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政治報道と演出


佐藤清文

Seibun Satow

2007年6月19日


無断転載禁
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


「人間は、本来、他人をだましながらだまされるように生まれついている」。

リュック・ド・クラピエ・ヴォーヴナルグ『省察と箴言』

 ニコラ・サルコジ仏国大統領はメディアに対して介入するのではないかと危惧されています。

 彼は大手メディアの経営者と親しく、その幹部を通じて記者へと圧力をかけさせているととりだたされているだけでなく、政権とメディアとの人事交流を進めているのです。こうした不安に関して、国境なき記者団のロベール・メナール事務局長は、
200769日付『朝日新聞』によると、次のように答えています。

 大統領には確かに、メディアを制御しようとする姿勢がうかがえる。ただ決してファシストでも言論の自由を踏みにじる独裁者でもない。人当たりがよく、情熱的で才能も魅力もある。だからこそ注意すべきなのだ。

 メディアにとって本当に危険なのは圧力ではない。ジャーナリストが権力を持つ人物に魅力を感じて報道を自己規制することだ。

 定着すると「政治家も財界人もジャーナリストも同じ穴のむじなじゃないか」という意識を市民に芽生えさせ、メディア不信につながる。ジャーナリストが警戒すべきは自らの態度だ。

 この懸念される状況は、まさに小泉純一郎政権が誕生して以来、顕著になった日本のメディアの姿そのものです。「ジャーナリストが権力を持つ人物に魅力を感じて報道を自己規制すること」が半ば常識的となってしまいました。「自己規制」しているという自覚さえなく、規制している有様です。メディアの役割が権力を監視することにあるなどもはや過去の理想にすぎなくなったようです。

 政府・与党は、政策決定を担っているという点だけで、すでにメディアに対して優位な立場にあります。メディアは政策決定側からの公式・非公式の発表をニュースとして流すからです。メディアと政府・与党は依存し合っているとも言えるのです。

 だからこそ、政権担当側にすれば、世論誘導や大衆操作の余地があり、メディアは政権との距離感を意識してとらなければならないのです。

 アメリカで発達したメディア戦略は今や日本の政治でも浸透しています、政府はスキャンダルや失策を矮小化させるために、「スピンドクター」と呼ばれる専門家を雇い、情報を加工させています。また、テレビでとりあげられやすいように、平易でセンセーショナルなフレーズを8秒以内に収め、タイミングよく放つ「サウンドバイト」もその重要な手法の一つです。

 後者は小泉首相のお得意とするところでした。言葉に実体がある必要はなく、あるように感じられればいいというわけです。つまり、メディア戦略はメディア・リテラシーに通じ、それを巧みに使うことです。

 これはメディアを利用しているというレベルではありません。ヤラセが発覚した際に、メディア関係者がよく使ういいわけを借りるなら、「演出」でしょう。

 有権者にしても、こうした演出には気づいています。2007618日付『朝日新聞』によると、同社が実施した世論調査は政治をエンターテインメントとしてとらえている人は少数です。今の年金問題を考慮すれば、当然の反応でしょう。

 政策決定側はメディア・リテラシーを熟知して、演出を行っています。だとすれば、メディアには、自分たちのリテラシーを意識的に受け手に公表しつつ、政権側の演出を演出として解き明かし、政治のリテラシーを報道することが求められえいるのです。青山貞一氏が連載コラム「日本のメディアの本質を考える」で考察していることは、大手メディア自身が率先して明らかにしていかなければならないことなのです。

〈了〉

参考文献

高瀬淳一、『情報政治学講義』、新評論、2005