二大政党の土壌 佐藤清文 Seibun Satow 2010年4月9日 無断転載禁 |
「国民は、政党政治の弊害は、果して制度其の物の罪なりや、将叉政治家其の人の罪なりやを深く辨別するに暇あらずして、早くも政治の現状に失望し、将来を悲観せり。此の失望と悲観とは我が国運の前進に恐るべき暗雲を投じたり」。 濱口雄幸『随感録』 第三極をめぐる議論に、小選挙区制についての考慮が付記される。小選挙区制は二大政党制をもたらしやすく、現職が有利という特徴がある。しかし、小選挙区制を採用する前から、近代日本の歴史を見ると、理由は定かではないが、伝統的に二大政党が存在している。 国会開設を念頭に、1881年に板垣退助を総理とする自由党、翌年には大隈重信を総理とする立憲改進党が結成される。これ以降、隈板内閣と大政翼賛会、終戦から55年体制以前の合わせて15年半弱を除いて、二大政党が存立している。 複数政党とイデオロギー的距離に基づくジョヴァンニ・サルトーリの分類によれば、55年体制の日本は一党優位政党制のカテゴリーに入る。確かに、社会党は政権をとる意欲がなかったが、総選挙で負けたときでも、3分の1程度の議席を維持し、自民党以外の政党と比較すると規模ははるかに大きい。 代議政治で、自らの主張を政策として実現するには、議会で多数派をとる必要がある。と同時に支持者の利害によってどうしても対立する議員勢力がいる。そのため、議会に複数の政党が存在するのも納得がいくところである。 しかし、三ないし四、五の中規模政党に収斂してもよさそうだが、日本では二つの大きな政党といくつかの小党という議会勢力に落ち着く。もちろん、この理由を日本人の気質などと主意主義的に理解すべきではない。 歴史を省みると、特徴的な傾向が見られる。二大政党はお互いを仮想敵としてアイデンティティを示して支持層を獲得している。他方、小党は忠誠心の高い組織票を背景にしている組織政党、アイデンティティに乏しいものの、政治の閉塞状況打開の風に乗っている流行政党の二つに分けられる。 選挙は、議員定数がある以上、誰かが得して誰かが損するゼロサム状況である。大政党と小政党では、結果の受けとめ方が違う。前者はライバル政党との議席数の差を問う相対利得、後者は現有議席の増減によって勝敗を判断する絶対利得に基づいている。 自由党と立憲改進党は、支持層も体質も異なっている。前者がフランス流の急進主義を志向し、懇親会的で、地盤は農村である。後者はイギリス流の立憲主義を目指し、政策集団の傾向が強く、支持層は年の商工業者・知識人である。政府の露骨な妨害にもかかわらず、第一回・第二回の総選挙では、この二党で議会の議席の半数以上を占めている。 明治憲法は責任内閣制を採用していない。首相は国会議員でなくてもかまわず、内閣は議会の勢力と無関係に組閣され得る。議会には内閣の人事権がない。そもそも近代国家として立憲主義の必要は認めながらも、藩閥政治家は政党政治に否定的な姿勢をとっている。帝国議会発足から日清戦争勃発の第六議会まで、内閣は藩閥に独占され、政党はその対抗勢力である。勢力区分にも与党と野党という概念を用いない。大成会などの政府系を吏党、他方、自由党や立憲改進党など反政府系を民党と呼んでいる。 しかし、議会が無力だったわけではない。近代において法律は議会で可決されて効力を持つ。中でも、税は租税法律主義に基づき、法律に定めていなければ成らない。また、予算は議会の承認を必要とし、しかも、衆議院の議決が貴族院に優先される。民党は政府提出の予算案に徹底的に抵抗し、政府は、カネとポストをちらつかせて協力を求めつつも、妥協を余儀なくされる。初期議会の政党は反政府=反藩閥勢力である。 戦前の首相選出の方法は、憲法上は天皇の大命となっているけれども、実際には元老期と内大臣期で異なっている。前者では元老による選任、後者においては内大臣の推薦に基づいて内閣総理大臣が選ばれている。 元老は天皇の最高顧問であるが、憲法上の記載はない。伊藤博文、黒田清隆、山県有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人である。首相は、当初、元老会議で選ばれている。しかし、政党政治期に入ると、最後の元老西園寺公望が一人で選出している。 この元老という制度は、藩閥政治家たちが近代国家建設を目指しながらも、思考の面で近世を引きずっていることを示している。武家政権では、成人男性は「おとな(乙名・長など)」と「若者」に区別される。政治において、前者が政治家であり、後者は役人である。 政治に携わるには十分な経験が必要であるというのがその理由である。