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ブログの思想
〜エリック・ホッファー〜



佐藤清文

Seibun Satow

2007年4月11日


無断転載禁
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


2006912

 今日はあの日から5年目に当たる。あれは第二のブラック・セプテンバーである。合衆国政府は、テロ掃討を理由にアフガンとイラクへ派兵したが、効果覿面だったと言えず、おまけに、その余波で核の封じ込めまで失敗している。

 怒りにかられて、ハード・パワーで解決しようとしたのはやはり短絡的である。「すぐに行動したがる性向は、精神の不均衡を示す兆候である」
(『情熱的な精神状態』)。イラク戦争はベトナム戦争とのアナロジーで語られるが、停戦の交渉相手がいないという点では、ソ連のアフガン侵攻に近い。いや、開戦の正当性のなさでは、それ以下だろう。

 911以後、アメリカ=「帝国」論が流行したが、視点がハード・パワーに限定されていて、幅広く考える別の概念が必要だ。ただ、アントニオ・ネグリ=マイケル・ハートはアメリカを帝国自身ではなく、その表象であり、帝国がグローバルなレベルに達し、固定された境界のない最高度に拡張した脱属領化だと言っている。RUは史上初めてのソフト・パワーによる欧州の統合である。

 それ以前の統一への野望は、古代ローマからアドルフ・ヒトラーに至るまで、ハード・パワーに基づいている。
20世紀は「魅力によって望む結果を得る能力」(ジョセフ・S・ナイ『ソフト・パワー』)のソフト・パワーの重要さが顕在化した時代である。アルカイダを代表とするイスラム主義者の連携もソフト・パワー的現象であろう。

 大英帝国が終わって英連邦が誕生した歴史を考慮すれば、「帝国」ではなく、ソフト・パワーによる連合を含む「コモンウェルス
(Commonwealth)」を使うべきである。

 加えて、「ハード・パワー」や「ソフト・パワー」という概念よりも、前者を「エネルギー」、後者を「エントロピー」とそれぞれ言い換えるのが賢明である。エネルギーは力の源あるいは物であり、エントロピーは情報を指す。対象を物として扱うことになれているため、エネルギーが一般に定着しているのに対し、エントロピーはイメージしにくいが、それこそソフト・パワーが理解されにくい点も反映している。

 「帝国」の発想がエネルギー=物質であり、「コモンウェルス」はエントロピー=情報に基づく。「帝国」は普及し、「コモンウェルス」が浸透しないのは当然だろう。

2006913

 雨が続く。ただ、湿気のおかげで、眼が楽だ。眼のことを考えない日は一日たりともない。両方の視神経ともに半分以上もすでに萎縮し、いつも失明の恐怖に怯えている。ものの見え具合で、視力を失いながらも、充実して生きている人もいるというのに、愚かにも、一喜一憂している。

 それを忘れているとき以外は、緑内障との勝ち目のない戦いを続けている。戦いは心理の中で始まり、心理の中で終わるものだ。フリードリヒ・ニーチェの気持ちがよくわかる。

 汗をかくために、夕食にはエスニック料理をつくる。ビーフンとエビの炒め物、ささみとナンプラーのサラダ、キムチと春雨のスープを食卓に並べる。

 ホッファーは、他人を指導する気がない以上、自身を知識人ではないと訴える。その彼は知識人を批判しながら、『波止場日記』において、「独善」と「他人蔑視」に陥らないように自らを戒めている。知識人排撃は、ポル・ポト派の暴虐がおぞましくも告げているように、テロや大量虐殺に繋がることもしばしばである。「独善」と「他人蔑視」を慎み、禁欲的に振舞うのをいつも思い起こすことだ。

