは2月25日である。SARSはわずか数日で1万km以上を移動している。SARSはグローバルな主要都市間では急速に伝播した反面、ローカルなレベルで緩慢な速度でしか広まっていない。 世界が多様である以上、拡散は一種類ではない。さりとて、世界が均質化したところで、拡散に歯止めがかけやすいというものでもない。拡散現象は偶発的にでもなければ、毎回同じ経路で起こるわけでもない。それは、その都度、潜在的な地図に即している。拡散に取り組むには、地図学的分析が不可欠である。コモンウェルスはこの交通空間を表象する地図である。 拡散をハード・パワー=エネルギーでとめることは賢明ではない。成功したかに見えても、その外部はいっそうの拡散が起きてしまう。ブッシュ政権はまさにこの失敗を犯している。「暴力の仕業は長続きしない」(ソロン『エレゲイア』)。 現代の国際政治にはinvisibleな地図を認識し、それをいかに対処するか検討することが求められる。ソフト・パワーやコモンウェルスはこの課題へのアプローチの一つである。それはたんに現在を捉えるためだけではなく、新たな社会の到来に寄与するものである。われわれは頭を切り替えなければならない。 その場合に、少数民族の文化はどうなるか。これは、それぞれの自治区などより、自治的ネットワークを作ったらどうだろう。北欧三国をこえてのラップ・ネットワークはあるらしいから、オホーツク沿岸全体に日露の国境をこえてのアイヌ・ネットワークの作られるほうが望ましい。インディオ・ネットワークも、アメリカを縦断して作れたらいいだろうなあと夢怨している。この場合、ネットワークのキーワードは、土地ではなくて交通である。 このイメージは、世界連邦や国連中心主義ではないことを注意しておこう。国連というのは、国民間家の存在を前提として、その連合体を考えている。ぼくのイメージは、国民国家の崩壊を前提にしている。今のままで、プリタニア共和国やパスク共和国やカタロニア共和国などがどんどん作られていって、旧ソ連だけで百ぐらい国ができたら、とても国連で処理しきれまい。 (森毅『国民国家の終焉』) 〈了〉 註 <参考文献> Aエドワード・W・サイード、『オリエンタリズム』上下、今沢紀子訳、平凡社同時代ライブラリー、1996年 Bソースタイン・ブンデ・ヴェブレン、『有閑階級の理論』、高哲男訳、ちくま学芸文庫、1998年 Cアントニオ・ネグリ=マイケル・ハート、『〈帝国〉』、水嶋一憲訳、以文社、2003年 Dエリック・ホッファー、『魂の錬金術』、中本義彦訳、作品社、2003年 Eジョセフ・S・ナイ、『ソフト・パワー』、山岡洋一訳、日本経済新聞社、2004年 Fテリー・イーグルトン。『文化とは何か』、大橋洋一訳、松柏社、2006年 G森毅、『たいくつの美学』、蒼土社、1994年 H竹内薫、『熱とはなんだろう』、講談社ブルーバックス、2002年 I小林茂=杉浦芳夫、『人文地理学』、放送大学教育振興会、2004年 J丹羽敏雄=長岡亮介、『数理モデルとカオス』、放送大学教育振興会、2005年
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