事業仕分けと科学技術 佐藤清文 Seibun Satow 2009年12月5日 無断転載禁 本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。 |
「気前のよさは、多くのものを与えることではなく、折りよく与えることである」。 ラ・ブリュイエール『人さまざま』 2009年11月に実施された事業仕分けは「プリンシパル=エージェント理論(Principal-Agent Theory)の実践例である。仕分け人が明らかにしようとしていたのは、「エージェンシー問題(Agency Problem)」にほかならない。 雇い主が自分の利益のために労務を代理人に委任する場合、前者を「プリンシパル(Principal)、後者を「エージェント(Agent)」 と呼ぶ。エージェントがプリンシパルの利益に反して、自身の利益を優先した行動をとることを「エージェンシー・スラック(Agency Slack)」と言い、エージェンシー問題はそれが生じている状態を意味する。 エージェントたる官僚がプリンシパルである納税者の利益を損ねて、自分たちの利益を優先させているのではないかという疑念に対して、公開の場で説明させて、それに基づいて妥当性を仕分け人が判断する。エージェント・コストが適当であるかを査定するのが事業仕分けである。 中でも、最も注目を浴びた事業の一つが次世代スーパー・コンピュータの開発凍結だろう。計算速度毎秒1京回スパコンを2012年までに完成させるという計画に対して、行政刷新会議が予算の大幅削減を判定している。この件に関して科学界のみならず、メディアからも批判の声が上がっている。 しかし、現在のスパコン・ランキングで日本は決して高くない。2009年11月に合評された「TOP500」において、トップはアメリカのオークリッジ国立研究所に設置されているクレイ社製の「ジャガー(Jaguar)」で毎秒0.1759京回、日本はと言うと、NRC社製「地球シミュレータ」の毎秒0.0122京回の31位がやっとである。この国産スパコンは同年の6月段階では22位であり、わずか半年で9位もランキングを下げたことになる。しかも、2009年5月には日立とNECがスパコン事業から撤退し、富士通のみが続けている。この現状で、目標は達成できるのか、さらに他国はそれ以上のスパコンを完成するのではないかなど疑問は尽きない。 スパコン開発には、計算速度だけではなく、コストや消費電力なども考慮しなければならない。また、これだけ巨大なシステムになれば、ハードウェアとソフトウェアを同時進行で開発して、最適化する協調設計、すなわちトップダウンとボトムアップの協調が不可欠である。これらの点でも従来のスパコン・プロジェクトには疑問が残る。 残念ながら、今回の件でメディアからスパコンをめぐる状況を伝える報道はあまりなされていない。中には、スパコン予算への仕分けに物申しながら、その後で、星座占いや血液型占いを放映する番組さえある。科学リテラシーの何たるかを考えないまま、科学技術をとりあげている。 一般の市民の多くは、計算機科学どころか、コンピュータによる数値計算に関する基礎的知識も持ち合わせていない。ライプニッツの公式はマチンの公式に置き換えなければならないとか、積分の計算では一般的に適用できる補正がないとか、そもそもブール代数さえ承知していないだろう。こうした市民と科学者や行政官の間には大きな隔たりがあり、それが埋まらないまま、スパコンをめぐる事業仕分けが報道され、論議されている。 次世代スーパー・コンピュータの問題は、科学者と行政官が惰性のまま従来の開発計画を続け、抜本的な見直しも図らず、真に有効な方法を打ち出せなかったという点にある。問われているのは科学技術と民主主義の問題である。 核物理学者の故アルヴィン・ワインバーグ(Alvin Weinberg)は、1972年、「トランス・サイエンス(Trans-science)」を提唱し、科学技術と民主主義の問題に一石を投じている。彼は、『サイエンスとトランス・サイエンス(Science and Trans-science)』において、原子力発電所を例に挙げ、科学技術の問題の中には、科学だけでは解決できないものが増加しており、それには科学を超えた次元、すなわち「トランス・サイエンス」での議論が必要だと主張する。科学には問えるが、自分たちだけで答えを出すことができない問題がある。それに対しては、科学と社会は相互作用を通じて何らかの合意を形成するほかない。このオークリッジ国立研究所教授は、以上のように、科学技術の問題における市民参加という民主主義の重要性を説いている。 科学者集団と行政官は、これまでこのトランス・サイエンスの次元での議論に積極的だったとは言えない。少なくとも、スパコンに関しては専門性が高いという理由で聖域の扱いである。そういった事業にこういう判断が下されてもやむを得ない。これはスパコン開発の意義が否定されたわけではなく、今のやり方は適切ではないという指摘である。 むしろ、興味深かったのは、11月26日、首相官邸を6人のノーベル賞科学者が訪れた際に、切々と訴えた官僚と業界の癒着や天下り、大学幹部の研究費のピンはねによって科学技術が食い物にされているという実態である。科学技術は中長期的な展望が不可欠であり、事業仕分けになじまないという官産学複合体の主張は、エージェンシー・スラックをごまかす言い訳にすぎない。科学技術と民主主義の問題を真剣に考えないと、科学技術の堕落は止まらない。 加えて、市民にも積極的な姿勢が望まれる。研究後期から参加する「ダウンストリーム・エンゲージメント(Downstream Engagement)」だけではなく、その前期から参加する「アップストリーム・エンゲージメント(Upstream Engagement)」も模索されている。それには、当然、市民の間に科学リテラシーが必要となる。科学技術に関してただ漫然と直観的な意見を口にするのではなく、科学技術と民主主義の問題に参加するための科学リテラシーを身につける必要がある。 今のところ、科学技術と民主主義の問題がメディア等で盛んに議論されてはいない。しかし、今回のスパコンの件はこれを深めていく絶好の機会である。それに比べれば、国産スパコンが世界一を目指すかどうかなど小さい。 〈了〉 参考文献 西尾勝、『行政学 新版』、有斐閣、2001年 Alvin M. Weinberg, “Nuclear reactions: science and trans-science”, Minerva, 1972 TOP500.org http://www.top500.org/ |