連載 佐藤清文コラム 第37回 従軍慰安婦決議と事実 佐藤清文 Seibun Satow 2007年6月28日 無断転載禁 本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。 |
「事実というものは、歴史家が事実に呼びかけた時にだけ語るものなのです」。 E・H・カー『歴史とは何か』 平沼赳夫元経済産業相と自民・民主両党を中心とする有志議員らは、2007年6月27日、国会内で記者会見し、合衆国下院外交委員会の従軍慰安婦決議案可決について「事実に基づかない対日非難決議は、日米両国に重大な亀裂を生じさせ、両国の未来に暗い影を落とす」と声明文を発表しました。 声明文では、慰安所設置などをめぐる軍当局の関与と慰安婦募集の際の強制性を認めた河野洋平官房長官談話に対し、決議案の根拠となったとして、その経緯を検証すべきだと述べられています。 彼らは、今回の決議案が用意された段階で、すでに「現実の意図的な歪曲」と反論していました。 なお、この件をめぐって、民主党の松原仁衆議院議員が、編集者の西村幸祐との雑誌の来談(http://www.jin-m.com/images/media/ianpu_nankin070618.pdf)で、海外世論工作のために「戦争広告代理店」を雇えと放言しています。 彼らは、いずれの場合でも、「事実(fact)」を頻繁に使っています。けれども、歴史的な問題をめぐり「事実」という概念を用いることは、従軍慰安婦問題以前に、恥ずかしいほどのアナクロニズムだと言わざるをえません。 1988年に日本人として初めてアメリカ歴史学会の会長に就任した入江昭ハーバード大学教授は、『戦争のない世紀のために』において、歴史家の仕事について次のように述べています。 過去には数えきれないほどの事実がある。その中からいくつかを選び、そのあいだに何らかの関連をつけていくのが、歴史家の仕事である。その場合、できるだけ先入観にとらわれず、あるいは政治的な思惑にも左右されずに、自分なりの見方を提供するように努力する必要がある。 自分なりの見方とは何か。歴史家によって異なるが、私自身は一国中心ではなく、グローバル、国際的な視点を通して世界の歴史をとらえるように務めている。そうすることによってこそ、自分の考えをできるだけ多くの国の人たちに伝え、お互いの意見を交換することができるであろうと信じるからである。 今日の歴史研究はあくまでも解釈であって、「事実」を争う客観的判断の追求ではありません。「自分なりの見方」に基づきながらも、「グローバル、国際的な視点を通して」も説得力があるかや論理的整合性が妥当であるかが問われます。 19世紀、歴史研究において事実が偏重されました。自分たちの属する国家の形成の軌跡を確認するために、その基礎付けを示したり、文明における位置付けを行ったりすることが歴史の研究だと考えられていたのです。 しかし、歴史は支配者にだけでなく、民衆の側にもあります。マルクス主義が既存の歴史研究に異議を唱えました。さらに、1920年前後から活動を始めたアナール学派による社会史の衝撃がそうした硬直性を打破しました。 現在では、文献資料は数多くある史資料の一部にすぎません。言うまでもなく、その史資料がいつ、誰によって、何のためにつくられ、残ってきたのかを考証することは不可欠です。しかし、特定の史資料以外は認められないということはありません。聞き取りも重要な史資料なのです。 「事実」を掲げる彼ららしく、その主張の論拠は主に公文書の有無です。しかし、直観主義的に考えてみても、公文書だけに頼っていては、歴史の研究などできないことは明白でしょう。 そもそも、公文書の保存・公開のお粗末さは政府自身が2005年に次のように認めているのです。 近代的公文書館制度は、国や地方の歴史・文化の基盤的制度・施設であるにもかかわらず、わが国においてはその社会的認知が必ずしも十分ではなく、その整備・充実はわが国の国力に比して極めて不十分なまま今日に至っている。 文献資料における意図的と思われる欠落は、近代以前の昔から見られることです。第一回遣隋使(600年)の記述が中国の『隋書』にはありますが、『日本書紀』にはないのです。 従軍慰安婦の存在は認めるとしても、それに軍当局が関与していたり、募集の時に強制性があったりしたという点を先の議員たちは否定し、それを認めた河野談話を責め立てています。 「われわれが歴史的な過去へと接近できるのは個別の問題からでしかない。過去を丸ごと全体として復元するのは、不可能だからである。しかし個別の問題が、全体的な歴史の脈絡の関係でどう理解できるのか、という問いを立てるか否かは、その問題の理解の幅を大きく変えるだろう」(福井憲彦『歴史学の現在』)。 先の議員などが使っている「事実」は、むしろ、「証拠(proofs)」という意味でしょう。彼らを含め、従軍慰安婦の問題をめぐって「反日」を口にする人たちは歴史の登場人物や組織体にヒロイックさを求めているにすぎません。それに都合のいい証拠を集め、構成されたものだけが彼らにとっての歴史です。しかし、歴史は美談ではないのです。 〈了〉 参考文献 ・入江昭、『戦争のない世紀のために』、日本放送出版協会、2000年 ・柏倉康夫=林敏彦=天川晃、『情報と社会』、放送大学教育振興会、2006年 ・内閣府大臣官房企画調整課監修、高山正也編『公文書ルネッサンス─新たな公文書館像を求めて』、国立印刷局、2005年 ・福井憲彦、『改訂新版歴史学の現在』、放送大学教育振興会、2001年 ・E・H・カー、『歴史とは何か』、清水幾太郎訳、岩波新書、1962年
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