家老は政治家、奉行は官僚である。「老」の入った役職は政治家と見て差し支えない。元老制度は、元勲たちが行政国家を目指し、自分こそが政治家であると考えていたことの現われである。 西園寺公望が1940年に亡くなって以後は、内大臣が中心的な役割を果たしている。内大臣は内閣発足時に宮中と府中の区別を制度化するために設けられた閣僚である。天皇を補佐、宮中を職務とし、府中(政治)にはタッチしない。 しかし、ポスト元老期には、次期首相候補を推薦する役目を負っている。それは重臣会議を経て決定される。重臣は法制上の規定はないが、枢密院議長や内大臣・首相経験者によって構成される。枢密院は大日本帝国憲法草案審議のために設置されたが、制定後も天皇の最高顧問機関として存続している。当然、憲法にその記述はない。 日清戦争後、政府は軍備拡張や産業振興の財源として増税をする必要に迫られ、政党との協力関係を模索する。1896年、第二次伊藤博文内閣は板垣退助に内相入閣を求め、次の第二次松方正義内閣は大隈重信を外相に起用する。 政党にしても、抵抗しているだけよりも、政府に参画すれば、予算配分にかかわることができる。藩閥政治家は議員でないので、自分の選挙区を持たない。他方、政党は選挙を通じて国政に参加する。公共事業を地方に誘導し、利益を分配することで、選挙地盤の強化・拡張が見込まれ、党勢を拡大できる。利益誘導型政治は戦後に始まったわけではなく、政党が政府に積極的に関与するようになったときから続いている。 1896年、改進党が中心となり、革新党・中国進歩党などの小政党が加わり、大隈重信を党首とする進歩党が結成される。さらに、自由党と進歩党が合流し、憲政党が創立され、1898年(明治31年)6月30日、大隈重信を首班、板垣退助を内務大臣とする第一次大隈内閣が発足する。この隈板政治が最初の政党内閣である。 しかし、内部対立が激化、わずか4ヶ月で政権は崩壊する。旧自由党系の憲政党と旧進歩党系の憲政本党に分裂する。1900年、政党政治やむなしと決断した伊藤博文を総裁とする立憲政友会が結成され、自由党派憲政党はこの政友会に吸収される。 政友会の第二代総裁が西園寺公望である。西園寺は、山県有朋閥の桂太郎と交互に政権を担当し、1912年まで続く桂園時代を築いている。山県有朋は終生政党政治を認めず、時代の流れを察知した桂の動きを牽制し続ける。 一方、本党は、1910年、立憲国民党へ生まれ変わったものの、13年に分裂してしまう。その後、首相の桂太郎自らが新党構想を発表し、それを受けて、立憲国民党の一部と中央倶楽部合同し、13年12月、加藤高明を総裁とする立憲同志会が結成される。 14年、第二次大隈重信内閣が成立すると、与党として閣内協力、翌年の総選挙で政友会を破り第一党に躍り出る。16年、政府・与党の間で新党構想が持ち上がり、同志会は尾崎行雄らの中正会と公友倶楽部と合同して憲政会へと発展する。 そんなことをして迎えた17年の選挙では。政友会が第一党に返り咲き、翌年、米騒動の責任を取って寺内正毅内閣が総辞職すると、政友会総裁の原敬が首班に選出される。彼は初の議会に議席を有する首相であり、原政権は近代日本で最初の本格的政党内閣である。 原の暗殺後、政友会の高橋是清が首相に元老から指名されたが、それ以降三代に亘って非政党内閣が続く。この流れに危機感を覚えた政党は世論の後押しも受けて、1924年、第二次護憲擁護運動を巻き起こし、時の清浦奎吾内閣を総辞職に追いこみ、同年に実施された総選挙で、中心となった護憲三派、すなわち政友会・憲政会・革新倶楽部が大勝、憲政会総裁加藤高明を首班とする第一次時加藤内閣が成立する。 27年、憲政会は、清浦内閣の際に与党入りするために政友会から分派した政友本党と合同し、立憲民政党が結党される。第一次加藤内閣から32年の犬養毅内閣までの8年間、政友会と民政党の二大政党を基盤とする政党内閣が続く。 政党政治と言っても、総選挙の結果を受けて首班指名が行われたわけではない。元老西園寺公望の裁定によって政権は、交代した後、少数与党の状態を解消すべく、総選挙が実施されている。何が何でもそれに合うように選挙結果を出さなければならないので、あられもないスキャンダル暴露や買収、地方官の更迭が横行する。これが政党政治への世論からの不信を招く主要因の一つである。 1928年、最初の普通選挙が実施され、その前に新党ブームが起きている。飛躍的に増加する有権者数を見越して、無産政党を始め各種の新党が結成される。中選挙区制は少数代表を生み出す。二大政党制が崩れ、場合によっては、無産政党が議会を乗っ取るのではないかという予想もあったが、意外な結果に終わる。