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本質的思考

佐藤清文

Seibun Satow

2010年4月28日


無断転載禁


 「思考の働きは、井戸を掘るのに似ている。水は最初濁っているが、その後澄んでくる」。
                          中国の諺

第1章 定義と理論

  情報化社会が進展していく中で、洪水のように溢れ出る情報にどう対処していいものか悩みあぐねて疲労困憊してしまう人も少なくない。この情報洪水にどう立ち向かえばよいのかを指南するビジネス書が数多く出版されている。

 今をときめく売れっ子の著述家でもある証券アナリストの勝間和代も、執筆活動を活発化させた2007年、『効率が10倍アップする新・知的生産術−自分をグーグル化する方法』を刊行し、その第2章を「情報洪水から1%の本質を見極める技術」としている。

 ビジネス書の言う「役に立つ」とは、本代はケチらず良書を読むことを薦める彼女はともかく、短期的に有用だと言う意味であり、中長期的には役立たないこともしばしばである。そうした本の売れ行きは溺れる者は藁をもつかむという先人の教えが正しかったと実感させるに余りあるほどである。

 本質的考察とは、その対象が何であり、何であり得るかを明らかにすることである。固有の核心をつかみ、潜在的な可能性を引き出す作業である。
 そのためには、定義を明確にすることが不可欠である。定義を曖昧にしておくと、議論がかみ合わなかったり、安易な拡大適用を招いたりして、非建設的な事態を招く。

 2008年に起きた秋葉原無差別殺傷事件を東浩紀や平野啓一郎は「テロ」と呼んだが、ほぼ無定義で、なぜこの事件がそのカテゴリーに入るのかはっきりしない。テロリズムは政治的意図と組織的背景を持ち、その帰属集団から賞賛される威嚇・破壊・殺傷行為と定義できる。こうすると、「粛清」や「キリング・フィールド」など国家の体制維持・強化を目的とした反対勢力の封じこめもそれに含めることができる。地下鉄サリン事件や9・11はこれらの要件を満たしている。

 もちろん、テロリストが単独犯であるケースも確かにある。その際、構成員でなくても、何らかの組織的な影響が認められることが前提となる。1995年にイスラエル首相イツハク・ラビンを暗殺したイガール・アミルがその一例である。彼は単独犯であるが、バル・イラン大学の極右サークルに参加している。

 テロリズムに組織的背景が要件である理由は、ユナボマー事件を考えれば、明瞭になる。「ユナボマー」ことセオドア・カジンスキーは、一切の政治的運動・組織とかかわらず、独自の文明論『産業社会とその未来(Industrial Society and Its Future)』に基づいて、1978年から95年に亘り、全米各地の大学と航空業界、金融関係者に爆発物を送りつけ、3人が死亡、29人以上が重軽傷を負った事件を起こしている。けれども、これはテロリズムに分類されない。

 政治的目的を掲げながらも、組織的背景と無縁な場合、自分が認められないことから生じる鬱屈した情念の爆発という個人的動機が大きいからである。捜査当局にとっても、このタイプはテロリストとプロファイリングも別扱いになる。

 秋葉原の事件に戻ると、そこには政治的意図も組織的な背景もなく、所属集団からの賛同もほとんどない。1976年の前野光保による児玉誉士夫邸セスナ機自爆事件の方がはるかにテロと見なせる。前野は「盾の会」の三島由紀夫に心酔していたことが知られている。

 東や平野の意見は浅はかなたんなる思いつきと思いこみにすぎず、実際、その後、「テロ」が一人歩きしただけで、議論の深まりを誘導していない。

 他にも、「団塊ニート」や「パラサイト・シングル」など無定義言説の例は枚挙に暇ない。日本のメディア上で流通している言説は定義が不十分な場合が少なくない。たんなるレッテル張りとして使われているにすぎず、建設的な議論を阻害する。こうした流行語は百害あって一利なしであり、その発信者はデマコーグである。

 確かに、自然科学であっても、実際には、基本概念を厳密に定義することは難しい。他のタームの関係性を説明しているだけの無定義述語も少なくない。ユークリッドの定義3「線の端は点である」はその一例である。そこで、ダフィット・ヒルベルトは、論理手順を厳密に形式化することで、定義によらない方法論を編み出している。

 数学者の仕事は新たな定理を発見することであって、定義に拘泥していては生産的ではないというのがその理由である。ヒルベルトは論証の客観性・確実性を助長するために、直観に依存せざるを得ない基本概念の定義を退行させたのであり、恣意的な主張の正当化が目的ではない。