2006914

 今日も雨だが、夕食にイタリア料理を作る。アサリとブロッコリーのパスタ、ツナとマヨネーズのマカロニ・サラダ、ジャガイモとエビのトマト・スープの出来は悪くない。

 ここのところ、食卓にエビが並ぶのが続いているが、エビは今高騰し続けている石油と関係があるらしい。「油田」と言うけれども、実際にはその大部分が海底油田だ。世界各地にそれらは点在しているが、それらの間には一つの共通点がある。エビの良質な漁場だということだ。これは油田の発掘をしている関係者にはよく知られているけれども、その原因はいまだに不明のままだ。名古屋の名物が「エビふりゃあ」だから、トヨタで栄えたかどうかは定かではない。

2006915

 昨夜赤ワインを飲みすぎたせいか、朝からだるい。何も浮かばない。「人間の価値は、引き裂かれた複数の自己認識にある」(『人間の条件について』)

 夕食にはバンバンジーとエビチリ、ジャガイモの味噌汁を作る。しかし、エビは今日でおしまい。

2006916

 一新塾で行う講演のことで、緊張してよく眠れない。DVD『エルヴィス・オン・ステージ』を見て気合を入れ、練習を10回、夢の中も含めれば、12回にも及んだが、午後230分から始まった講演は、挨拶するときのウィリー・ウォンカのようになり、空回りして大失敗に終わる。二度と呼ばれることはあるまい。

2006917

 ローマ法王ベネディクト16世がジハード概念を批判し、それに対する反発が世界各地に広がっている。無益な宗教対立を抑えなければならない立場なのに、極めて不用意だ。彼は、1933年に母国で権力を掌握した人物が何を言ってきたかをよく承知しているはずである。「礼儀の正しさはある程度の客観性と相互の妥協がなければ成り立たない。

 ある絶対的な真理に一生懸命かじりついている人間は悪魔以上に妥協を恐れる。そういう人間は自分と他人をしっかりと結びつけ自分の非妥協的な構えをぼやかしそうな人当たりのよい礼儀の発現を抑える。したがって、ある信念がその力を失うと、しばしば無作法がそれにとって代わるのである」(『波止場日記』)。

 さらに、石原慎太郎東京都知事がまた「三国人」と発言したと知る。佐藤春夫がデビュー当時の彼を「興行師」と酷評したが、この有様では興行師に対しても失礼だろう。

 「ナショナリストがもつプライドは、他のさまざまなプライドと同様、自尊心の代用品になりうる。ファシズムや共産主義体制下にある民衆が盲目的愛国心を示すのは、彼らが個々の人間として自尊心を得ることができないからである」
(『情熱的な精神状態』)

 マルクス・ポルキウス・カトー・ウティケンシスにしろ、マルクス・アウレリウス・アントニヌスにしろ、政治家のストア主義者は少なくない。ストア主義は感情の抑制を唱える。感情は過剰な衝動であり、人は感情から自由であることは難しい。政治家たるもの、感情に訴え、扇動するなどと言語道断だ。政治家はストイックであらねばならない。

 厳格主義と世俗主義の調停を図るストア主義者の目標は賢人である。賢人は知識人ではない。徳に従って生きており、人間の本性に対する対処を心得ている。ホッファーが目標としていたのはこの賢人である。

 台風13号が接近しているため、午後から雨が降り出し、夜には、激しくなる。

2006918

 朝起きたものの、ひどい疲労感のため、もう一度床に就き、午後1時まで眠る。両腕共に重く、上がらないだけでなく、力が入らない。無為な一日を送る。

2006919

 道路工事の騒音と振動で、よく眠れず、午前中ボーっとする。9月と思えぬほど蒸し暑い。

 ジョージ・W・ブッシュ大統領がジハードを批判したローマ法王を擁護したという記事をグーグル・ニュースで見る。さすがイスラム圏への派兵を「十字軍」になぞらえた政治指導者である。火に油を注ぐとはこのことであり、原油価格が高騰している中、貴重な油をそんなのに費やすのは不見識である。「無知は極端に走りがちである。これはおそらくあたっているだろう。自分の知らないことについての意見はどうもバランスのとれた穏健なものではなさそうだ」(『波止場日記』)。

