友愛と市場経済 佐藤清文 Seibun Satow 2009年5月24日 無断転載禁 本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。 |
「しかし、連日睡眠三、四時間という(私は普段十時間位寝ている)過酷な日々にもかかわらず、ほとんど疲れも感じなかったし楽しかった(一つには、ちょうどそのころ阪神タイガースが奇蹟的な十一連勝を続けていたということもあるが)」。 柄谷行人『京都で考えたこと』 蓮実重彦と並んで、1980年代を代表する文芸批評家の柄谷行人は、1992年、上智大学祭で行われた講演『自由・平等・友愛』において、「友愛」について次のような例を挙げている。 友愛について考えるために、一つの例をあげましょう。たとえば、阪神とヤクルトの試合で、神宮球場のレフト側に行ってみて下さい。そこでは、各人が日常ではどんな立場にいようと、一つの「共生感」が生まれている。阪神が勝てば、互いに見知らぬ人、ことによると日常で敵対的立場にある人たちが喜んで握手したり抱き合っている。甲子園なら、まだ関西の地縁的共同性があるでしょうが、それは神宮球場にはありません。また活躍する選手が外国人であろうが、構わない。時にはアメリカ人の観客も一緒に騒いでいます。彼らが共有しているのは、タイガースの過去の栄光というよりも悲惨の記憶です。最近流行の内田樹は、80年代の柄谷行人の理論を結婚式のスピーチにもってこいの言い回しで大衆化しているにすぎない。もっとも、両者の論考はエマニュエル・レヴィナスやルネ・ジラールな共通のテキストに負っているという事情もある。けれども、この光景は90年代以降の批評の低迷をよく物語っている。 友愛は近代的な「共生感」である。地縁や血縁、身分、宗教などに基づくのではなく、それを断ち切って協同意識を形成する。友愛は「国民」と共に「市民」の起源でもある。そのため、「自由・平等・友愛」という近代の理念の一つに挙げられる。 もちろん、この三つの理念は無条件に両立するわけではない。互いに矛盾し、対立もすることもある。この調整が各種の近代的政治思想として形成されている。 自由主義にとって、友愛は「市民」を形成し、市場経済が「神の見えざる手」に導かれるために、不可欠である。アダム・スミスが「同感(sympathy)」と呼んだのも友愛と見なせる。 倫理学者だった彼は『国富論』に先立って、1759年、『道徳感情論』を公表し、「競争」と「同感」の関係について次のように述べている。 富と名誉と地位をめざす競争において,かれは彼のすべての競争相手を追いぬくために,できるかぎり力走していいし,あらゆる神経,あらゆる筋肉を緊張させていい。しかし,かれがもし、競争相手のうちのだれかを、おしのけるか、なげたおすかするならば,観察者(見物人)たちの寛大さは、完全に終了する。それは,フェア・プレイの侵犯であって,かれらが許しえないことなのである。この相手は、かれらにとって、あらゆる点でかれとおなじ程度に善良なのであり、だからかれらは、自分をこれほどまでこの相手を優先させるかれの自愛心に、はいりこまない(同感しない)のである。シンパシーは利己心の否定ではない。それは肯定されたことによって生じた新たな感情である。競争なんだから、何をやっても勝てばいいということにはならない。自分の利益を追求するため、相手を妨害すなどもってのほかである。公正で中立的な観察者、すなわち世間が「同感」を示す範囲内で全力をつくさなければならない。人はそれぞれ己が大事だとしても、観察者にとっては、すべての競争相手は平等である。 市場の自動調整メカニズムは、このシンパシーがあって、初めて機能する。野放図に自由放任にしてしまえば、「フェア・プレイ」が侵犯され、貧富の格差は拡大する。友愛は市場経済と相反しない。むしろ、友愛をないがしろにするとき、市場経済は機能不全に陥る。 自由と平等はよく論じられるものの、友愛は取上げられることが少ない。しかし、友愛は資本主義の発展の中で生まれてきたのであり、それを考察することはそのあるべき姿の再検討につながる。企業や政党、政治家のモットーにとどまるものではない。リーマン・ショックを経験した今、友愛が現実の資本主義においてどのように現われる必要があるのかは重要な課題である。2009年5月19日、桜井正光経済同友会代表幹事は「『友愛』は理念の話。会社が生き残るためには経営方針と経営戦略がある」と述べ、また、同月21日には町村信孝前官房長官は「友愛」を「ほわっとした言葉」などと言い表したが、彼らはまず「阪神とヤクルトの試合で、神宮球場のレフト側」に行ってみるべきだろう。 われわれは、いわば自分自身の自然の立場からはなれて、自分自身の感情や動機を、一定の距離をおいてながめるように努力するのでなければ、けっして自分の感情や動機を調べることもできず、それらについてどんな判断をつくりだすことも出来ない。しかし、そうするためには、われわれは、他人の目をもって、すなわち他人がわれわれの感情や動機をながめるとおりに、それらをながめるように努力する以外に、どんな方法もありえない。 (『道徳感情論」) 〈了〉参考文献 柄谷行人、『批評とポスト・モダン』、福武書店、1985年 柄谷行人、『〈戦前〉の思考』、文藝春秋、1994年 水田洋、『アダム・スミス』、講談社学術文庫、1997年 |