 なお、この「客観的」とは専門家集団のコンセンサスのことである。以下でもほぼ同様の意味で用いる。

 どの対象でもその定義が一つであるとは限らない。モナドのようなものだ。定義は、主眼点の相違から、アプローチによって若干異なる。心理人類学者のロバート・アラン・レヴィン(Robert Alan LeVine)は、『文化・行動・パーソナリティ(Culture, behavior and personality)』(1973)の中で、「社会化(Socialization)」によせる観点や関心の違いからその定義が分かれていると指摘する。

 文化人類学は「文化化(Enculturation)」、パーソナリティ心理学は「衝動統制の習得(Acquisition of impulse control)」、社会学は「役割訓練(Role training)」とそれぞれ「社会化」を定義している。この三つの観点は決して相容れないわけではない。社会化のある側面に焦点を当てて研究するためにそう定義している。

 定義が規定されると、それを具体化するために、特徴や性質、傾向、機能、原則といった「原理(Principle)」を提起する必要がある。それに基づいて、「素子(Device)」が力や作用、動機などの「要因(Agent)」によって「構造(Structure)」を構成し、「条件(condition)」に従って異なった「形態(Form)」として顕在化する。これらの「つながり(Connectivity)」を体系化することが「理論’(Theory)」である。この探求は演繹的、すなわちトップダウンであるが、ボトムアップであってもかまわない。

 チャールズ・ダーウィンの進化論の成立過程を思い起こせばよい。ここで、「要素(Element)」や「原因(Cause)」を使わないのは、今日では、非線形現象のように、「要素還元主義(Reductionism)」によっては把握できない事象が認知されているからである。

 そういったケースでは、現段階で不明ではなく、因果関係としてのつながりの解明が不可能であるため、コンピュータ・シミュレーションによって再現するほかない。あくまでこの思索の流れは一つの理論モデルである。

 この理論モデルを「資本主義」を例に解説してみよう。資本主義は、私的な個人と営利企業が複数の市場の複雑なネットワークを通じて、財・サービスの生産と交換を営む近代的な経済プラットフォームと定義できる。

 これが機能するためには、近代的所有権の確立、自由で平等な近代的個人の保証、政府による干渉の最低限度化といった「原理」が不可欠である。「素子」である家計や企業などの各経済主体は、欲望という「動因」によって、市場に参加する。

 生産物市場・労働市場・資本市場の主要三市場を介して各主体の需給は、相互作用によって調整・組織化されて価格が決まる。この「構造」は、「条件」に応じて、商業資本主義や産業資本主義、金融資本主義など異なった「形態」として現われる。

 このように理論が形成されたとしても、これで完結するわけではない。「拡張(Extension)」・「補完(Complement)」・「変更(Change)」・「統合(Synthesis)」の四種類の検討が加えられる。

 「拡張」は核心を変えることなく、そこから同心円上に理論を拡大する方針である。次の「補完」は核心に修正を施して、可能性を引き出す改良的姿勢である。三番目の「変更」は核心を新たに変えてしまうことである。最後の「統合」は複数の核心を総合する弁証法的試みである。

 これを資本主義の精神に関する議論を具体例に説明してみよう。アダム・スミスは各個人が自己の利益や幸福を追求するなら、神の見えざる手に導かれて社会の利益と一致すると資本主義の精神を説く。

 ジェレミー・ベンサムは、人間の個人行動を快楽と苦痛の量的比較による「幸福の計算」と規定し、快楽主義を押し進め、アダム・スミスを「拡張」している。ジョン・スチュアート・ミルは、資本主義の効果的実現には社会的な制度・法の整備が必要だと「補完」する。

 マックス・ヴェーバーは、それに対し、資本主義の精神を快楽主義ではなく、プロテスタンティズムの禁欲主義に見出しているが、これは「変更」である。ハンナ・アレントは、この論議を踏まえて、個人的に禁欲主義的に労働に勤しんだとしても、蓄積された資本が社会的に浪費に回ってしまうと快楽主義と禁欲主義を「統合」している。

 それが何かとは単純に言い切れるものではないという主張は、怠惰・保身・無能であるかを隠しているにすぎない。確かに、定義に拘泥ばかりしていては生産的な論考につながらない。しかし、核心をつかんだ明確な定義は議論の共通の出発点となり得る。定義は本質的思考には欠かせない。


つづく