2006920

 文化放送からクーデターがタイで起きたと聞く。「維持するよりは築く方が容易なのだ。活気のない、衰弱した国民でさえ、なにか感動的なことを達成するためにしばらくのあいだ活気を帯びることがありうる。だが、四六時中物事を良好な状態にたもつために費やされるエネルギーは、真の活力をもったエネルギーである」(『現代という時代の気質』)。

2006921

 今日で3日連続して暑い日が続いている。

 23日から上野の森美術館でダリ回顧展が始まることを知る。サルバドール・ダリはアメリカで最初に受け入れられたが、それにはガラの力が大きい。ダリはガラというプロデューサー兼マネージャー兼ミューズによる匿名である。これは20世紀における芸術活動のあり方を端的に示している。この三者がいなければ、芸術は生まれ得ない。

2006922

 両親がやってくるため、軽く掃除をする。

 東京地裁は、昨日、卒業式や入学式などで、日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するよう義務付けた東京都教育委員会の通達は違憲違法として、都立学校の教職員等401人が義務がないことの確認を求めた訴訟において、原告全面勝訴の判決を言い渡している。難波孝一裁判長は国旗国歌の生徒への指導が有意義であることを認めつつ、懲戒処分などを背景に教職員に強制するのは「行き過ぎた措置」と明確に断じている。

 20041028日、園遊会の席上、東京都教育委員を務める米長邦雄棋士が「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と話しかけた際、天皇は「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね」と答えている。すると、彼は「もう、もちろん、そう、本当に素晴らしいお言葉をいただき、ありがとうございました」と慌てて相槌をうっている。

 しかし、強制は続いている。「自由に適さない人々」は押しつけがましく、他人を放っておけず、権力を志向したがる。強制による教育はその質的向上にはマイナスだ。「他人に対する不正を防ぎうるのは、正義の原則よりもむしろ思いやりである」(『情熱的な精神状態』)。

 夕食には、両親と荻窪ルミネの饂飩四國で釜揚げうどんを食べる。

2006923

 朝から晴れ渡り、湿度が低く、快適な日で、妹と弟夫婦のマンションへ姪に会いに行くには絶好の日和だ。けれども、『ぐりとぐら』のシリーズを持参するも、すぐに眠ってしまう。「じー。子供だから読めませーん」。姪は立てばペンギン、座れば子犬、歩く姿はアヒル。「真に成熟するとは5歳のときの自分に戻ることだと考えている」(ホッファー)

 夕食には、両親と荻窪大漁苑でコース料理を味わう。「食育」が最近叫ばれているが、和食や日本食への回帰を指しているとすれば、それは偏狭である。日本の食文化の歴史を辿ってみると、純粋な和食や日本食など存在しないのは明らかだ。文化の交流と融合の歴史の表象である。

 日本は政治的に稲作を奨励し、肉食を排撃してきたために、日本の主食は米食でなければならないという強迫観念がある。実際には、米ではなく、蕎麦や小麦を主食にしている地域も少なくない。また、広大で幅広い中国の影響を受けており、極めて多様な食文化が発達している。食育は多様性を感じさせるために、とり入れるべきだろう。


2006924

 両親を見送りに、中央線に乗ろうとすると、午前1111分に武蔵小金井駅で人身事故が起きたため、ダイヤに狂いが生じている。普段より15分以上余計にかかって東京駅に到着する。東京駅構内の回転寿司うず潮で、少し遅いランチをとる。

 中央線は飛び込み自殺が多い。自殺者は停車間際に身を投げるそうだ。死ぬのであれば、通過する電車へ飛び込む方が確実だろうが、恐怖感があり、なかなか踏みきれない。

 また、中央線は、小田急線などと比べて、ダイヤが狂いやすいことで知られている。鉄道のダイヤグラムを組む人を「筋屋」と呼ぶけれども、本線と接続しているなど彼らの腕だけではどうのもならない事情があるらしい。

