自動車と電子制御 佐藤清文 Seibun Satow 2010年3月7日 無断転載禁 本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。 |
「いったい何が感覚以上にわれわれに情報を与えることができようか」。 ルクレティウス『物の本質について』 トヨタ車がドライバーの意思に反して急発進する原因として、米議会などは電子制御部品の欠陥に疑問を呈している。それに対し、世界最大の自動車メーカーはその推測を否定している。いずれの言い分が正しいかは、現段階で、不明である。 実は、停止性の確認はコンピュータ・プログラムにおける問題の一つである。イギリスの数学者アラン・チューリングは、1936年、現在のコンピュータの原型とも言うべきチューリングマシンを考案した際に、停止性判定プログラムの不可能性を明らかにしている。自分が停止していると動いているプログラムが判定することはできない。この停止性問題は、いわゆる嘘つきのパラドックスのヴァリエーションである。「私は嘘をついている」。「停止」の確認は、コンピュータ・プログラムにおいて、非常に本質的な問題である。 自動車にコンピュータ組み込まれるようになったのは、1970年代からで、そのきっかけは排気ガス規制である。従来、燃料と空気を混合するのをキャブレターにだけ任せていたが、それでは新たな規制をクリアすることは不可能に近い。そこでコンピュータを使った電子制御のアイデアが採用される。この成功に伴い、電子制御が他の部分でも使えるようになっていく。 しかし、自動車とコンピュータはその発想が根本的に違っている。前者が工学的であるとすれな、後者は理学的である。 自動車製造はいわゆるものづくりに属する。その設計では、いかに精緻であっても、組立公差が許されている。機械工学において、基準値に対してある範囲までならば、値の上下が許容されている。公差とはその最大値と最小値の差のことである。 一方、コンピュータはプログラムによって動く。プログラムを記述する差異には、一文字間違えていても、コンピュータは期待通りに動作してくれない。公差は許容されていない。しかも、さまざまな情況を考慮して、プログラムを書く必要があるが、そうなれば、当然、巨大化する。現実に騒動してくれるかどうかをタフなテストによって調べるけれども、不具合があった場合、その問題箇所を見つけるのは難しい。その上、プログラマは、時々、制御にばかり気をとられて、実際の走行ではありえない場面まで想定し、無駄に複雑にしていたりする。 自動車とコンピュータでは設計の発想がこのように異なっている。現代の自動車は機械工学と情報科学という根本的に違う二つの発想によって支えられている。両者の間にもはや主従はない。自動車において電子制御の重要性はさらに増していくだろう。今回の問題が電子制御であるか否かだけでなく、メディアには自動車設計に関するこうした点の報道も求められる。 それにしても、今回のトヨタの説明はいただけないものが多い。自動車の運転には、人間の感覚が大きくかかわっている。外界の変化を感覚を通じてフィードバックループをしながら、運転する。人間の感覚は繊細で、情報処理速度も速く、それを完全に数値化するのは難しい。この感覚にいかに応えるかがも電子制御の課題である。トヨタ品質保証担当の横山裕行常務は、2010年2月4日、一連の不具合の原因をドライバーの「感覚の問題」と記者会見で釈明したが、かりにそうだったとしても、この応答は現代の工学デザインを理解していないと言わざるを得ない。設計をループではなく、リニアに考えているからだ。その後、豊田章男社長はこの見解を撤回したけれども、感覚の重要性を認識していない幹部たちの感覚に問題があることにも気づくべきだろう。 〈了〉 参考文献 福田収一、『デザイン工学』、放送大学教育振興会、2008年 守屋悦明、『チューリングマシンと計算量の理論』、倍風館、1997年 |