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連載 佐藤清文コラム 第25回

格差社会と正規分布

佐藤清文
Seibun Satow

2006年11月23日


無断転載禁
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


「金を得るためには金を使わねばならぬ」。

ティトゥス・マッキウス・プラウトゥス『アシナリア』

 2006年度の税収が当初の見込みよりも34兆円増加することが明らかになりました。先に、日本のGDP成長率が実質で年平均2.4%と発表されていましたが、それを受けた税収増でしょう。

 メディアはいざなぎ景気を超える戦後最長の景気が続いていると報道しています。と同時に、実感を覚える人は、必ずしも、多くはないという街の声も伝えています。

 
20061115日付の朝日新聞は、「時時刻刻」において、いざなぎ景気ならびにバブル景気と現在の景気を比較し、その違いをコンパクトにまとめています。これを見ると、その実感がデータによって裏付けられることが明白となっています。

 例えば、労働者の月給はいざなぎで
79.2%増、バブルが12.2%増に対し、今回の景気は1.2%減です。給料が減っている実態では、働く人々が景気を実感できるはずもありません。

 今回の景気は大きく三つの要因によって支えられていると考えられています。それは米中への貿易の好調さ、低金利、人件費の抑制です。これらの要因に基づく好景気ですから、その基盤は脆弱です。事実、日本の株式市場は、海外と比べて、出遅れています。手放しで喜べるはずはないのです。

 今の経済状況は、貧富の格差が大きく、二極化した社会構成、いわゆる格差社会に立脚した景気だと言っていいでしょう。しかし、これは近代以前の社会への回帰にほかならないのです。

 近代以前の社会の構成は、多くの点で、ピラミッド型もしくはツリー型と呼ばれるヒエラルキーを示していました。政治的発言力、経済的所有、宗教的権威、識字能力などいずれの面でも、一握りの少数者を頂点とし、下に行くほど裾野が広がっていく階層秩序が構成していたのです。

 前近代において、多くの国家経済は農業が中心です。農産物は天候や市場によって生産量・価格が大きく左右されますから、安定した国家財政や生活基盤を築くのが困難でした。慢性的な食糧不足が続き、人口の増加も非常に緩慢でした。欠乏の時代だったのです。

 この状況を近代が改変します。欧州では、19世紀に入り、小麦の連作法が発見されるといった農業革命が起こり、小麦などの食糧増産が実現した結果、人口が増加し始めます。

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世紀初頭に約18000万人だった欧州の人口は、20世紀初頭には、およそ42000万人に膨れ上がっています。農村の余剰人口を勃興した産業革命によって活気づく都市が吸収し、彼らを工場や港湾などで働く賃金労働者、すなわちプロレタリアートへと変えていくのです。カール・マルクスは、『資本論』の執筆中に、そのシステムを「資本主義」と命名しました。

 封建制では職業の選択や移動が大幅に制限されていました。しかし、資本主義が発達するには、人々は身分に縛られずに職業を選択でき、自由に移動できなければなりません。資本主義を経済的基盤とする近代は自由と平等をその理念としたのです。

 近代化を進める国家の経済は農業から工業へと中心が移動します。工業生産物は、農産物と比べて、安定的に供給できますから、国家財政も比較的落ち着きを見せます。

 しかし、その反面、何らかの理由で売れなくなると、各企業は在庫を抱えることになってしまいます。農業中心の経済が供給不足によって落ち込んでいたのに対し、この新しい社会では、供給過剰を原因として恐慌と呼ばれる新たな経済破綻を迎えてしまうのです。近代は過剰の時代なのです。

 供給過剰が起きないために、できるだけ商品や工業生産物を購入してもらわなくてはなりません。人々が移動と職業選択の自由を保障されるだけでなく、自由に商品やサービスを売買できないと、資本主義は存続できません。

 この循環の中で、労働者は自らの労働力を売る立場のみならず、購買者です。資本主義は労働者からただ搾取していては先細るだけであり、購買力のある消費者としての労働者を育成しなくてはならないのです。

 この資本主義を効率よく動かしていくには、ピラミッド型の社会構成では不十分です。より多くの消費者を増やすために、中間層を拡充する必要があります。商品・サービスを買うことがでるように、企業は従業員に給料を支払わなくてはならないのです。資本主義は中間層の体制です。

