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人格権と監視社会

佐藤清文
Seibun Satow

2006年11月28日


無断転載禁
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


「人間は神聖な存在どころではないが、しかし彼の人格に存する人間性は、彼にとって神聖でなければならない」。
          
         イマヌエル・カント『道徳形而上学原論』

 基本的人権の中に、「人格権(personal right)」というものがあります。プライバシー権や名誉権、氏名権、著作者人格権などが含まれる新しい人権概念です。英語の方が意味としてはわかりやすいというのが正直なところです。法曹界でも、現在、その適用範囲をめぐって議論されています。

 著作者人格権を例にとってみましょう。これは、著作権との関係があるため、少々事情がこみいっています。日本の著作権法は両者を別個の権利としています。

 著作権は財産権に含まれ、著作者人格権は個別的人格権の一種です。一般的に著作物は著作権でのみ理解されているため、著作権さえ侵害しなければいいだろうと著作物がぞんざいに扱われているケースも少なくありません。

 しかし、著作物も著作者の一つの人格的側面であることは間違いなく、それらは人の内面性に対する敬意の欠如と言わざるを得ません。もちろん、バーレスク・パロディ・パスティッシュは重要な表現方法ですから、尊重されなくてはなりません。そのため、線引きが非常に難しいのです。両者を一元的な権利と考えるべきだとする学説もあり、そういう判例も出ています。

 近代において、人間の外面と内面は区別されます。権力は人々の外面を問題にしても、内面を問いません。日本の内閣総理大臣は衆議院議員であることが絶対条件ですが、その人物がキリスト教徒だろうと、イスラム教徒だろうと、仏教徒だろうと、無神論者であろうとかまいません。思想信条の自由は、この分離に基づいた不可侵の人権です。

 人間の人格的側面は外界との関係を通じて表象されます。それは内面の一部でもある以上、近代の原則に即せば、法の保護の対象となります。人格権をわざわざ法的に規定しなければならないのは、そうしないと内面が侵害されてしまうからです。

 近代社会は、従来から、「管理社会(controlled society)」と呼ばれてきました。しかし、現代の社会は内面までを監視されています。その意味で、「監視社会(watched society)」だと言っていいでしょう。

 管理と監視は似て非なるものです。管理が外面のみの規制を指すのに対し、監視は内面も含めた支配・統率です。

 デジタル技術の発達はこれまでにない監視を可能にしてしまいました。盗撮・盗聴は言うに及ばず、著作物の複製・加工も容易です。一般には犯罪とみなされていないことも、実は、監視に含まれるのです。

 タクシーや宅配便の運転手は詳細な運行記録をとられています。また、内勤のサラリーマンや
OLは電子メールの内容やブラウザーの履歴を簡単に調べられる立場に置かれているのです。

 かつてジョージ・オーウェルは、反ユートピア小説の傑作『一九八四』(1949)の中で、”Big Brother is watching you(偉大なる兄弟があなたを監視している)”と書きましたが、今や”Bit Brother is watching you’(電子の兄弟があなたを監視している)”が現実化しています。

 人格権は、まさに、こうした監視社会から個人の内面を保護するために、求められるようになった人権なのです。ところが、権力から監視される社会ではなく、権力を監視する社会へと変更しようと市民が活動し始めると、人格権を権力に都合のいいように歪曲しようとしています。

 プライバシー権の侵害として、自分たちの不正を見えなくしてしまうのです。けれども、姿を隠したところで、腐敗するかどうかは、その匂いで人々は気がつくものです。「腐った百合の花は雑草よりも悪臭を放つ」
(ウィリアム・シェークスピア『ソネット』)のですから。

(了)

参考文献

イマヌエル・カント、『道徳形而上学原論』、篠田英雄訳、岩波文庫、1976

斉藤博=作花文雄=吉田大輔、『現代社会と著作権』、放送大学教育振興会、2002