2006925

 明日から雨になる予報のせいか、気分がブルーのままだ。それに、図書館へそろそろ本を返しにかなくてはならない。しかし、家から出る気がしない。

 ホッファーはありとあらゆる本を読んでいる。それは百科全書派の姿である。啓蒙主義者は彼の言う知識人とは違う。彼らは自律した知識の学習と共有を目指したのであって、無知な民衆を指導しなければならないと考えていたわけではない。「何でも知ってやろう」というわけだ。

 しかも、ホッファーは図書館の傍の部屋を借り、そこで本を読む。彼は近代の理念に忠実であるが、所有と競争の資本主義的原理に否定的であり、欲望にも慎重である。その意味で、彼は、確かに、資本主義体制に対しミスフィットである。

 「真に『もてる者』とは自由や自信、そして富さえも、他人から奪わずに獲得できる人たちのことである。彼らは自らの潜在能力を開発し適用することで、これらすべてを獲得する。これに対して、真の『もたざる者』とは、他人から奪わなければ何も得ることができない人たちである。彼らは他人から自由を奪うことによって自由を感じ、他人に恐怖心と依存心を植えつけることによって自信を深め、他人を貧しくすることによって裕福になる」(『情熱的な精神状態』)。

 エリック・ホッファーは百科全書派の指し示した近代の理念を忠実に目指したのであり、近代のあるべき姿を提示している。今、ホッファーを読む意義はそこにある。

 ウェブ上で、独善と他人蔑視にとりつかれた情熱的な精神状態が暴れている光景を目にすることがある。それはホッファーのプライドをめぐる分析通りである。ネット社会も百科全書的な近代の理念によって可能になっているのであって、自律と禁欲が欠かせない。ホッファーはブログの思想として、依然、新鮮に必要とされている。

2006926

 今日で、小泉純一郎政権が幕を閉じる。自民党の派閥(faction)を解体させ、派閥主義(factionalism)を終焉させたが、その代わり、多くのグループ(clique)が乱立してはいるものの、無批判的な政党に変容させている。「改革者は変革の擁護者だとみなされているが、実際には変わりうるものすべてを軽蔑している。変わりうるものとは、腐敗し劣っているものだけである。

 改革者は、永遠不変の真理の保持者であることを誇りにしている。変革へと彼を駆り立てるのは、実在するものへの敵意である。彼はいわば現実に侮辱を加えているのである。変革への情熱が、多くの場合、破壊的になるのはこのためである」
(『情熱的な精神状態』)

 小泉政権を支持したのは自作農や商店主などの自営業者、すなわち旧中間層ではなく、サラリーマンなどの新中間層である。新中間層は旧中間層は税金を正しく納めておらず、自分たちを搾取される社会集団と考えている。大衆も一様ではない。大衆の時代に登場した新中間層は大衆でありながら、それとは違うという上昇志向がある。中流意識はこの新中間層の意識であり、大衆の意識ではない。

 振り返って見ると、彼の政治手法は1829年から37年まで在任した合衆国第7代大統領アンドリュー・ジャクソンによく似ている。

 小泉首相は、主観的信念に基づいたジャクソンの政治を日本で再現した皇帝にほかならない。彼の政治を要約するならば、「主観性の政治」となるだろう。

 「極端に行動し考えるには、演劇的なセンスが不可欠である。過剰な行動とは、本質的に身ぶり手ぶりである。自分自身をある芝居を演じる俳優とみなせば、極端に残酷になることも、寛大になることも、謙虚になることも、自己犠牲的になることもたやすい」
(『情熱的な精神状態』)

 いかなるものにも寿命がある。権力は、それを見据えて、選択肢を遺しておくのが賢明だ。中国は異民族支配の歴史を辿ってきたが、政治にはるきものの失政があった場合、漢民族の民衆は彼らのせいにして、交換できたのであり、他の選択肢を潜在させている。