 この体制を発展させていくには、封建制が前近代的な社会構成によって正当化されていたように、経済力だけでなく、他の面でも中間層を中心にした社会構成を変えなくてはなりません。為政者は普通選挙を実施して政治参加者を増やし、公教育を通じて識字率を上げていったのです。

 その理念を具象化するのが「正規分布(Normal Distribution)」です。これは考察したカール・フリードリヒ・ガウスにちなんで「ガウス分布(Gaussian Distribution)」とも呼ばれます。資本主義ならびに近代が基づくのはこの正規分布の社会構成なのです。

 けれども、このガウス分布は神の見えざる手によって自動調整されて、形成するのではありません。

 資本主義には投機性=ギャンブル性があります。これによって資本主義は活性化しますが、その前提を崩してしまう危ういものです。ギャンブルには、アンドレイ・ニコラエヴィチ・コロモゴロフの業績を見るまでもなく、麻雀やポーカーがお好きな方ならわかると思いますが、勝ちと負けしかなく、引き分けはありません。

 資金に余力のある者とない者がギャンブルをした場合、前者が有利です。と言うのも、大金を用意できる人は少々負けても、ギャンブルを続けられますが、金の余裕がない者は負けたら終わりですし、そもそも持ち合わせが足りなくて、それに参加できないことさえあるからです。

 資本主義は正規分布に依拠しながらも、ピラミッド型を招いてしまうのです。一度生まれたこのヒエラルキーは固定化してしまいます。貧乏人はいつまでたっても、貧乏なままで、「働けど働けど我が暮らし楽にならずじっと手を見る」ことになるのです。

 こうした二極化は近代の理念に反してしまいます。それは資本主義体制の正当性を奪うことにもなります。そのため、政治的介入によってヒエラルキーをつねに流動化させ、社会構成を正規分布にしなくてはならないのです。

 資本主義は自分自身ではその理念を具現できないという矛盾を抱えています。この意味で、資本主義は完全なシステムではありません。資本主義は、存続するためには、政治による介入が不可欠なのです。

 近代における政治の課題は、社会構成の正規分布曲線の軌跡をいかに形作るかにかかわっています。それがピラミッド型に舞い戻ってしまうとしたら、その政治は失格でしょう。

 戦後日本は、久しく、中流社会と呼ばれてきました。それは近代の理念に忠実だった結果とも言えます。しかし、内外の政治的・経済的・社会的変化に伴い、秩序の再構成の必要に迫られました。

 政財界がそれに対応すべく動きましたが、その結果、誕生したのが格差社会でした。けれども、それは、近代が正規分布の時代であり、資本主義が抱える自己矛盾のために政治的介入を前提とすることを理解していない政策の帰結にほかなりません。

 安倍晋三内閣総理大臣は、格差社会解消のため、再チャレンジ推進会議を開催しています、しかし、政治家自身の世襲特権を手放すことこそが再チャレンジにつながるというアイデアを検討しないのは、不思議でなりません。

 何しろ、政界ほど世襲が横行している業界もないのです。

 青山貞一氏のコラム『大マスコミが書かない「二世」、「三世」議員による総理たらい回し
』によれば、安倍首相も含め、国会議員〜特に、自民党議員〜の多くが二世もしくは三世です。正規分布が反映されていないのです。

 思い起こしてみれば、
55年体制成立以降、自民党が野党だった時期はほんのわずかです。中流社会と見なされながら、実は、政治においてはヒエラルキーが形成されていたのです。介入によって経済的・社会的ヒエラルキーを解体しなければならない政治が、それを最も続けているのです。

 流動性の最も乏しかったのが政界であり、その彼らが自分たちの世襲が社会の活気を奪っていた原因の一つと見なさず、構造改革や再チャレンジを口にしているのですから、それはたんなる温情にすぎません。「裃を着た盗人」とはよく言ったものです。

〈了〉

(註)正規分布とは
正規分布に関しては、ウィキペディアの「正規分布」の項目ならびに高精度計算サイト・計算式ライブラリーを参考にしてください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%8F%E5%88%86%E5%B8%83

http://has10.casio.co.jp/has10/SpecExec.cgi?id=system%2f2006%2f1161228882

参考文献
福井憲彦、『近代ヨーロッパ史』、放送大学教育振興会、2005