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戦争と社会階級
第3章 The War BelieverA

佐藤清文

Seibun Satow

2010年3月25日


無断転載禁


 1944年9月、パリ解放直後、シャルル・ド・ゴールを主席とする臨時政府が成立する。45年10月に発足した憲法制定国民会議でも将軍は引き続き首班に指名され、11月、共産党・人民共和派・社会党による反ファッショ連合政府は結成される。ところが、翌年の1月、ド・ゴールは、議会権限の強い憲法草案をめぐって他勢力とぶつかり、辞職する。

 ド・ゴール将軍は政党政治に批判的で、超然主義の姿勢をとっている。しかし、それはいささか時代離れしている。確かに、19世紀、民主主義が衆愚政治と同義語として使われている。

 合衆国第4代大統領にして政治思想家のジェイムズ・マディソンは、政党政治を特定集団の利益を優先する多数派の横暴として厳しく斥けている。20世紀に入ると、一党独裁を絶対視する政治体制を別にすれば、政党政治は民主的な制度として広く認知される。もっとも、ド・ゴールも柔軟な政治家であり、政党政治に不満を抱きながらも、後に、新共和国連合(UNR)を結成している。

 1947年1月、第4共和政がスタートするものの、先の三派の対立と小党乱立、冷戦の激化によって短命政権が続く。フランス共産党は何度か第一党になって政権に参加していたが、48年以降、下野する。人民共和派(MRP)はカトリック系の政党として出発したけれども、右傾化して党勢が衰退している。それに代わって、ゴーリストが進出していく。

 社会党は彼らの挟み撃ちにあいながら、勢力を維持しようと懸命に励む。戦争はこの不安定な国内政治の産物である。
 ロダンの考えは手段と目的を入れ替えている。戦争は手段であって、目的ではない。

 戦争の勝敗は、戦闘の勝ち負けではなく、政治的に決定される。スエズ動乱がその典型例である。

 1956年、ガマル・アブデル・ナセル大統領がスエズ運河の国営化を発表すると、英仏とイスラエルが軍事攻撃し、エジプト軍は壊滅寸前に追いこまれる。しかし、米ソがこの三国を牽制し、国連も介入、連合軍は撤退する。エジプトは軍事的には完敗だったが、政治的には大勝利を手にする。フランスは軍事的に勝ったけれども、この戦争を通じて人命を失い、金を無駄遣いし、国際的な威信を低下させるという政治的な大敗北を喫する。

 戦争の勝敗が政治的に決まるとすれば、遂行には民の支持が不可欠であって、それをなくしたとき、継続は不可能である。また、個々の戦闘自体が目的ではない、ある戦いで負けた場合、それをとり戻そうとすると深みにはまってしまうため、避けなければならない。

 ロダンの遠近法的倒錯は自分のアイデンティティを戦場に見出していることから生じる。孫子は「百戦百勝は、善の膳なる者には非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の膳なる者なり」と言っている。しかし、ロダンは戦争でしか食っていけない。孫子の教えは彼にとって存在の否定につながってしまう。彼にとって戦争の勝敗が政治的に決まるなどあってはならないことである。戦闘の勝敗が戦争のすべてである。

 ロダンは、1956年春、アルジェリアへ向かう。彼はそこでFLNおよびALNと野戦や都市ゲリラとのとの戦いに明け暮れる。この強敵を打ち破るには本国からより多くの支援が絶対必要である。アルジェリアはフランスであり、そのためには、本国がいかなる犠牲を払うのも当然である。「過激派のほとんどがそうであるように、ロダンもまた、自己の信念がすべてで、現実を冷静にみつめる目を欠いていた。増大する戦費、その負担に耐えかねているフランス経済、兵士の士気の低下といった冷徹な事実も、彼の目から見れば些事にすぎなかった」。

 一日約300万フランの戦費はフランスの経済・財政を破綻に追いこみ、社会危機を招く。1958年6月、国内の反戦気運に憤激した現地四将軍が中心となってアルジェリア駐留軍が反乱を起こし、コルシカ島を占拠、その鎮圧に向かった部隊まで同調、パリ進撃の構えまで見せる。

 瀕死の第4共和政は、その収拾のため、ド・ゴール将軍を政界に呼び戻し、国民議会は彼に6カ月間の全権委譲を承認、憲法改正を委ねる。ド・ゴール首相は、9月、大統領に強力な権限を与えた新憲法を起草、10月、国民投票で第5共和政を樹立する。12月、初代大統領に選ばれ、翌年1月8日に就任している。

 それは、ロダンのような狂信者にとって、待ちかねた瞬間である。軍人がフランスを統治する。すべての元凶である共産主義者は追放され、すぐに騒ぎ出す労働組合は屈服し、あの小うるさいジャン=ポール・サルトルは反逆罪に問われて銃殺刑に処せられる。アルジェリア同胞と駐留軍に対して祖国からの温かい支援の手が差し伸べられる。これで万事うまくいく。ベン・ベラに思い知らせてやるのだ。

 「フランスのアルジェリア」と言ってエリゼ宮に入った政界に復帰したド・ゴールであったが、決して愚かな政治家ではない。したたかでしなやかなリアリストである。アルジェリア民族解放戦線と休戦交渉を進め、60年9月にアルジェリアの民族自決の支持を発表し、61年の国民投票の過半数もそれを支持する。62年3月エヴィアン協定によって戦争の終決とアルジェリアの独立が承認される。

 しかし、右翼軍人たちはこれでは納まらない。アルジェリア各地で独立派へのテロを実行したのみならず、クーデターを計画する。中でも、最も過激な軍人や居留民、政治家たちは、1961年1月、マドリードで、「アルジェリアはフランス。

 これまでもこれからも」(L’Algerie est francaise et le restera)」を掲げて「秘密軍事組織(OAS: Organisation de l'armee secrete)」を結成する。この極右組織は、彼らが「ユダ」と見なすフランスの最高指導者の暗殺を何度も試みる。しかし、度重なるフランス官憲の厳しく執拗な追求によって組織は先細っていく。ロダンの「ジャッカル」計画は、消滅寸前のOASにとって、最後の賭けである。

 マルク・ロダンはこうした社会的・時代的背景の下で戦争でしか生きられないウォー・ビリーバーになっている。しかし、彼のようなタイプは決して珍しくはない。アルカイダを始めとする過激派に参加した元アラブ・アフガンズもそうしたウォー・ビリーバーの一例である。


つづく