政友会218議席、民政党216議席と両党だけで議席の大半を占めるかつてないほどの大勝をし、無産政党はわずかに8議席を獲得しただけである。 新党に期待して分散どころか、むしろ、二大政党に票が流れている。以後行われた総選挙でも二大政党に票が集中する傾向が続く。第一回普選当時のポスターを見る限り、無産政党は自分たちは無産階級の代表だから投票してくれと訴えているだけで、理念や政策にはまったく触れていない。 一方、二大政党は無産政党に言及することはなく、お互いの政策を比較し、自分たちの政策のほうが優れ、政権担当する能力があるとていると主張している。選挙が激化した結果、以前にも増して各候補者が金を投入せざるを得ない。普選は選挙を消耗戦化させ、資金力のある二大政党だけが生き残っている。選挙は資金の争いと化している。 犬養毅首相暗殺後の斎藤実内閣から鈴木貫太郎内閣に至る間、政党政治家は政府から外され、政治を実質的に運営したのは官僚である。議会で、軍国主義化を批判する議員も見られたが、政党政治家は政策立案の場に携わる機会がなく、急速にその能力を失っていく。40年にはすべての政党が解散し、大政翼賛会が成立する。非翼賛会系議員も少数いたものの、議会は政府の追認機関に堕する。 戦後、政党政治が復活する。無数の政党が誕生し、多党化時代が幕を開ける。戦後一回目を別にして、選挙制度が戦前と同じ中選挙制が採用される。中選挙区制は、少数意見でも当選できるため、多党化に向いている。 戦前の経験を踏まえ、責任内閣制が導入される。日本国憲法は、内閣総理大臣は現職の国会議員であることが必須の条件であり、閣僚の半数以上も議席を有していなければならないと規定している。また、貴族院は参議院になり、選挙を通じて選出されるように変更される。 せっかく再開した政党政治であるが、15年のブランクは大きい。政党政治家には政策立案能力が乏しく、従来の議員だけでは困難である。そこで自由党総裁の吉田茂は、池田勇人や佐藤栄作など官僚を政治家に転出させる。これは戦前からの政党政治家を抑えこむ目的もあったが、政党が政策立案するには官僚の手が不可欠だという現状判断がある。 官僚から政治家へという転出ルートを自民党が引き継ぐ。戦後の政権政党は官僚と対立するのではなく、それと手を携えて勢力を拡大していく、自民党は政務調査会を設置、この政調で官僚出身の政治家たちが政策調査・立案を行い、省庁に対抗できる実力をつける。と同時に、この高度に専門化した議員は「族議員」として官僚や業界団体との親密すぎる関係を築く。脱官僚を掲げる小沢一郎民主党幹事長が政調を廃止させたのは、歴史的経緯を見れば、一理ある。 この多党時代、イデオロギーが近い政党同士がお互いを仮想敵にしてアイデンティティを明示しようとしている。民主党は自由党、より正確には吉田との違いを鮮明にしようとしていたし、社会党の両派は保守政党以上にお互いを批判している。しかし、反面、いずれの政党もアイデンティティが明確である。 1955年、憲法改正阻止を目的に左右の社会党が統一し、それに対抗するため、反社会主義を旗頭に保守政党が合同して自由民主党が結成される。55年体制が始まったわけだがが、日本の議会勢力は、実は、主な参戦国では特殊である。 アメリカやイギリス、旧西ドイツでは、共産党が議会勢力として活動していない。この場合、労働者階級を代表するのは、社会民主主義的な政策を採る政党である。アメリカであれば民主党、イギリスなら労働党、旧西ドイツでは社会民主党がそれに相当し、二大政党制の一方の極となる。 一方、フランスやイタリアでは、共産党が議会勢力として存在し、しかも強力である。一時的であるけれども、政権にも参加している。フランスで実施された総選挙で第一党だったのは共産党であるし、イタリア共産党は西欧最大の共産党である。この場合、労働者階級の政党は、言うまでもなく、共産党である。 いずれの国でも社会党は労働者階級を代表する政党にはなれず、保守政党と共産党の挟み撃ちにあう。そこで、ホワイトカラーやリベラル層からの支持を得るような理念や政策を掲げて一定勢力を確保し、それを背景に連立政権に参加する。 両国の共産党は、戦前から議会に議席を有し、戦時中を通してナチズムやファシズムに抵抗したという共通点がある。フランスでは、1936年、レオン・ブルム人民戦線内閣が組織され、共産党が政権に参加している。また、イタリアでは、1921年に創立時した共産党は、その直後の総選挙において、16人が当選している。どちらでも共産党が社会党を上回っているわけではなく、戦時下での抵抗運動が戦後の飛躍につながっている。 