しょうがない発言と 八月の狂詩曲 佐藤清文 Seibun Satow 2007年7月2日 無断転載禁 本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。 |
童は見たり、野なかの薔薇 清らに咲ける、その色愛でつ、 飽かずながむ。紅におう、野なかの薔薇。 近藤朔風訳『野ばら』 忠雄と良江は縦男、たみ、みな子、信次郎の子供たちに注意します。 これは、村田喜代子の『鍋の中』を黒澤明が映画化し、1991年に公開された『八月の狂詩曲』の一シーンです。なお、クラークを演じたのはリチャード・ギアです。後に、彼は、勇敢にも、ニューヨークで、9・11への報復戦争の開戦に反対するスピーチをしました。 黒澤明が核兵器の恐怖を描いたのはこの作品が初めてではありません。1955年公開の『生きものの記録』でも、原水爆の恐ろしさにとらわれて発狂してしまう男を主人公にしています。また、1990年の『夢』の中でも、原子力の恐怖を扱っています。黒沢監督にとって、核は最も怖れるものであったに違いありません。 しかも、いずれの映画でも、『八月の狂詩曲』にキノコ雲と眼の合成シーンなどはあるものの、核兵器それ自身を映像としてはいないのです。下手な映像表現者であれば、原水爆を直接的な映像で表してしまうでしょう。目に見えぬ恐怖として核兵器を描いているのです。実際、世界の大部分の人にとってはそうなのです。 けれども、体験した鉦お祖母ちゃんにとっては原爆は生々しい記憶です。雷雨を見た瞬間に、鉦は「ピカが来た!」と叫び、翌朝、豪雨の中を駆け出していきます。忠雄、良江、それと4人の孫たちは泣き叫びながら、見えなくなってしまった鉦を追いかけていくのです。すべての音が消え、児童合唱団の『野ばら』の歌声だけが響き、映画は終わるのです。このラスト・シーンは日本映画史に残る感動的なものです。 『八月の狂詩曲』は、展開上の唐突さはともかく、全編を通じて、見えるものと見えないもののコントラストが見事に描かれています。黒澤監督の持つ極めて繊細な映像と想像力に関する感受性に驚嘆するばかりです。 この偉大な映画監督と比べると、2007年6月30日の久間章生防衛大臣はあまりにも想像力を欠いていると言わざるをえません。米国の原爆投下をしょうがないとは長崎出身の防衛大臣の発言としては想像を絶します。折も折、7月1日には、長崎県原爆資料館において、8月に国連へ核兵器廃絶を求める署名を届ける高校生平和大使の結団式が催されているのです。しかし、参議院議員選挙がすぐにひかえている中、松岡利勝前農林水産大臣の自殺について安倍晋三内閣総理大臣がかばいすぎたせいではないかと推測されているにもかかわらず、また同じ対応をとりました。 黒澤明の次の言葉をもっとかみしめるべきなのです。「だから僕よく『想像ってものは記憶である』って言うんだけどね、そう思いますよ。そん中から出てくんだね。何にもないところから何も生まれて来やしないんだよ」。 〈了〉 |