政党政治と選挙 佐藤清文 Seibun Satow 2007年7月22日 無断転載禁 本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。 |
「投票するあらゆる人間そのものにも、それぞれの欠点はある。誰しも真に公平な者はありえない。そういう根本的な欠点は、どこまで行ってもあるのだから、公平に選良が選び出されることはまず殆んどないだろうさ。しかし、要するに、私の町の当選者を決したような浮動標的存在が多くなり、候補者にも常に然るべき人材が出そろえば、徐々にボスどもの影をひそめしめることは確かであろう」。 坂口安吾『或る選挙風景』 「戦後レジームからの脱却」が口癖の安倍晋三内閣総理大臣ですが、政党政治の確立というのも戦後体制の一環です。戦前、政党政治が機能したのは、実質的に、8年間です。明治の元勲たちは政党政治に肯定的ではありませんでした。 実際、近代に入ってからも、当初、政党は必ずしも政治活動における中核組織ではありませんでした。評判も悪かったのです。 合衆国第4代大統領ジェームズ・マディソンは政党を徒党と同一視し、否定しました。大統領に選出される前、彼は連邦制を説く理論家でした。この合衆国憲法の父に言わせれば、政党は狭量かつ目先の利益に囚われ、数にものを言わせて横暴を働き、各政治家の自由な政治活動を妨げる害悪です。 政党は人民が政治参加するための組織として誕生したわけではありません。19世紀初頭のアメリカを視察したアレクシス・ド・トクヴィルは、「地位の平等」をこの体制の最大の特徴と記しました。 政党に肯定的な意味を認めたのはイギリスの思想家エドマンド・バークです。この保守主義のプロトタイプは、『現代の不満と原因』において、「政党とは、ある特定の主義または原則においている人々が,その主義または原則に基づいて、国民的利益を増進せんがために協力すべく結合した団体である」と述べています。 政党を発展させたのは選挙制度です。選挙自身は政党の歴史よりはるかに古いものです。けれども、選挙が大きな意味を持つということはありませんでした。 この選挙民の組織化のために、政党は次のような活動を行います。利益・要求を集約して、政策へと反映させる……政治的人材をリクルートし、政治的リーダーを育成・選出する……政治的理念・主張を広報し、社会化する等です。 近代日本最初の本格的政党内閣は1918年9月に成立した原敬政権だとされています。確かに、政党政治の基礎をつくったのはこの平民宰相ですが、政権交代を前提とはせず、一党優位制を志向していました。政党政治はコンセンサスではなく、多数決によって政権が形成されるものです。 1925年、護憲三派内閣が衆議院議員選挙法を改正し、いわゆる普通選挙法が施行されます。これにより、20歳以上の男子に選挙権、30歳以上の男子に被選挙権が認められました。政党政治の成長は選挙と密接な関係にあるのです。有権者数が増えれば、それだけその組織化が求められるようになるものです。 この8年間は、結局、政党に対する失望を増しただけでした。与党はなりふり構わない多数派工作を繰り返し、それに対抗すべく野党はスキャンダルを暴露、軍や枢密院と連携を強化して倒閣を図り、政権の寿命は平均して一年足らずという有様でした。原敬がつくった政党政治の基礎をすべて潰してしまったのです。1935年5月15日、海軍将校のテロリストの放った銃弾により、犬養首相の命と共に政党政治も葬り去られたのです。 戦後本格的に機能してきた政党政治ですが、自民党の政治力は原敬政友会の手法の延長にあるのです。原敬はインフラ整備を通じて地方に利益誘導して支持層を広げ、人事権を活用した政官財学報界に親政友会の人脈を浸透させました。 そうした状況において、政党のあるべき姿はかつてと同じようにはいきません。NGOやNPOは自分たちの利益ではなく、広い公共性・公益性の実現を目標としています。現代は公の認識が問われ直されている時代なのです。 政党が選挙民の組織化を行う組織であることは間違いないでしょう。しかし、行動心理学的なマーケット理論に基づくコミュニケーション戦略だけに躍起になっている政党もあります。また、マニフェストは、選挙公約と違い、具体的な数値目標を記し、その後の達成度が検証できるようにしていなければなりません。 「あたかも原子兵器のような拡声器はやめた方がよいかと思うが,しかし,お祭り騒ぎ的なところがないと浮動票組の関心がうかないから,お祭り騒ぎを禁止すると、浮動票組は棄権して、ボスの組織だけが却って物を云うかも知れん.表向き理想選挙であるためにボスが出易いような傾向もあるだろう」(坂口安吾『或る選挙風景』)。 連帯民主主義は自然発生的ですが、政党は、それと比べると、目的論的組織です。政党にしかできないことも厳然としてあります。それを生かすためにも、自己絶対化せず、むしろ、自己による意思決定を望む連帯民主主義を補完するために、有権者を組織化すると考えた方がこれからのあるべき姿としてはふさわしいのです。 国民のほうだって、いくらかは政党のファンになってもいいが、野球選手だってトレードで球団を移る。政党のファンになるか、政治家のファンになるか、いやそれだって、いつまでも同じ相手にいれあげる必要はあるまい。移り気は、変動の時代の美徳なのである。 ただし、そのほうが政治的判断について、責任が問われるから、いくらかシビアになりますがね。 「森毅『政党の終わり』」 〈了〉 参考文献 天川晃=御厨貴、『日本政治史─20世紀の日本政治』、放送大学教育振興会、2003年 大越愛子、『フェミニズム入門』、ちくま新書、1996年 小林良彰=河野武司=山岡龍一、『新訂政治学入門』、放送大学教育振興会、2007年 坂口安吾、『坂口安吾全集16』、ちくま文庫、1991年 A・トクヴィル、『アメリカの民主政治』城中下、井伊玄太郎訳、講談社学術文庫、1987年 エドマンド・バーク、『エドマンド・バーク著作集1』、中野好之訳、みすず書房、1973年 松本重治編、『世界の名著40』、中公バックス、1980年 森毅、『二番が一番』、小学館文庫、1999年 J・J・ルソー、『社会契約論』、桑原赳夫他訳、岩波文庫、1954年 |