 夕食には、トルコ風の鶏肉の串焼きをガス・レンジのグリルで試してみる。出来は悪くない。

2006927

 朝は晴れていたものの、予報通り、雷雨となったが、午後からは雨がやむ。

 Asahi.comや東京新聞のサイトで、合衆国政府が、26日、イラク戦争とテロの関係について分析した「国家情報評価(National Intelligence Estimate: NIE)」の結論部分の機密指定を解除した記事を読む。イラク戦争が「イスラム世界への米国の干渉に対する深い恨みを生み、地球規模のイスラム過激派運動への支持を拡大させた」と分析した上で、今後5年間は、イスラム過激派が拡大を続けるだろうと予測している。

 この「地球規模のテロの傾向─米国にとっての影響」は、
CIAなど米政府の16機関の総意として、国家情報評議会(National Intelligence Council: NIC)が今年の4月にまとめていたものの、極秘扱いとされていたが、ニューヨーク・タイムズ紙が24 日にすっぱ抜き、ブッシュ政権が失策をごまかしているのではないかと疑惑が持たれている。

 同報告書は「米国の対テロ努力がアルカイダの指導部を大きく傷つけ、作戦を妨害してきた」と評価しつつも、イスラム過激派全体は拡張していると指摘している。

 特に、「イラクにおける『聖戦』が、新しい世代のテロ組織指導者や作戦員を生んでいる」と強調し、イスラム過激派がイラクで勝利を収めたと感じるようになれば、「より多くの戦闘員が活気づき、ほかの場所でのテロ闘争を継続するだろう」と警告している。

 「運動は全て、それらに家族的類似を与える一定の本質的な特徴を共有していると主張するのである」(『大衆運動』)。

 日本語の「情報」は二つの英単語の訳語として使われている。元々、「情報」はフランス陸軍の用語の訳語に由来している。「情報」には、”information””intelligence”の二つの訳語を兼ねている。前者に相当する情報収集能力は二次的なものにすぎない。

 ブッシュ政権の失策を省みることなく、どうも日本政府は前者しか考えていない。むしろ、後者の能力がより重要である。本をいくら買っても、それを読まなければ、積読にしかならない。批評に基づく分析力を先に強化するべきだろう。

2006928

 東京駅内の変電所停電により、京葉線が復旧していないことは知っていたが、東京駅に到着する頃には何とかなっているだろうと思っていたものの、その予測は外れる。仕方がないので、友人と東京駅から大手町駅まで歩き、そこから東西線で浦安に行く。

 人ごみに押されながら浦安の駅前に出ると、テレビ局や新聞社の記者が取材をしたり、カメラを群集に向けていたりしている。上空の取材ヘリの音がやかましい。『地獄の黙示録』のマーティン・シーンになった気がして、ロバート・デュヴァルを探したくなる。

 バスは2時間待ちだと人から聞かされたので、交番で道を尋ね、徒歩で、舞浜駅へ向かう。この日は9月だというのに、最高気温28℃の予報通りで、太陽が恨めしい。乾燥しているので、日陰を探しながら、進む。50分ほど歩き、今朝立てた到着予定時刻の12時を1時間ほどすぎている。ふと見ると、青い半袖シャツから出た腕が赤く日焼けしている。

 生ビールを一杯飲み、一息つく。どちらにしようかと迷っていたが、少しのんびりしたくなり、東京ディズニーシーに決める。到着した頃にはもう2時だ。

 「アクアトピア」で水浸しになる。靴の中にまで水が入ってしまう。立て看板の「水に濡れる」は正しくない。これは「水を浴びる」だ。

 ジェットコースターに乗るのは厳しくなっている。落ちる時がいけない。子供向けの「フランダーのフライングフィッシュコースター」で十分だ。

 「インディ・ジョーンズ」に満足した後、駅が混雑すると予想し、早めに帰路につく。京葉線が復旧していたものの、ダイヤは正常から遠く、通常は15分程の所有時間が48分以上もかかって、9時近くに東京駅に到着する。KIOSKで売られている夕刊紙の「桑田スペインへ」の見出しが目に飛びこみ、「『桑田』ってサッカー選手いたっけ?」と一瞬悩む。

