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覚えることと学ぶこと

佐藤清文
Seibun Satow

2007年1月19日


無断転載禁
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すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


「アブナイ教師の二大ヴォキャブラリーとして、『元気を出せ』、『おれについてこい』がある。現代社会の精神病理として、こうした言葉を平気で口にされるのが気になる。リーダーシップ願望というのは、安心を求めているのだろうがとてもアブナイ」。

森毅『みんなアホでええやないの』

 政府の教育再生会議が来週とりまとめる第一次報告の最終案の骨子が、2007118日、明らかになりました。

 ゆとり教育の見直しや生徒の出席停止をメディアは話題としています。全般的にその内容は、専門家から見れば、アナクロニズム以外の何ものでもないでしょう。メンバーは今日の教育学の流れをまったく知らないことは間違いありません。

 なるほど、非専門家が専門家の陥った迷路からの抜け道を示してくれることもあります。米大統領選出馬への準備を進めているバラク・オバマ上院議員は、素人くささをセールス・・ポイントにしています。

 彼は、政治経験の浅さを問われると、専門的な知識・経験を持ったドナルド・ラムズフェルド前国防長官がイラクの泥沼へアメリカを導いたと反論します。

 しかし、大統領は最終判断を下す立場であって、個々の政治課題の検討については専門のスタッフに任せています。

 教育は身近ですけれども、高い専門性が要求されます。教育において、次の二点から、実験は厳密にはできません。実験は、仮説を立て、その因果関係を実証するために、行われます。

 それには、できる限り、他の変数を排除する特殊な環境が不可欠です。現実とは異なる実験室で得られた結果ですので、そのままで現実に応用することには無理があります。

 また、その結果を確証するために、反証実験、すなわち負の実験も必要となります。しかし、教育で、こうしたら生徒が悪くなったなどという実験はできるものではありません。

 こうした実験の不可能性により、すでになされた教育実践を専門家が慎重かつ詳細に分析し、反省的に方法論を再提起する過程が教育には欠かせないのです。非専門的な思いこみを現場に持ちこむ乱暴なことはできません。

 基礎学力向上のために習熟度別学習の導入を提言しています。しかし、それが学力の向上に役立たないどころか、学力を低下させることが疾うの昔に明らかになっています。これは習熟度の高低に関係ありません。上位も下位も、いずれの場合も低下するのです。

 習熟度別編成は中等教育に採用されてきました。近代以前、学校教育は初等と高等の二つに分かれていましたが、近代に入り、両者をつなぐものとして中等教育が導入されました。

 これは階段を登るような課題には適しています。自動車学校は習熟度別指導を採用しています。第一段階を踏まえた後に、第二段階へ進みます。そこでは、具体性の強いある技術・知識を覚えることが求められます。

 習熟度別編成が失敗した理由は簡単です。子供の能力・個性・文化がそれぞれに異なっているからです。最適な教育プログラムや方法は生徒個々によって違います。

 この現実に対応するには、習熟度熱に同一集団を編成させるのではありません。子供の能力・個性・文化の多様性が相互に学び合いを引き出す「協同学習
(Collaborative learning)」です。多様性が相互の学びを触発するというのは数多くの調査研究が実証しています。

 個性を重視するには、教師が個別に指導すればいいというのは素朴な見方です。それは教育を学ぶではなく、覚えるものと考えているだけです。

 教育のアポリアの一つに教えることの不可能性があります。すべてを教えることなどできません。教えることができないものを覚えさせることは不可能です。しかし、教えられないことを学ぶことはできるのです。

 再生会議の教育提言は「学ぶこと」から練られたものではありません。この認識がアナクロニズムなのです。

 そもそも、習熟度別学習は学びにおいて個人主義的です。これは、再生会議が掲げるすべての子供に規範意識を教えることの提言に反しています。教育提言をする前に、メンバーはその矛盾に気がつくことを学んで欲しいものです。

〈了〉

参考文献

佐藤学、『改訂版教育の方法』、放送大学教育振興会、2004

森毅、『ぼくはいくじなしと、ここに宣言する』、青土社、2006