日本はこの二つのタイプとも異なる。共産党が議会勢力として存在するものの、議席数は社会党がはるかに多い。戦前の仏伊の議会勢力に似ている。これには、共産党が戦前に議会進出していなかった事情が影響している。社会党は、戦前に少数であったけれども、議席を有していた無産政党の流れを汲んでいる。ところが、社会党のアイデンティティの明瞭化は、仏伊の場合よりも困難を伴う。複雑な形成過程のために、自民党が社会民主主義的な政策をとり入れている。 おまけに、なまじ第二党で、総評の支援で当選してくる議員も多く、市民政党に舵を切ることもままならない。社会党は護憲平和に自らのアイデンティティを見出すほかないが、それも共産党のみならず、自民党の三木派や大平派と重なるところがあり、違いを鮮明にすることができない。とにもかくにも、自民党への批判票の受け皿となり、社会党は常に第二党の座を維持している。 東西冷戦が終結、バブル経済が崩壊した後の1993年、自民党が分裂、直後に行われた総選挙を経て、細川護煕非自民連立政権が発足する。もっとも、この選挙で負けたのは自民党ではなく、政権に参加した社会党で、議席を77と改選前のほぼ半分にとどまっている。38年ぶりの政権交代が実現したものの、非自民政権は長続きをせず、94年には村山富市自社さ連立政権が誕生する。 かつての仮想敵同士の自民党と社会党が政権協力し、55年体制は終わりを告げる。ただでさえアイデンティティの脆弱だった社会党にとって、この選択は致命的な帰結をもたらす。左派系を除く現職議員の多くが民主党へと移り、それに伴い、連合も支援先を変更する。96年の総選挙で社会民主党へと改称した同党は15議席の小党へと陥落する。 アイデンティティの弱さという点では自民党も同様である。もともと反社会主義で結党されたため、能動的かつ明確な自己を持っていない。自民党は社会党への対抗勢力として自らを規定している。社会党が衰退すれば、そのアイデンティティを失う。地域密着・利益誘導は、自民党ではなく、日本の政党が成長していった頃から続く体質であって、そこにアイデンティティを見つけることはできない。社会党の退潮は、当然、自民党の低落も招くことになる。 先の選挙で第二党になったのは新進党だったが、内部対立が激化して、97年、突然、解党してしまう。それに代わって、民主党が第二党の座に着く。民主党は政権交代・脱官僚をアイデンティティに自民党を軸とする連立政権に挑むが、なかなか実現できない。しかし、その間、各政党とも小選挙区制への適応を見せる。2009年の総選挙で、民主党が第一党となり、鳩山由紀夫民国社連立政権が発足する。アイデンティティの危機に陥っていた自民党は衰退に向っている。 選挙がゼロサム状況である以上、政党は相対関係によってアイデンティティを示さざるを得ない点がある。しかし、日本の二大政党はお互いに仮想敵として、それとの対抗によって、すなわち反作用によって自身を規定する傾向が強い。率直に言って、政党のアイデンティティが弱い。政党のアイデンティティは社会動態によって自らが立脚する政治的理論・実践を相対化するときに顕在化す。理論性が脆弱でも、実践性が希薄でも、明確化できない。理論に従属するだけなら教条主義であろうし、実践一辺倒では場当たりにすぎない。 仮想敵は具体的であるため、見えやすいが、相手に依存していることでもある。能動的にではなく、受動的に自らのアイデンティティを確認する。かりに投票を反作用として、まず否定を策定しその反動として肯定を見出すことによって、有権者の多くが行っているとしたら、自己規定のアイデンティティが弱い政党でも、得票数を伸ばせる。受動的評価基準で投票するなら、そこにはAと非Aがあるだけであるから、二大政党に収斂する。 言うまでもなく、投票行動は、膨大な研究が明らかにしているように、そう単純ではない。しかし、有権者もしばしば政界再編をして、各政党のアイデンティティをはっきりして欲しいと声を上げているのも確かである。いずれにせよ、選挙制度以前に、政党とそのアイデンティティの問題は、既存新規を問わず、党勢を左右することは間違いない。それを考えるほうが数合わせより先だ。 〈了〉 ・参考文献 天川晃他、『日本政治史─20世紀の日本政治』、放送大学教育振興会、2003年 玉井清他、『いつなぜ日本選挙制度/日本コレクション奇譚』、日本放送出版協会、2008年 濱口雄幸、『日記・随感録』、みすず書房、1991年 ジョヴァンニ・サルトーリ、『現代政党学――政党システム論の分析枠組み』、岡沢憲芙他訳、早稲田大学出版部、2000年 DVD『エンカルタ総合大百科2008』、マイクロソフト社、2008年 |