 乗客は電車がほんのわずかでも動いている方が、止まっている時よりもほっとしている。いつかは目的地に辿り着けると思えるからだ。

 夢や理想というのもそういうものだろう。ディズニー社のテーマ・パーク事業はウォルト・ディズニーの夢あるいはユートピアの現実化と言える。

 断片的な思想家は、概して、将来のヴィジョンを示すことが得意ではない。ホッファーも例外ではない。彼は、ユートピアの建設者は知識人であるという信念の下に、それに慎重である。とは言うものの、ホッファーは現体制にまったく問題がないとは考えていない。

 デビュー当時のホッファーがそうであるように、断片的思想家は、その解体性のため、辛辣さやシニカルさが目立つことが少なくない。ブログにも、時折、そうした傾向が見られる。けれども、次第に、ホッファーは、アンドレ・ブルトンが切断の芸術であるダダイズムからその浮遊を自由に接合するシュルレアリズムへと発展した通り、細切れをつなぎ合わせ始める。しかし、それは絶対的なものでも、他人に押しつけるものでもない。一つの「構想された真実」である。

 ホッファーは、『現代という時代の気質』において、「通常、現在の体制に変えるものを考えようとするとき、選択の対象は、単独にしろふたつ以上の結合にしろ、教会としての社会、軍隊としての社会、工場としての社会、牢獄としての社会、学校としての社会のいずれかになる」とし、その中で「学校としての社会」を選ばなければならないと自らのヴィジョンを次のように述べている。

 まず、北部カリフォルニアの一片と南部オレゴンの一片からなり、カリフォルニア大学によって運用される試験州からはじめることにしよう。それを失業者の州と呼び、そこに入ってきたものは誰でも自動的に学生なれることにする。

 州は多数の小さい学校区に分割され、各区はその天然、人間資源の実現と開発も義務を負わされる。生活必需品の生産はすべてオートメ化される、というのは生活の主要目的は人々が学び成熟することにあるからだ。

 学校区を小規模にするといったのは、人間の能力の開発には異なった興味、技能、趣味をもつ人々がお互いに知りあい、毎日のようにつきあい、競いあい、対抗しあい、刺戟しあうような社会単位が必要だと確信しているからである。一つの体制から他の体制へ、一つの区から他の区への移行が完全に自由にする結果、人々の選別が継続的におこなわれ、やがて各体制、各区はその最も熱心な支持者によって運営されるようになろう。

 「一国内に二つの社会体系が共存することはわれわれの自由の感覚を強化する」。「なぜなら、自由は、経済、文化、政治の分野における二者択一の可能性にもとづいているのだから。専制がおこなわれていないばあいでさえ、みじめな貧困、政治的無気力、文化的均一性があるところで自由は無意味になるからである」。

 二者択一こそが自由だという主張はいささか短絡的かもしれない。けれども、多様に見える状況であっても、実際には、二者択一か否かという究極の二者択一を含め、人間の思考は二者択一に則っている。多様さは多くの二者択一の組み合わせによって可能になる。自由は二者択一の感覚の中で磨かれていく。二者択一は教会や軍隊、工場、牢獄ではありえない。「学校としての社会」が選ばれて当然である。


2006929

 朝起きると、足が痛い。完全な筋肉痛だ。いびきも珍しくかいていたようで、その音で6時に目が覚める。

 安倍晋三首相は今国会を「教育国会」と名付けようとしている。彼は、教育基本法の変更を望み、サッチャリズムの教育改革を賞賛している。しかし、近代日本の最大の教育問題は政治的課題が教育へとすりかえられてきたことである。教育対教学論争や教育勅語形成を見るだけでも、それは一目瞭然だ。思いつきと思いこみで政治をしてはいけない。「感受性の欠如はおそらく基本的には自己認識の欠如にもとづいている」(『情熱的な精神状態』)。

 学力の向上が求められているが、それはかつてのような量ではなく、質を意味する。けれども、一般に、質を重視すると、平等が損なわれると信じられている。

 ところが、この学力向上の方法は、佐藤学の『教育の方法』(放送大学振興会)によると、多くの研究で共通した結論が導き出されている。それは目標達成型の一斉授業ではなく、テーマ研究型の「協同学習(collaborative learning)」が学力の質的向上と平等を両立させることである。現代はプロジェクトで問題に取り組む時代であるから、そこでのコミュニケーションを通じて公共性も同時に養われる。公共性はコミュニケーションによって形成されるのに、それを「心の問題」として指導することは関係性への視点を欠いた観念論にすぎない。

 フィンランド人リーナス・トーバルスがオープン・ソースのリナックスを公にしたのは、協同作業を企業内部のプロジェクトに限定するのではなく、地球規模に拡大するためである。そこでは消費者であると同時に、開発者であり、広報者である。

 ブログの思想は、そう考えるならば、グローバル規模の協同学習にほかならない。ブロガーは表現・批評・広報を同時に兼ね、電子文芸共和国の公衆であり、百科全書派である。

 学力別編成や個別指導が学力向上にまったく有効ではない。また、競争も効果的ではない。それらはいずれも量の教育の遺物にすぎない。「弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えているのだ。

 われわれは、人間の運命を形作るうえで弱者が支配的な役割を果たしているという事実を、自然的本能や生命に不可欠な衝動からの逸脱としてではなく、むしろ人間が自然から離れ、それを超えていく出発点、つまり退廃ではなく、創造の新秩序の発生として見なければならないのだ」(『ホッファー自伝』)。

 
OECDPISA調査は競争ではなく、協同の学習を用いると、平等と質が両立できると告げている。「弱者の影響力に腐敗や退廃をもたらす害悪しか見ないニーチェやDH・ロレンスのような人たちは重要な点を見過ごしている」(『ホッファー自伝』)。協同学習のフィンランドが平均点や優秀な学生の比率、学力格差、学校間格差などいずれの項目でも最高の値を示している。

 エリート教育を当然視してきたドイツでは、そのトップでさえも、非エリート教育のフィンランドに歯が立たなかった結果にショックを受けている。「若者が教えるのに忙しく、自ら学ぶ時間をもっていないということ、これこそ現代の病癖である」(『人間の条件について』)。

 PISA調査のランクの上位は、たんに2学年1クラスとするだけでなく、同じ内容を二度勉強するスタイルの複式学級を採用している。今日の教育は問題を解くことができることではなく、その意味をわかることを目指している。おそらく文部科学省の官僚はこれを知っている。けれども、信念で凝り固まった政治家は受け入れようとしない。

 「教育の主要な役割は、学習意欲と学習能力を身につけさせることにある。学んだ人間ではなく、学びつづける人間を育てることにあるのだ。真に人間的な社会とは、学習する社会である。そこでは、祖父母も父母も、子供たちもみな学生である。

 激烈な変化の時代において未来の後継者となりうるのは、学びつづける人間である。学ぶことをやめた人間には、過去の世界に生きる術しか残されていない」(『人間の条件について』)。ホッファーの「学校としての社会」は学校社会ではなく、学習社会を意味しているのであり、それは到来しつつある。

2006930

 朝、バングラデシュからの留学生に貰ったスナックを口にする。それは彼女がバングラデシュ独自のスパイスを使った手作りで、見た目と違い、脂っこくない。こういうスパイスの調合は自分ではなかなかできない。

 そう言えば、最近、マレーシア料理の馬来風光美食に行っていない。そろそろ蚊を出さなく出はなるまい。

 杉並公会堂で催されるスペインのソフィア王妃室内オーケストラのコンサートを聴きにいきたいと願っていたが、都合がつかず、断念する。曲目はアントニオ・ヴィヴァルディの『四季』とアストラ・ピアソラの『ブエノスアイレスの四季』、ホアキン・トゥリーナの『闘牛士の祈り』が予定されており、残念でならない。

 しかし、やり残したことがないと感じてしまうのなら、その人にはもう生きる意義が残されていない。後悔は明日を生きるためにするものである。

 「人生の秘訣で最善のものは、優雅に年をとる方法を知ることである」(『情熱的な精神状態』)。